第一部 第3話 蔵姫追儺 06
警察がやってきた。
三条祐一が自分で呼んだ。
電話をしながら、こんなときに意外と自分が冷静でいられることに少なからず驚愕を覚えた。
救急車はもう、呼んでも仕方がないと、思ったのだ。
だって――死体には、必要ないものだから。
深夜だというのに、警察はすぐにやってきた。
あの嫌なサイレンの音が遠くから響いてきたときは、子供の頃に眠れなかった夜を憶い出した。瞼の裏に広がる、真っ赤な不安の色を、憶い出した。
夜中に聴くあの音が、嫌いだった。
遠くなったり近くなったりしながらそれが通り過ぎ、歪んだ響きが消えて行くのを、布団の中で待ったものだ。 子供の頃の祐一は、あのサイレンが何処かで鳴ると、必ず目を覚ましてしまったものだ。
コートを羽織り、玄関の常夜灯の下で、祐一はそのサイレンを――待った。
すべての真実を明らかにしてくれるはずの、救いの御手を。
そして――制服を来た警察官達が、無遠慮に自宅に侵入してくるのを、いま祐一はぼんやりと見ている。
銀色のケースを抱えた制服の警察官の他に、背広を着た警察官もいた。
刑事、というやつなのだろう。
制服の警察官は、その刑事らしき人物の指示に従って、何か作業を開始している。
その制服の上着の背中には、『警視庁』の文字が見て取れた。
ああ、本当に警察官なんだな、などと祐一は見当外れなことを思う。
封印されていた蔵は開け放たれ、見知らぬ人達が出たり入ったりしはじめる。
「三条……祐一君?」
「君が、電話をくれたんだったね」
紺色の制服を着た二人の男たちが、祐一に近付いてきてそう言った。
「はい……」
祐一は頷いた。
「ご遺体は、妹さんに間違いないの?」
「はい。……三条美佳です。間違い……ないです……」
男は、白い手袋を嵌めた手で、黒い手帳に何ごとかメモしているようだ。
つまり点……何が起こったんだ……?
よく、わからない。
祐一は軽く自分の頭を振ってみた。それがまるで重く感じて、頭蓋の奥が鈍く疼いた。
――何でこんなことになったんだ……?
妹の遺体が運び出されていくのが、見えた。
担架と青いビニールシート。
家族が。
父が、母が、そして祖父が、玄関の前でうなだれている。
「じゃあ、君は家族の方、頼むよ」
「はい」
祐一に質問していた男のうちのひとりは、先輩らしき刑事の言葉に頷いてそちらの方へ歩いていった。
「夜遅くって、大変だね。君にもいくつか質問をさせてもらいたいんだけど、いいよね?」
「……はい。……大丈夫です」
――終わるって……こういうことだったのか、皇。
蔵にかけられた、三条家の呪いは。
――これが、終り……なのか……!?
その時、蔵の方から「白骨死体だぞ」という声が聞こえた。
祐一は顔を上げた。
蔵の中から、別の若い男が顔を出している。蔵の外で、祐一にはよくわからない作業を始めていた警察官達が、またどやどやと蔵の中に入っていった。
白いフラッシュの光が幾つも幾つも瞬く。
それが目に痛くて、祐一は目をすがめた。
眩しい。
本当に何が何だかわからない。蔵の中で、妹の他にも誰かが死んでいたらしい――。
――子供だなあ、これも。
耳鳴りを感じた。
瞼を閉じればぐるぐると世界が回っているような感覚に襲われる。
――ごめんなさい。
――こりゃあだいぶ古いぞ……。
――おーい。
どこか遠くで誰かが、叫んでいる。
――ごめんなさい。
――蔵の二階だ。鑑識、写真!
