第一部 第2話 永遠の一対 01
――ここ……だよね。
篠崎湖珠は、朱い鳥居を見上げた。
鳥居は、湖珠にとっては見慣れない、装飾のないつるんとした鳥居だった。
ただ四本の丸太を組み合わせただけの、神明鳥居と呼ばれる要式である。
神社の名は、『皇神社』と聞いていた。
その、噂を知ったのは、高校生の時だ。
湖珠は、この付近にある私立の女子高校に今年の三月まで通っていた。
――ねえねえ、ウチの学校の裏山ンとこ、神社あるでしょ。あの、公園みたいになってる緑地ンとこ。おっきいヤツ。
――あっ、知ってる知ってる。神主さんでしょ!
――そーそー。凄いんだって。何か、なくしたものとか、見つけてくれたり。
――お秡いとか。近所で有名なんでしょ?
――ええー。うっそ。それ、本物お?
――うっさんくさー。ヤバイよそれ。
――どんな爺さんなのよお。おっさん?
――違う。男の人だってよ、若い。
――三組のノリが見たって言ってたよ。なんか、むちゃくちゃ綺麗なんだって。
――きれいィー? 男があー? なにそれイケメンってこと?
――そういうんじゃないんだって。イケメンていうか、美人? みたいな?
――はあ? なあにそれ気色悪ぅー!
――誰か画像データ持ってないの。写真とか。それが本当ならネットに載ってそうだし、見てみたいんだけど。
――でさ、占いみたいなことすんの。当たるんだってサ。
――こわァ。あ、神主なら、呪いとか、頼むとやってくれたりして?
――うっそ。危ない話なんじゃん。ソレ。
クラスメイト達の、ちょっとした、たわいのない話だった。
そのときは、湖珠だって気にも止めていなかった。
考えてみれば随分と無茶苦茶な話だったし、噂話が人づてやネットを介していいかげんに面白可笑しく脚色されて、挙句の果てに暴走したとしか思えない代物ではないか。
当時は、確かにそう思って、遠巻きに戯れる級友たちを見ていたものだ。
けれど、今の湖珠には――。
噂話の真偽など知らない。
でも、もうそんな噂にでも、縋るしかない。
晩秋――。
目を細くして見上げる夕暮れの西の空は、電灯ごしに赤いセロファンを張りつけたように鮮やかだ。
影絵のような鳥居の向こうの秋空を見遣り、湖珠は軽く唇を噛んだ。
大丈夫、かな……。大丈夫、よね……。
それは今や、篠崎湖珠の、本当に最期の――一縷の望み、だった。
☆
石造りの階段を数段上り、鳥居をくぐる。
するとそこからまっすぐのびる参道の向こうに、狛犬と、拝殿と神殿が見えた。
そして紅の空の下、藍色の薄闇に没みかけた境内に浮かぶ――白い人影が在る。
夕暮れ時でもその人影が身に纏う衣装があまりにはっきりと白かったので、すぐに判った。
彼が――くだんの神主なのだ、と。
「あの……っ」
神主は、ひと気の絶えた境内で、茜の空を見上げていたようだったが、湖珠の声に気づいたのか、ふいに――湖珠の方を見た。
――え――っ……。
空の映す、紅の残光のもとにたたずむ神主の、その姿に、湖珠はぞくりとした。
それは寒気、悪寒、或いは――得体の知れない、なんとも言いようのない、快感。
「――はい。何か?」
微笑みながら、彼は言った。
柔らかな声だった。高くも低くもなく、耳にするりと入り込んでくる心地好い響き。
――ドンナ爺サンナノヨオ。オッサン?
