雨音の届く距離
王国騎士団の養成院に入ったばかりの十五歳の従騎士は、初めての配属先でひとりの先輩騎士に出会った。
鎧を磨くときも、剣を構えるときも、先輩はいつも手を添え、言葉よりも静かな所作で教えてくれた。
その指先がわずかに触れるたび、胸の奥に小さな音が生まれる。
「お前、剣を持つとき眉間に皺寄せる癖あるぞ」
「……そうなんですか?」
「真剣なのはいいことだがな。せっかくのきれいな顔が勿体ねぇぞ」
「きれ……からかわないでください!」
他愛のない会話。穏やかな声が耳に残る。
午後、雨が降り出して訓練が中止になった。軒下で肩を並べて、雨を眺める。灰色の空と湿った風。
雨粒が石畳を叩く音が、なぜか心の中まで届いてくるようだった。
「焦って強くなる必要はないからな。お前の前には、頼りになる先輩たちがたくさんいるんだ」
そう言って先輩は優しく肩を叩いてきた。
その手のぬくもりが、夢の中でも繰り返し蘇った。
言えなかった言葉がある。
――先輩は、好きな人とかいるんですか?
喉まで出かかった声を、雨がさらっていった。
先輩はいつも気にかけてくれた。
食堂で余ったパンを持ってきてくれたり、他の騎士と衝突すればすぐに駆けつけて間に入ってくれたり。
夜の巡回で並んで歩くと、外灯の下で鎧がきらめいて見えた。
一度だけ大きな怪我をした夜、先輩が手当てをしてくれた。
「騎士ってのは、怪我を繰り返して強くなるもんだ」
「……痛いのは嫌なんですけど」
唇を尖らせて言うと、頭を撫でられた。
その瞬間、なぜか涙がこぼれた。
笑われるかと思ったが、先輩は何も言わず、額にかかる髪をそっと拭ってくれた。
ある雨の日──。
任務の帰り道で風に煽られて立ち尽くしていると、先輩の外套がふわりと肩に掛けられた。
「濡れて寒いだろ。貸してやる」
「乾かしたら返します」
「いいよ、お前にやる。そろそろ新しいのが支給されるからな」
外套はまだ彼の体温を含んでいた。
皮革の匂いと鉄の匂い、そしてかすかな陽の光の匂い。
重くて、温かくて、息をするのが少し苦しかった。
それは、雨に包まれた一瞬の夢のようだった。
世界が静まり返り、聞こえるのは雨音と心音だけ。
「先輩」と呼ぶ声が震えた。けれど彼は気づかず、前を歩いていった。
★
季節がいくつも過ぎ、従騎士は卒業を迎えた。
その日も朝から雨が降っていた。
鐘が鳴るころ、雲が割れ、光が街を包んだ。
広場の中央で、先輩は新しい鎧に身を包み、同僚の騎士と手を取り合っていた。──その陽光のなか、二人は静かに口づけを交わした。
世界が一瞬、止まった。
光が痛いほど眩しくて、その輪の外で見上げている自分の存在が急に薄れていく。
あの人が笑っている。
誰かのために笑っている。
どうして、泣くほど綺麗なんだろう。
胸の奥で何かがやさしく壊れた。
足が動かず、指先が冷たくなっていく。
歓声と拍手の中で、声を出すこともできなかった。
式典が終わり、群衆が去ったあと。
石畳の道に一人立つ。雨上がりの光が滲んで、世界がゆっくり色を取り戻していく。
外套を胸に抱いた。もう匂いは薄れて、布もくたびれている。
それでも、あのときの温もりがまだ掌の奥で呼吸している気がした。
この想いは、きっと誰にも届かない。
風が吹き、外套の裾が揺れる。
遠くで鐘が鳴り、光が滲む。
雨音が遠ざかるたび──伝えるはずだった「好きです」が、少しずつ形を失っていった。。
★
数年後──。
王都に春の雨が降る。
任務の帰り道、すっかり一人前の騎士になった青年は、古びた外套の裾を指先で撫でた。
布はすり切れ、色も褪せている。
けれど手放せなかった。
もう匂いは消えても、あの日の手に宿った呼吸だけは消えない。
雨音が石畳を叩く。少し冷たいその音が、どこか懐かしくて目を閉じる。
「先輩……俺、ちゃんと生きてますよ」
声は雨に溶けて消えた。
けれど胸の奥では、今も確かに雨音が響いていた。
――雨音の届く距離。
それは、いつかの優しさがまだ心に残る場所。
<針目の記憶>
外套の布を指でなぞる。
もう温もりはないのに、そこには確かに、あなたの時間が縫い込まれている。
針目の一つひとつに、雨の夜の声が眠っていて、指先が触れるたび、遠い音が胸の奥で鳴る。
冷たく、それでいて、やさしい。
それは、あなたがこの世界にいた証の温度。
この手は、もうあなたに触れられないけれど──
あなたをなぞることなら、まだできる。
そうして今日も少しずつ、自分の心を縫い合わせていく。
雨がやむたびに思う。
――きっと、あの針目の奥で、あなたもまだ、生きているのだと。




