悪役令嬢は、聖女を最高の聖女にしてしまった
――王家の禁書庫には、未来を記した本がある。
そんな噂を、私は幼い頃から聞いていた。
もちろん、ただの噂だと思っていた。
王家が管理する禁書庫。
許可なく立ち入れば厳罰に処される場所。
ましてや、未来などという胡散臭いものが書かれた本が、本当に存在するはずがない。
そう思っていた。つい先日までは。
「……何よ、これ」
私は一冊の本を机に置いた。
古びた黒革の表紙。
金の装飾。
表題はない。
けれど、その本を開いた瞬間。
白紙だったはずの頁に、文字が浮かび上がった。
私は眉をひそめる。
そして――
絶句した。
『聖女ミレアの恋物語』
今月市井で見つかったという聖女の名前。
「…………」
私は一度、本を閉じた。
そして、もう一度開く。
同じ文字。
「……随分と趣味の悪い本ですこと」
私は椅子に腰掛けた。
興味本位で頁をめくる。
最初に登場するのは、一人の少女だった。
ミレア。平民の少女。
類まれな光魔法の才能を持つ、心優しい娘。
やがて聖女として認められ、王国を救う。
そして彼女の前に現れるのが――
『王太子レオナール』
私の婚約者だった。
「……なるほど」
私は読み進めた。
ミレアとレオナールは出会う。
互いに惹かれ合う。
そして、その二人の前に立ちはだかるのが――
『ヴィオレッタ・フォン・アーデルハイト公爵令嬢』
「…………」
私だった。
未来の私は、聖女を妬む悪女として描かれていた。
嫌がらせ。
侮辱。
陰謀。
果てには聖女を陥れようとする犯罪まで。
「……私、そこまで暇ではありませんけれど」
思わず呟く。
未来の私は、随分と性格が悪い。
いや。
性格が悪いという点だけなら、否定できない。
私は自分が善人だとは思っていない。
欲しいものは欲しい。
嫌いな相手には、それなりの態度を取る。
自分が損をしてまで他人を助ける趣味もない。
貴族として使える権力があるなら、当然使う。
だから「悪役令嬢」と呼ばれても、それほど腹は立たなかった。
私は読み進めた。
『ヴィオレッタはミレアを陥れようとしたが、すべて失敗に終わる』
『ついにヴィオレッタの悪行は明らかとなり、王太子レオナールは婚約破棄を宣言した』
問題は、その後だった。
『婚約を破棄されたヴィオレッタは、自らの過ちを深く悔いた』
『そして、ミレアとレオナールの真実の愛を祝福し、自ら身を引くことを決意した』
「……は?」
思わず声が出た。
静かな禁書庫に、私の声だけが響く。
もう一度開く。
読む。
閉じる。
「……私が?」
あり得ない。
「自らの過ちを悔いて?」
あり得ない。
「真実の愛を祝福して?」
もっとあり得ない。
「自ら身を引く?」
私はゆっくり立ち上がった。
「ふざけないでくださる?」
私が怒っているのは、婚約破棄ではない。
聖女に負けることですらない。
もっと根本的な問題だ。
「私は、自分の欲しいものを他人に譲るほど聞き分けの良い女ではありませんわ」
未来の物語。
その筋書き。
そして何より――
「勝手に私を、殊勝な女に改変しないでくださる?」
私は本を睨みつけた。
やがて。
口元がゆっくりと上がる。
「……そう」
私は理解した。
未来が決まっているのなら。
変えればいい。
私は再び頁を開く。
聖女ミレア。
未来では、私から王太子を奪う少女。
「あなたが王太子妃になる未来を、潰しましょう」
私は笑った。
「――あなた自身を、潰す必要はありませんけれど」
◇
聖女ミレア。
彼女を初めて見たとき。
ヴィオレッタが抱いた感想は――可愛らしい、だった。
淡い金色の髪。
透き通るような白い肌。
大きく澄んだ春の新緑を思わせる薄緑の瞳。
小柄で華奢な身体。
ほとんど化粧をしていないというのに、どこか目を引く。
そして何より。
その雰囲気が、庇護欲を誘った。
少し困った顔をすれば、誰かが助けたくなる。
不安そうに目を伏せれば、手を差し伸べたくなる。
本人に媚びるつもりなどないのだろう。
だからこそ厄介だった。
「ヴィオレッタ様、でしょうか?」
ミレアが小さく頭を下げる。
「ええ」
「初めまして。ミレアと申します」
