光を渡す手
雨脚が強くなるたび、石畳の匂いが立ちのぼった。
任務の帰り、通りが灰色の世界に沈んでいく。
ふと路地の隅で、小さな影が倒れていた。青年騎士は足を止め、息を潜める。泥と血にまみれた少年が、細い腕を抱えて震えていた。
「……おい」
返事はない。
近づくと、少年の手がわずかに動いた。目を閉じたまま、助けを信じていない顔つき。その表情が、遠い昔の自分と重なる。
ためらわず外套を脱ぎ、そのまま少年を包んで抱き上げた。布の内側に、自分の体温がゆっくり移っていく。
「もう少しの辛抱だ。頑張れるか」
「……うん」
その一言に、幼い日の自分の声が重なった。
肩を貸し、雨の街を進む。教会の灯が見えたとき、雨音が少し遠く感じられた。
「手当てを頼む」
聖職者が頷く。お布施の金貨一枚を置き、騎士は踵を返した。
その背中に、かすかな声が触れた。
「あ、あの……! これ!」
振り向くと、少年が外套を両手で差し出していた。泥に汚れ、濡れた布はずっしりと重い。
「……汚しちゃって、ごめんなさい」
申し訳なさそうな声音に、青年は少しだけ笑った。
「それは、お前のものだ」
そう告げると、少年は言葉を呑み込み、その外套を強く抱きしめた。
外に出ると、雨が上がり始めていた。
掌に残っていたしこりのような重みが、ふっと消えた気がした。
★
季節がいくつも巡り、空の色はやわらかく変わった。
青年騎士は訓練場の喧騒の中で、今年入ってきた従騎士たちを眺めていた。
「――レオンです!」
よく通る声だった。
その響きに胸の奥がかすかに鳴る。風が揺らぎ、陽光の下で、あの日の雨の匂いがふっと蘇った。
名乗りを終えたレオンは、迷わずこちらへ向かってくる。あの時の少年とは似ても似つかぬほど逞しくなっていた。
「やっぱり、あの時の騎士さまですよね!」
まぶしい笑顔に、言葉が遅れた。
レオンは袋を探り、古びた布を取り出す。
「これ、覚えてますか? 助けてもらった時の外套です。ずっと直しながら使ってました」
広げられた布には、何度も継ぎが当てられていた。縫い目は少し乱れているのに、どこか愛おしい手の跡がある。
「返さなくていいって言っただろ」
「……でも、これがあったからあなたと再会できたんです。雨のたびに思い出すんですよ」
その言葉が胸に静かに沁みた。
あの日の外套は、変わらずまだ息づいていた……。
★
任務で森に出た夜、二人は焚き火を囲んでいた。
風が火を撫で、光が輪郭を揺らす。
「俺、あの日のことがずっと忘れられなくて。……だから騎士になったんです。先輩みたいになりたくて」
レオンの声は、火の揺らぎよりも穏やかだった。
その横顔に、かつての自分がよぎる。
失恋で泣いた少年も、雨に打たれた従騎士も、今は静かに笑っていた。
「……そうか」
短い返事だったが、想いが詰まっていた。
火の中で木がはぜ、夜がゆっくり深まっていく。
帰還の道で、空が裂けるような音を立てた。
雨が一気に降り出す。二人は橋の下に避難した。
「ずぶ濡れじゃないですか」
レオンが慌てて外套を脱ぎ、こちらに掛ける。
「風邪ひきますよ、先輩」
その手の感触が、あまりに懐かしかった。
思わず笑う。
「お前、本当に成長したな」
「成長って……先輩のおかげですよ」
雨の音に混じって、声がやわらかく響く。
その瞬間、時間が静かに一周した気がした。
あの日渡した外套の温度が、今目の前で息をしている。
「ありがとな」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
けれど雨音が静かに応えた。
翌朝、空は嘘のように晴れ渡っていた。
濡れた鎧が光を跳ね返し、足元に空を映した水たまりができていた。
訓練場でレオンが笑っている。その背を見つめながら、青年騎士は胸に手を当てた。
そこに、まだ外套の温もりが残っている気がした。
優しさは誰かの心を通って形を変える。
それは失われない。
雨が降っても、光は渡されていく。