――ナンカ、ムチャクチャ綺麗ナンダッテ。
違う、と思った。
体躯の感じから男であることは、判る。
だが、滑らかな曲線を描く輪郭は、幼さの抜け切らない少年のものだ。
そして、さらりと額に落ちかかる前髪の下から、切れ長の瞳が覗いたその瞬間には――空気が凍ったと思った。
恐ろしく、文字通り恐ろしく端整な顔だった。
鋭く深いまなざしが、薄闇の底から湖珠を見る。
それは一部の狂いもない完璧な――美貌、といってよかっただろう。
背は、さほど高くない。しかし頸や肩の線、肢体の均整に――隙がなく、その様は、まるで精巧緻密な設計を基に造られた人形のようだ。
湖珠は、まだ十九年ほどしか生きていないが、それでもこの世の中にこれほどの完璧な容貌を有する人間などめったに存在するものではないと、瞬時に確信できた。 故に息を呑まされた。
なんて、綺麗な。――いや、これはそんなものではなく、綺麗というより一部の隙もなく整いすぎて気味が悪いといったほうが、まだ早い――。
「神主、……さん……?」
その、湖珠の口をついて出たのは、間の抜けた問いだった。
明らかに年下とわかる少年に向かって。
いくら神職のような格好をしているとしても、神主であれば、一神社を預かる身であろうから、これほど若いはずはない。
だが、意外にも白装束の少年は、こちらに向かっていともあっさり頷いた。
「はい。そうです」
「!」
湖珠は、言葉に詰まった。続ける言葉が出てこなかった。
頷かれたら頷かれたで、一瞬のうちに頭が真っ白になってしまっていたので、何と言えば良いのかわからなくなっていたのだ。
神社の神主に会えたらといちおうあらかじめ用意していたはずの言葉も、何処かに行ってしまったことに、気づく。
ところが。
「おれで、貴方の援けになれますか?」
美貌の少年神主は、己の方からわずかに湖珠に歩み寄り、そんなことを言った。
まるで、わかっているように。
――否、それは湖珠の気のせいだったかもしれない。
けれど、少年神主がその刹那、美しい顔容に浮かべた表情が、そう語ったように感じたのだ。
形のよい唇をくっと歪めたそれは。
見てくれ通りのいわゆる笑み、というものではなく――何かを見透かしている、そんな表情ではなかったか――。
「時間があるなら、中へどうぞ。寒くなってきましたしね。……よろしければ、ですが?」
何でもないことのように、彼が言う。
中へ、というのは、神社の背後に見て取れる屋敷のことを示しているらしい。
たじろぐ湖珠を、促すように、くん、と少年が首を傾けた。
「どうぞ。こちらに」
そこから湖珠へと向けられているのは、お世辞にも優しいとか親しみやすいとはいえない表情だった。むしろ何処か傲然としていて、皮肉げにさえ、見えた。
――何なの……この、子……。
けれども、その少年のその表情は、文句なく完璧に、最もその、姿形に似つかわしく、ぞっとするほど。
魅力的で、蠱惑的――だったのだ。
少年神主は、皇柚真人と名乗った。
歳は十六。
高校一年生なのだそうだ。
湖珠が通されたのは、広い座敷だった。
おそらく少年の家なのであろうその屋敷は神社の裏手にあって、木造平屋建てのようであった。
だが、玄関からして無駄に広いとしか思えず、総じてどれくらい広いのかといったら見当もつかないほどであった。
その上、屋敷自体もえらく古めかしい。
柱も廊下の床板もすっかり磨かれて滑らかな黒い色を呈しており、それがそこここの照明の光を静かにしっとりと吸い込んでいて廊下は暗く、陰鬱だった。
おまけにこの季節とはいえ夕暮れ時にしては冷え冷えとしていたし、しんと静かだ。
通された座敷で座布団を勧められ、少女は腰を下ろした。
名前以外、少年は何も語らない。
その年齢で神主というのがやはりなんとも奇妙だが、それより何より、向かい合って部屋の明りの下で見ても、少年は間違いなく桁違いに端正で綺麗なのに湖珠は二度驚嘆した。まるで、透明な氷のように。冴える月光みたいに。
湖珠は、少年にやや見惚れさせられている自分を意識しながら、探して欲しい物があると告げた。
すると、
「……いいですよ」
と、少年が即座に頷いたので驚いた。
「貴女がなくしたものは何ですか?」
少年は、湖珠の向かいに端座したまま、向けてきた。
