第1話 道行
ふと。
とある神社の鳥居の前を通りがかった時、友人が鳥居の方へちらりと目をやり気にしたような気がした。
友人と肩を並べて歩く道は、毎日の通学路だ。
その道の途中に、さほど大きくも小さくもない、神社がある。
神社は緑の生い茂る木々に囲まれていて、そこにぽつんと小さな森が出現しているような趣があった。
友人の視線が気になり、
「どうかした?」
と訊いてみる。
友人は声をかけると視線を戻し、
「そういえば、なんだけどさ。ここの……神社のさ、神主さん? 宮司さん、ていうのかな。……知ってる?」
と言った。
「かんぬし?」
「うん、そう」
「……って、神社の……なんていうか、えらい人ってことだよね?」
「そう」
「……どうだろ。あんまり、そういうの気にしてこの神社の中に入ったことないし、ここ、とくにお祭りとかもないみたいじゃん? ……その、神主さん? が、どうかしたの?」
変なこと訊くな、とは思った。
ここは、お互いの地元でもない、ただ、一緒に通う私立高校のある土地の、学校の近くの駅から学校までの通学路の間にある神社だ。だからとくに興味もなければ、学校の行き帰り以外には通りすがることもない神社である。
そう思って訊き返すと、友人は、うーん、と何か言葉を探すようにひとつ唸ってから、
「あたしさー、子供の頃、一回なんかでここに来て、神主さん見たことあるのね。で、こないだもちょっとたまたま見かけてさ」
「うん」
「なんかこう……老けないなーって、思って」
「うん?」
「子供の頃と、なんていうか、まったく同じ人って感じがしたんだよね。……普通さ、十年も経ったら、さすがにこう、年齢の違いって感じない?」
「……うーん? ……まあ、それは多少は感じると思うけど」
「でしょ? でも、そうじゃなくて、記憶の中にあるのと、全然変わってないように見えたわけ。ぜんっぜん。……で、こう、あんなに老けた感じしない人っているんだなーって思っててさ。いまちょっとそれ思い出して」
全然、を妙に強調する友人の様が面白かった。
「てか、何歳ぐらいの人? 私、たぶんここの神主さんとか見たことないと思う」
「んー……二十五、六、……いってても八くらいかな。見た目の感じは、もっと若いかも。へたすると、大学生? ……みたいな感じ」
「へえー……?」
それはさすがに若いな、と感じた。
あと、ちょっとそれ意外と幅があるのでは? とも。
神社の神主さん、なんていうから、単純なイメージで三十代後半とかそれ以降を想像して話を聞いていた。そのくらいの年齢であれば、前後十年やそこらではあまり容姿に変化のない人もいるにはいるし。まあそれでも、さすがにまったく老けない、なんて印象はあんまりないと思うけれども。
さらに友人は、こうも付け足した。
「で、すごい美形なの。すっ――ごい」
「は?」
「ぎょっとするくらい整ってるんだよね、顔」
「はあ?」
「なんていうのかなあ……そうはいっても、イケメンとかって感じじゃなくてね。おんなのひとみたいにキレイ~、とか、俳優さんみたいにかっこいい、とかそういうんでもなくて。こう……気味の悪い感じに……整ってるの。なんか、ちょっと、人として整いすぎ、みたいな? 作った人形? とか? だから――昔みたときも、私は子供だったんだけど、すごい印象に残ったんだよね」
「――……」
なにそれ、と思って、ちょっとした間を返してしまった。
美形なのに――気味が、悪い?