「知っていますわ」
ヴィオレッタは彼女を上から下まで眺めた。
ミレアが少し緊張したように肩を縮める。
その仕草さえ可憐だった。
――なるほど。
これなら確かに。
男が放っておかない。
王太子が惹かれるのも、理解できなくはない。
「今日から、私があなたの教育を担当しますわ」
「教育……ですか?」
「ええ」
ヴィオレッタは微笑んだ。
「聖女として恥ずかしくない女性になっていただきます」
「はい!」
ミレアは素直に頷いた。
その笑顔を見て。
ヴィオレッタは心の中で決めた。
――完璧に仕上げて差し上げましょう。
もちろん。
善意ではない。
彼女を救いたいわけでもない。
ただ。
自分の未来を壊す女を。
自分の手で、別の場所へ追いやるだけだ。
◇
「次は税制ですわ」
「ぜ、税制……?」
「ええ、聖女となるためには必要な知識です。当然でしょう?」
ヴィオレッタは次々と教本を積み上げた。
税制。
外交。
法律。
貴族制度。
魔法政策。
軍事。
領地経営。
宗教。
社交。
一つ一つ、徹底的に叩き込む。
「この法律の問題点は?」
「えっと……」
「考えて」
「……地方領主の負担が大きすぎること?」
「それだけ?」
「……分かりません」
「では明日までに調べてくださいませ」
「はい!」
三週間。
一か月。
二か月。
ミレアは倒れなかった。
「ヴィオレッタ様」
「何でしょう?」
「この税制なのですが」
「ええ」
「魔物被害の大きい地域ほど税負担が重くなるのは、少し変ではありませんか?」
私は顔を上げた。
「続けて」
「魔物が多い地域は輸送費も高くなります」
「そうね」
「ならば税率を下げるだけではなく、魔物被害そのものを減らした方がいいのでは?」
「……どうやって?」
「聖女の光魔法を結界に使うのです」
私は黙った。
「そうすれば輸送路の安全が上がって、物価も安定すると思います」
「…………」
「ヴィオレッタ様?」
「あなた」
「はい」
「今の話、もう一度してくださいませ」
ミレアは同じ説明をした。
私は腕を組む。
そして。
「明日、財務官に会わせますわ」
「え?」
「あなたの案を聞かせて差し上げなさい」
「はい!」
ミレアは嬉しそうに笑った。
私はその顔を見ながら思う。
――おかしい。
こんなはずではない。
私は聖女になることを諦めさせ、田舎へ帰りたいと言わせるために教育している。
なのに。
この子…。
どんどん賢くなっている。
◇
「今日は孤児院ですわ」
「はい!」
「午後は病院」
「はい!」
「明日は南部の村」
「……はい」
「その翌日は魔物被害地域」
「…………はい」
「どうしました?」
「いえ……」
ミレアが少し遠い目をした。
「聖女って、大変なんですね」
「今さらですの?」
「思っていたより、ずっと」
「なら辞めます?」
「いいえ」
ミレアは笑った。
「やります」
私は少し意外だった。
孤児院では、子供たちの怪我を治した。
病院では、多くの患者を救った。
魔物被害の村では、結界を張った。
干ばつの村では、光魔法を使って農作物の成長を助けた。
最初は、私の命令だからやっていた。
けれど。
次第にミレアは変わっていった。
「ヴィオレッタ様」
「何です?」
「次は、どこへ行きますか?」
「……行きたいのですか?」
「はい」
ミレアは笑った。
「もっと助けたいです」
私は言葉を失った。
未来の書のミレアは、王太子と恋をする少女だった。
しかし。
今のミレアが一番嬉しそうな顔をするのは――
人を救えたときだった。
「……そう」
私は小さく呟く。
「なら、もっと働いていただきましょう」
「はい!」
私は知らなかった。
これが後に、
**「史上最高の聖女」**
と呼ばれる存在の始まりだったことを。
◇
私はさらにミレアを社交界へ連れ出した。
「怖いです……」
「何が?」
「皆さん、私を見ています」
「当然でしょう」
「平民だから……」
「違いますわ」
私はミレアの背筋を伸ばした。
「あなたは聖女だから見られているのです」
「……はい」
「堂々となさい」
キラキラとシャンデリアが煌めく元、