「こんなところに来るくらいだから、きっとよほど、大切な物、なんでしょう。大丈夫ですよ。見つけられると思います。それが……貴方の願いならね」
不思議な物言いだった。
耳飾……――と、湖珠は答えた。
その時。
「おや。お客様ですか」
廊下から第三者の声がしたので、湖珠はびっくりして振り向いた。
開け放たれたまま廊下に向かって開いていた襖のところにいたのは、背の高い眼鏡の青年だった。
思えばこれほど広い屋敷に少年が独りきりと云うのは可笑しいのだけれども、他の人間がいきなり顔を出したので、湖珠は驚いたのである。
長身の眼鏡青年は、少年を認めるとにこりと笑った。柔らかい感じの笑顔だ。
「お茶、お持ちしましょうか?」
「――ああ、そうだな。うん、頼む」
その青年が、少年と如何ような関係にあるのかは推測しかねるものがあった。
ただ、ごくごく咄嗟に、家族と云うにはそぐわないように、湖珠には思えた。
「ではすぐ、お持ちしますね。紅茶でよろしいでしょうか?」
明らかに年下とわかる相手に向けて、いやに丁寧な口調だったが、卑屈ではなかった。その雰囲気から、どうやらこれが、青年の普通の喋り方らしい、と湖珠は思う。
少年が軽く手を挙げ、青年が頷く。
その時だけ、少年の周りの空気が――ふいに、穏やかになったのが印象的だった。
それからほどなくして、よい香りのする紅茶が運ばれて来た。
青年は、テーブルの上に丁寧な仕草で紅茶を置くと、一礼して、さっさと部屋から出て行ってしまったが。
少年はその後、湖珠の名前を聞いただけで、他には何も訊かなかった。
たとえば、耳飾といっても――それがどんな物なのか。
いつ、何処でなくしたのか。何故それを探したいのか。――そういったことを何も。
そうして静かに、ひとくちふたくち紅茶を啜った。
湖珠にとって、それは不可思議かつ奇妙な時間だったが、実際のところどれくらいの間その屋敷に居たのかもよくわからなかった。
とはいえ、さしたる話をしたわけでもなかったのだから、ほんの少しの間だったのかもしれない。
「――コダマさん。シノザキコダマさん。それが貴女の名前ですよね?」
湖珠が玄関を出ようとしたとき――見送りに立った少年神主が、再度そう、問うた。
否、それはただ、湖珠の名を、呼んだだけだったのか。
去り際、いま一度、肩越しに見た微笑は、本当に、不気味なくらいに綺麗だった。
柚真人がからからと軽い音を立てて玄関の引き戸を締め、施錠したとき、背後で柔らかい、だがいくぶんかは棘もある声がした。
「いつもながらお見事ですねぇ。その外面」
「そりゃあどうも? 優麻サン?」
がらりと、少年の口調が変わる。いや、口調だけでなく声色さえも。
「どうなっても知りませんよ。貴方も……本当に懲りない人ですよね」
優麻、と呼ばれたのは眼鏡の青年だ。
青年は、自分を振り返った柚真人を玄関の一段高いところから見下ろしながら、呆れたように続ける。
「柚真人君のそういうところ、あんなに嫌がってるのに。司さん、また、怒るでしょうねえ」
「なあに。お前が口を滑らせなきゃあ済む話だろ。それにこれはおれの仕事でもあるし……おれは奇遇にのっただけだ」
あっさりと言う少年に、優麻は小さく眉根を寄せた。
「……苛めてるようにしか見えませんよ。わざわざ彼女が嫌がることばかりして」
「そりゃあ当たり前だ。嫌われるために苛めてんだから」
「……歪んだ兄妹愛ですよそれは」
「ああ歪んでるとも。わかりきったこと言うなよ」
言いながら、柚真人の口許は笑っている。
優麻にとっては、それが自嘲――否、ひどい自虐的にさえ見えることがあるのだが、彼がそれをこの、歳下の友人に言ったことはない。
司――というのは、柚真人の、ひとつ歳下の妹である。
「そういえば、今日は? 司さんは?」
「さあ。部屋にいるんじゃないの?」
妹について尋ねれば、少年は常に実に素っ気ない。
あるいは、そっけない素振りをする。
青年も、そのことはもうずいぶんと前から重々わかっていて、こんな会話を繰り返すのだが――へふ、と気の抜けたような奇妙な発音のため息をつき、優麻は踵を返した。
「それより柚真人君、それでは司さんもお呼びして、晩御飯にしましょう。私もお手伝いいたしますから」
「お前……。もしかしてまた、メシ食いに来たのか?」