――許してくれ。
誰かが、何かに謝っている。
――すまない……。
縋るように、細く乞うている。
――ごめんなさい……。
それが誰の声か――祐一には、もうわからなかった。
――ごめんなさい……。
三条允太郎――それが三条祐一の祖父の名である。
三条祐允太郎は、まだ若かった頃に妻を亡くし、後妻を娶った。
後妻には、連れ子があった。
それが、祐一の父親である。
他にも、兄弟姉妹があったかもしれない。
だが、先妻にも子はあった。先妻の遺児は、後妻の連れ子より幼く、まだ年端もゆかない少女だった。
やがて、允太郎と後妻、その連れ子は、先妻の子が疎ましくなる。
少女は後妻から母としての愛情を受けることがなかった。ことあるごとに少女は罵られ、過酷な労働を強いられ、暴力さえ受けた。
少女にとってそれは突然の転落だったに違いない。
母の死、父の豹変。
驚愕と恐怖。
そのような日々が何日も何日も続き、虐待は日増しにエスカレートしていった。
そして彼等は、ついにその幼女を折檻して、家の蔵に閉じ込めてしまったのだ。
翌日になって蔵の中を覗いてみると果たして少女はその中で生き絶えていた。
蔵の二階の、筵の上で、蹲るようになって死んでいた。
娘はまだ、十歳だった。
おそろしくなった家族は、そのまま蔵を封印してしまったのである。そして蔵の扉は『クラヒメ』なる祟りを以て封印された。
もともと、もう使われることなどなくなっていた古い蔵だった。そこで、家族は自分たちの罪を隠蔽するため、先妻の娘はどこぞへでも預けたことにでもしたのだろう。やがてそこへ嫁いだ妻も、それを知ることとなり、蔵の扉に触れる者に対する呪いをもってする禁忌がつくりあげられたのだ。
家族の秘密を守るための、祟りが。
☆
「お前――それじゃあ、三条は――」
飛鳥が瞠目して、柚真人を見た。
「騙されていたんだよ、自分の家族に。蔵に棲む祟りなんて最初からない。三条の家族は、自分たちの過去の罪をおそれて――娘を殺したんだ」
日曜日の午後。
優麻の勤務する弁護士事務所に程近い、ファーストフード店である。
昼過ぎとあって、店内はそれなりに混雑しており、ざわついていた。
柚真人と飛鳥、それに優麻は、日当たりのよい窓際の席を陣取っている。
飛鳥と柚真人は、日曜出勤の優麻を事務所から呼び出して、事の顛末を語っているところだ。
とはいっても、ひとり強硬に事の説明を要求している飛鳥に、無理やり連れてこられた柚真人である――といった方が、正しいのかもしれない。
それでそれで、と意気込む飛鳥は、隣に座る柚侯の方へ身を乗り出した。
向かいに対する優麻はというと、コーヒーなど啜りながら、なるほどと頷いている。銀縁眼鏡の奥の瞳は、いつものことだが笑っているように見えた。
「何、なるほどって? だいたいねえ柚真人。君にはなんでそういうことがわかるのかね?」
ドリンクのストローの端をがしがし噛みながら、怪訝そうな顔で、優麻の言葉に首を傾げる飛鳥である。
「最初に話を伺った時点で、柚真人君は彼の妹さんの状態に気がついていたようですよ」
現実には、起こりうることしか起こらない。
優麻が聞いた柚真人の言葉は、文字通り、そのままの意味だったということになる。
「へえ? ――そいつは凄いね。一体お前のその目には何がみえてるんだ?」
「何といわれてもな。別にこの目玉が見てるわけじゃあないから」
「ま、そうだろうけど」
「まあ とにかく、こういうことでしょう? その妹さんは、おそらく何かの拍子で蔵の鍵を開けてしまい……」
「そんなもんで開くのか? 土蔵の錠前が……。南京錠でもあるまいし」
「どうでしょう?」
飛鳥と優麻が二人して柚真人を見たので、柚真人は小さく肩を竦めた。
「そこはあまり気にしてもしょうがないね。見るべきは事実。三条の妹が蔵の中に居たのは動かしようのない事実なんだ」
「じゃあ、そういうことにしましょう。その、妹さんは土蔵の中へ入って遊んでいて、階段から足を滑らせるか何か――とにかく怪我でもして、再び鍵が掛けられた時点では気を失っていて、まだ助かる状態だったんですよ。ところが蔵の鍵が開いていることに気が付いた者が、これはまずいと思って状況を確認せずに施錠してしまったんでしょう。鍵を掛けたのは、お祖父さんの方ですか?」
「ああ――たぶん。そんなとこだね」
「だから柚真人、お前なんでそれがわかるのよ?」
「気にするな」
「――いいですか。けれども幼い子供を真冬の最中蔵に置き去りにすれば、一晩で凍死する。そんなことはちょっと考えれば誰にでもわかります。怪我を負って危険な状態にあることを知らなかったとしても、七日も閉じ込めておくのは殺意に等しいといえるでしょう」
「……? どういうこと?」
飛鳥が訊く。
「つまり、家族が不作為をもって娘を殺した」
「殺人、てわけ?」
「そうでしょう。事実として、被害者はその土蔵に閉じこめられてしまっていたわけです。蔵に施錠した時点で怪我を負った子供が閉じ込められていたことを知らなかったとしても、後それに気づきながらそれを放置したとあっては、結果を予見しながらそれを回避しなかったということになります。結果を容認した。つまり、通常は――凍えて死んでしまうかもしれないが、放っておこう――そういう意思が認められますから。『未必の故意』ともいえるでしょう」