貴族たちはミレアを遠巻きに見ていた。
やがて、一人が近づいてくる。
「聖女様」
「はい」
「隣国との魔石輸出について、どうお考えですかな?」
ミレアの顔が強張るが、私は助けなかった。
むしろ、グラスを傾けながら見ていた。
「……現在は、我が国から一方的に輸出しています」
「ほう」
「ですが、隣国には我が国にない薬草があります」
「それが?」
「魔石と薬草を交換する協定にすれば、双方に利益があると思います」
貴族が目を丸くする。
「なるほど」
別の貴族が質問する。
「では神殿と王家の関係については?」
「聖女として神殿を尊重します。ただ、国政について最終的な責任を負うのは王家です」
そこから矢継ぎ早に質問が飛んでき、ミレアは答える。
分からないことには、
「勉強不足です。後日、改めてお答えします」
と答えた。
私は口元を上げた。
それでいい。
完璧である必要はない。
逃げないこと。
誤魔化さないこと。
責任を引き受けること。
それだけでいい。
気がつけば。
周囲の視線が変わっていた。
「聖女様は思った以上に聡明だ」
「平民出身とは思えない」
「いや、あの方は聖女だからこそ――」
「ヴィオレッタ様が教育をされたそうだ」
私はグラスを置いた。
「……困りましたわね」
ミレアがこちらへ来る。
「ヴィオレッタ様」
「何です?」
「ありがとうございました」
「何が?」
「助けてくださって」
私は笑った。
「私は一度も助けていませんわ」
「え?」
「全部、自分で答えたでしょう?」
「……はい」
「なら、あなた自身の功績ですわ」
ミレアが嬉しそうに笑う。
私は内心でため息をついた。
違う。
私は彼女を聖女そして王妃に相応しくない存在にするため、社交界へ連れてきたのだ。
なのに。
また一つ。
彼女の評価が上がってしまった。
◇
ある日の午後。
教育に疲れたミレアが、机に突っ伏した。
「ヴィオレッタ様……」
「何かしら」
「私……ちゃんとできているでしょうか」
「できていますわ」
即答だった。
ミレアは驚いて顔を上げた。
「……本当ですか?」
「ええ」
「でも……」
ミレアは少し迷ってから言った。
「私、自分が何を目指せばいいのか……分からないんです」
ヴィオレッタは手にしていたペンを置いた。
「そう」
それだけだった。
「……それだけですか?」
「ええ。今すぐ決める必要などありませんもの」
「でも、皆さんが私に期待して……」
「期待など、好きにさせておけばよろしいのですわ」
ミレアが目を瞬く。
「私は私ですもの」
「……」
「善人のふりをするつもりもありません」
ヴィオレッタは静かに続けた。
「誰かに好かれるために、自分の欲しいものを諦めるつもりもありませんわ」
「欲しいもの……」
「ええ」
ヴィオレッタはミレアを見る。
「欲しいものがあるなら、欲しいと言えばいい。嫌なものは嫌だと言えばいい」
「……」
「誰かを傷つけることになったとしても、自分で選んだことなら、自分で責任を取ればいい」
ミレアは黙って聞いていた。
「私は、自分の人生を他人に決められる女が嫌いなのです」
「……どうして?」
「簡単ですわ」
ヴィオレッタは笑った。
「親に決められたから。国に望まれたから。殿下に求められたから。
皆がそれを望んでいるから――そんな理由で、自分の人生を誰かに差し出すなんて」
そこで一度、言葉を切る。
「そんな生き方をするくらいなら、私は悪女で結構ですわ」
ミレアの瞳が揺れた。
「自分勝手でもいい。嫌われてもいい。間違えてもいい」
ヴィオレッタは立ち上がった。
「ただし、自分で選びなさい」
「……」
「自分の人生くらい、自分で決めなさいませ」
それだけ。
ヴィオレッタが自分の価値観を語ったのは、それが最初で最後だった。
「さて」
彼女は教本を開く。
「明日は外交史ですわ」
「えっ」
「泣き言は今日で終わりです」
「はい……!」
ミレアは慌てて本を開いた。
ヴィオレッタは小さく笑った。
――そう。
私はあなたを救うつもりなどない。
ただ。
自分の人生を、自分で選べる女になればいい。
◇
季節が一つ変わった頃。