それから、思ったままをぽんと口にして返す。
わずかに苦笑気味にさえなりながら。
「なーにそれ。吸血鬼とか?」
自分としては茶化したつもりも半分あった。
ところが友人は予想に反して真顔になって、頷くではないか。
「あっ、そうそう! そういう感じ!」
まるで意を得たとでもいうような反応に、自分としては肩をすくめる以外にどうすればいいというのか。だって。
「――いや、でもそんなわけないでしょ。そもそも吸血鬼なんているわけないし」
現実には、そんなものいるわけないし、老けない人間もいるわけがない。
友人の記憶だって、比べる対象があくまで子供の頃のことだというし、果たしてどれほど正確なものか。
歩きながら話しているので、くだんの神社はもうだいぶ後方になり、お互いの通学路の分かれ道となる電車の駅が近づいてきていた。
自分がひとことできっぱり言うと、友人はちょっとだけ目を見開いた。
そしてお互いに顔を見合わせるような感じになる。
「――まあ、それはそうなんだけどさ」
そう。
それはそう、という話だ。
それ以外に、有りようがない。
でも、まあ、それだけで話を終わらせてしまってもなんだか冷たい感じがするかな、と思って、
「時間的には、じゃあ、十年くらいのブランクがあってってこと?」
「かな。昔がいつだったのかはっきり覚えてないけど、私は5歳くらいだったかも」
「十年ぐらいじゃ、まあ――ときどき、老けたのがわかりづらい人って、いるじゃん。俳優とか、有名人でもさ」
「いるよねー、いるいる」
「そういうタイプなんでしょ。それに、子供の時って、そんなに年齢が上じゃない人でもすごい大人に見えたりするもんだし」
「ああ……まあ、それはそれであるけど」
「老け見えしないって、羨ましい話ではあるけどねー。あ、なんか、アンチエイジングとかすごい頑張ってるのかも」
「えー、神社の神主さんが? 男だよ?」
「最近は性別関係ないじゃんそういうの。それに、キレイな人なんでしょ? なら、なおさらあるんじゃないの。神主だって、人前に多少は立つ仕事だろうしさー」
「あー、まあねー」
友人とは、そこから少々話題がズレて、美容やメイクの話になっていった。
美容の話になっている間、整いすぎた顔、というのがちょっとだけ意識の隅に残っていた。
キレイ、ではなく気味が悪い感じに整いすぎた、ってどんなんだ? という具合に。
けれども駅について改札をくぐり、別々のホームに分かれて電車を待つために並ぶころには、思考はカバンの中の英単語帳へと移ってゆき――それきり、神社の話は頭の中から消えていった。
☆
夕暮れの空が赤く焼けるのが見えている。
あたりは、その赤く焼ける空の下で、迫りくる夜の闇にのまれるかどうかという様相だ。
しだいに夜の闇を迎えようとするこの時間。
ひとけなく、しんと静かな神社の境内に、ひとりたたずむ神職姿の宮司・皇柚真人は、この社――皇神社に独特の神事を終え、柏手を打つ。
その柏手の音が、空気を震わせ、波紋のように闇の中に広がっていき、消えていくのを待ってから、彼は踵を返した。
神社の背後にあたる位置にある、自邸に戻ると、玄関先でなにか夕餉のしたくらしい匂いをとらえた。
それを意識しながら、まずは水場へと向かい、潔斎を済ませる。
それから居間の方へと戻ってくると、見慣れた男が台所の方から顔をのぞかせた。
四十にはまだならないだろうかというくらいの年齢と見える、細い金属フレームのメガネをかけた男は、おそらくは今日もスーツ姿でここにやってきたはずだろうが、今はその上着を脱ぎ、ワイシャツの袖は肘までまくっていて、おまけに調理用のエプロンをつけている。
「……おまえすっかり所帯じみたな」
と、その姿にあらためて思うところを感じて言うと、男は穏やかな笑みを返してきた。
「……我々、それでもとりあえず『生きて』はいますからねえ」
その言葉を受け、いまさらなことが口をついて出たものだ、と自戒した。――そう、いまさら。この男と、自分はこうしてもう何年、時を数えてきたことだろう。