「三条の妹は怪我もしてたろ。ま、推定だけどじいさんが鍵掛けたとき、中に誰が居るか全く気がつかなかったってことは、気絶してたとか、意識が無かったとか考えるのが自然だもんな」
「そうであっても、家族は妹さんの声を、聞いています。生きて、そこにいるという認識、閉じ込め続けたらどうなるかという認識はあったでしょう。殺意は否定できない。幼い少女を七日も放置するということは疑いなく殺人の実行行為に相当しますから、それは問題になりません。怪我は外気温の急激な変化は、互いにあいまって子供の死期を早めただけにすぎないことになりますし」
「……だけどさ? 死体って普通臭わない? 死んでたら、臭いとか……」
「この季節ですから。死体は冷えるだけでしょう。それとわかるほど臭うことはありませんよ」
「へええ。じゃあ、――え? 三条の親父や祖父ちゃんは……」
「もちろん……殺人犯ということになります。殺人の罪責を問われるでしょう、間違いなく。栄養失調の子供を閉じ込め放置した親にだって不作為殺人が認められるんですよ。三条の家族には、それでも蔵を開けられない理由があった。今閉じ込められている子供の命が危なくても、それと認識しながら放置した。……三条君だけが、家族の未必の故意を知らなかった。それに……気づいていたんですよね、柚真人君は?」
「そういう専門的なことはわからないけどね」
柚真人はそういって、困ったようにわずかに首を傾げた。
紙コップのコーヒーを口許に運ぶ。酸化したコーヒーの香りが飛鳥の鼻先をかすめた。
ファーストフードのコーヒーは、感動的なまでに不味いと、飛鳥は思う。
「でもさ。妹さんの声が何日経っても聞こえてたって三条いってたぞ。それ、てことは家族も聞いてるだろ。それでも殺意があったってことになるのかなあ?」
「細かいこと気にするなあ、飛鳥」
「いいですか? 現実に起こり得ないことは起こらない。被疑者の罪を立証するためには全く必要のない事柄です。それは『事実』にはなりえません。現実かもしれませんけどね。ありえないことを言ってみても――法廷ではまったく無駄です。検察側にとっては」
「あ、なるほど」
「彼等が殺人の罪に問われることにかわりはないでしょう。それが、まず『事実』というわけです」
「柚真人お前、そんなことまでわかってたの?」
「おれを千里眼みたいにいわないでくれよ、飛鳥。別になんでもわかっているわけじゃない」
「そうはいってもねえ。ふうん」
分かったような分からないような判然としない様子で、飛鳥は肩を竦めた。
一方の優麻は何を思うのか、どこか愉しそうである。
「ところが現実は、私の役には立ってくれます」
「……はあ?」
「その『声』はね。私には、39条という切り札がありますから。精神錯乱、罪悪感、責任無能力、なんでもありの、『ジョーカー』です。それさえあれば、無罪さえ争える。たとえまったくの無罪が難しくとも、量刑を争う余地は残るでしょう」
そして、優麻はコーヒーを飲み干しトレイに置くと、じゃあ、といって立ち上がった。
「頼むよ」
「あれ、どこいくの?」
「だからいま言ったじゃありませんか。接見ですよ。――そうでしょう? 柚真人さん」
そういわれると、初めて少年は少しだけ、悲しげな表情を浮かべた。
「……頼む。三条本人には、少々荒っぽいことをしたと思ってる。祟りによって蔵の秘密を守ることもできた。三条には、その道を選ぶこともできたんだ。おれが、呪いの解除を強いた」
「あなたの判断、正しいと思いますよ。そのままにしておいたって、しかたない。真実は、明らかにされるべきです」
「だけど……三条の生活が……な」
「その点心配には及びません。私は新米の勤務弁護士ですから事務所と相談しないと詳しい事は決められませんが、努力します。検察側が不作為殺人無期懲役でこようが必ず勝ってみせますよ」
腕の良い弁護士を紹介することぐらいしか、柚真人が級友にしてやれることはなかった。
「あとは、私の仕事です」
「それって、汚くない? 弁護士さん」
「そうですね。でも、橘君。……柚真人君が、なぜ私にこの仕事を頼むのか、本当のところがわかりますか?」
飛鳥は、首を振った。
「罪に問われることよりも、罪を贖う術がない方が、その者にとって最も重い刑になることもあるんですよ。それがまして、子供を殺した親ならば……ね」
「……」
「私なら、彼等に無罪を勝ち取れる。けれど無罪は、彼等をなお、責め苛むことになるでしょう」
優麻は、ひらひらと手を振って、店を出ていった。
「じゃあ、オレもここで」
「なあ、柚真人――?」
立ち上がりかけた柚真人を、飛鳥は制した。
知らなくてもいいことがあるのだろうが、それでもどうしても聞きたいことがあった。
「じゃあ、三条たちが聞いたっていう、その、『声』は……何なんだよ? 本当は。幻聴なのか?」
やはり――柚真人は、静かにひそりと笑っただけで答えなかった。