ミレアは、もう以前の少女ではなかった。
可憐さは変わらない。
淡い金髪も。
春の新緑を思わせる薄緑の瞳も。
小柄な身体も。
相変わらず、庇護欲を誘う。
けれど。
その瞳には芯があった。
自分の考えを持ち。
自分の言葉で話し。
自分で決める。
聡明な聖女。
そう呼ばれるようになっていた。
そして。
ついに。
レオナールが動いた。
◇
「ヴィオレッタ」
王太子レオナールが、執務室を訪れた。
「何でしょう?」
「話がある」
「伺いますわ」
レオナールは苦しそうな顔をした。
「……私は」
言いにくそうに口を開く。
「ミレアを――」
「王太子妃にしたいのでしょう?」
「……!」
レオナールが息を呑んだ。
ヴィオレッタは微笑んだ。
「驚くことではありませんわ」
「なぜ……」
「分からない方がおかしいでしょう?」
ヴィオレッタは立ち上がる。
「では、どうぞ」
「……え?」
「婚約破棄なさりたいのでしょう?」
レオナールは言葉を失った。
やがて。
「私は……ミレアを愛している」
「そう」
「彼女と共に生きたい」
「そうですか」
「だから――」
「便利な言葉ですこと」
ヴィオレッタの声が冷えた。
「愛しているから。それで国が納得するとお思いですの?」
「ヴィオレッタ……」
「王妃に必要なのは、殿下に愛されることですか?」
一歩、近づく。
「それとも、国民に責任を負うことですか?」
レオナールが黙る。
「殿下は恋をなさっているだけでしょう?」
ヴィオレッタは微笑んだ。
「私は王太子妃として、国を背負う準備をしてきました。
その差を――『真実の愛』という四文字で踏み潰すおつもり?」
「……」
「ですが」
ヴィオレッタは静かに言った。
「私は殿下を責めませんわ」
レオナールが顔を上げる。
「どうぞ、ミレア様をお選びください」
「ヴィオレッタ……」
「その代わり」
ヴィオレッタは微笑む。
「殿下の選択には、殿下自身で責任をお取りくださいませ」
その言葉に。
レオナールは何も言えなかった。
◇
その日の夕方。
ミレアは王太子に呼ばれた。
そして。
「ミレア」
「はい」
「私は君を王太子妃にしたい」
ミレアは黙った。
以前なら誰かの期待に合わせて頷いていたかもしれない。
けれど今は違う。
彼女はゆっくり顔を上げた。
「……申し訳ありません」
レオナールが目を見開く。
「私は、王太子妃にはなりません」
「なぜ……?」
「私は――」
ミレアは胸に手を当てた。
「聖女として生きたいんです」
「……」
「この国には、まだ助けを必要としている人がたくさんいます」
ミレアは微笑んだ。
「私は、その人たちのところへ行きたい」
それは誰かに教えられた答えではなかった。
自分で選んだ答えだった。
「殿下を嫌いだからではありません」
「……」
「でも」
ミレアははっきり言った。
「私の人生は、私が決めたいんです」
◇
その夜。
ヴィオレッタは再び禁書庫へ向かった。
あの本を探す。
『聖女ミレアの恋物語』
見つけた。
ページを開く。
未来の物語は、以前と違っていた。
聖女ミレア。
王太子レオナール。
二人の結末は、もう書かれていない。
そして。
ヴィオレッタの名前があったページ。
そこには。
『ヴィオレッタ・フォン・アーデルハイトは――』
そこまでだった。
その先は。
真っ白だった。
「……」
ヴィオレッタはしばらく黙っていた。
そして。
ふっと笑う。
「当然ですわ」
未来など。
誰かに決められるものではない。
ましてや。
自分の未来を、自分以外の誰かが勝手に物語にするなど。
「私は善人ではありませんもの」
ヴィオレッタは本を閉じた。
「欲しいものは欲しい」
婚約者を奪われる未来は嫌だった。
だから阻止した。
使えるものは使った。
制度も。
教育も。
社交界も。
聖女という立場も。
何もかも。
「私は悪女ですわ」
それでいい。
悪女だからこそ。
誰かに決められた未来を、そのまま受け入れる必要などない。
ヴィオレッタは禁書庫を出る。
その背中には、もう未来の書など必要なかった。
「未来なんて――」
唇に笑みを浮かべる。
「私が決めますもの」