男の姿は、実のところ現在の、四十になるかならぬかの頃であろうという状態のまま、もう十五年ほどは歳を重ねていなかった――外見的な意味において。そして、男とともにある自分の姿もまた、同じように十五年ほど前から歳を重ねてはいない。
二人の時間は、二人が『そう』なることを選んだ時からこの世の理を外れ、二人は、ともに、この世に属するありとあらゆる命を紡ぐものとは違った時間の流れの中を歩き出していたのだ。
男はまだ夕餉の支度の途中を見受けられ、台所へと戻っていく。
それを居間から、見送りつつ――柚真人は、ひとつ、ちいさく嘆息を落とした。
彼の名前は優麻という。
この男と柚真人は、生まれた時からの付き合いだった。だが、こんなところまで突き合わせるつもりは、もともと柚真人にはなかった。
俺につきあう義理は無かったのに、と彼に向けたとき、彼が今しがたと同じように穏やかな笑みを浮かべながら、これは義理などではなく、貴方とともにあることが私の存在意義なんですよ、と言われたことを、柚真人はいまでもよく覚えている。
存在意義、と優麻はいう。柚真人も、その言葉が意味するところは理解し、受け止めてもていた。
――存在意義。そうではあろう。だとしても、わずかばかり、付き合わせてしまっているな、という思いがないわけではないのだ。
まあ、この男もそれはそれでちゃんと心得ており、逆にしっかりとこっちの中にあるそういう気持ちを利用してくることもあるから、おたがいさま、と評することもできるだろうが。
たどりつかなくては、と思う。
理を外れた時間というものは、明けない夜のようなものだ。とくに、今は。それを選び取ったときから、自分たちは闇の中に留まり、闇の中で一度は失った、しかし絶対に失ってはならなかったものを探している。
これは、それを取り戻すための道だ。行くのを決めたのは、柚真人。
なればなおさら、絶対に。
たどりつかなくては。そして、取り戻さなくては、と。
必ず。
失ったまま、諦めることなど毛頭選択肢にはあり得ず。奪われたまま、許すこともできようはずもない。だからこそなしたこの選択は。いわば、絶対の誓いにも等しい。
「――柚真人さん。すぐにお食事にします?」
台所からは、ふいに、柚真人のそんな決然たる回顧とはかけ離れたような、朗らかな声がした。
今、柚真人の傍らを常に離れずに歩いてくれる、この優麻という男はそういうところのあるやつで、それに日頃から助けられている部分も、柚真人にはままあった。付き合わせているなという思いはあるが、かといってともに歩くのであれば、この男をおいて他にはいなかっただろう。
その事実にも、改めて思い至りながら柚真人は、
「ああ、うん」
と答えた。
「つうか、今日はまたわざわざ何作ってたんだ。なんとなく匂いからして……酢豚的ななにかか。これ、黒酢だな」
「ご明察です。黒酢というところまで正解です。さすがですねえ」
「御託はいい。にしてもおまえ、料理のレパートリーもだいぶ増えたよな。昔は俺が作る飯をしれっと食いに通ってたくせに」
「そりゃ、『今』の貴方につきあいはじめてからだいぶ経ちますからね。柚真人くんからも、いろいろ教わりましたし。できることなら自分でもできるようになっておいた方がいいでしょう。もともと得手ではありませんでしたので、私としては、助かっていますよ」
「ま、お前がそういうならそれでいいけど」
「ビールは要ります? ご飯も炊きましたけど」
「お前が飲むなら」
「じゃあ出します。ということは、今日はこれでお仕事もないということですね」
「ああ、夜のぶんの依頼は無いな。神事もない」
「了解しました」
そうやって、軽いやり取りをしながら食卓につくことも、思えば優麻がいてこそできるようになった。
むろんこれは安穏たる日常のひとこまではない。
でも、ここまで歩いてくるためには必要で、この先も歩き続けるためにも必要な、日常だ。
闇の中には未だ一条の光もなく。
やみくもにでも、目を凝らすより他は、無い。