第一部 第3話 蔵姫追儺 04
心の底から憂鬱になれるほどに良く晴れた朝だ――。
駅から学校までの、坂道を歩きながら、三条祐一はそう思った。
青々とした冬晴れの空が、忌々しいほどに眩しい。
妹があの蔵に閉じ込められてから九日が経ったのだ。
――お前か、鍵を持ち出したのは?
祖父が、蒼白な形相でそう言ったのは、一月一日の夜。
――お前が蔵の錠を開けたのか?
その時、父も母も、文字通り幽霊でもみたかのような顔で祐一を凝視していた。
それは、子供を叱責する親のまなざしではなかったように思う。祐一の知らないよそよそしさが、そこにはあった。
家の庭の隅にあるその蔵が、開かずの蔵であることは知っていた。
――おれ……鍵がどこにあるかだって知らないんだよ? どうやってあけるんだよ。大体開くのかよ、あんな古い錠?
今思えば矛盾したことを言った。妹が、美佳があの蔵の中にいるということは、どうやってか蔵の扉が開けられたということなのだから。
――鍵、あるのかよ? だったらいますぐ、開けりゃいいじゃん。美佳、出してやれよ。
だが祖父は――強張った表情で、ぶるぶると首を振った。できないというのだ。
――父さん?
拳が白くなるほど両の手を握り締めて父はうつむいた儘だった。
――母さん!
父とも祖父とも、そして祐一とも、母は目を合わせようとしなかった。
――どこなんだよ、鍵!?
誰も、何も応えてくれなかった。
――駄目よ、祐一。
視線を遠く彷徨わせたまま、母が言った。
――蔵は、あけられないの。『クラヒメ』様が、お怒りになるわ。
――そんな馬鹿な話があるかよっ。誰かが開けたから美佳があんなとこに入っちまったんだろ。美佳……美佳をこのまま放っておくのか! 何……何考えてるんだよ!?
――駄目なのよ……。
――美佳が何したっていうんだよ! 父さん、母さん、それともじいちゃん!? 誰だよ、誰かがやったんだろ!?
けれどそれ以上は、言ったところで全くの無駄でしかなかったのだった。
両親も祖父も闇雲に『クラヒメ』とかいう伝承に怯えていて、話にならない。
ばかばかしい。
錠が開いていたなら、誰かが開けたに決まっている。そして誰かが閉めた。
妹を中に残したまま、再び錠をした。
祖父か、父か、母か。
三人のうちの誰かしか、しようがないではないか。
ただそれだけのことのはずではないか。
だが、三人はお互いを疑っていないのだ。『クラヒメ』様の仕業だと信じているのだ。
呪いだと。
祟りだと。
自分の娘が心配ではないのか――否、それよりも、祟りを恐れるのか。
あの頑丈な土蔵錠の鍵の在処がわからない以上、妹をあそこから出してやることだって、祐一には出来はしない。
不快だった。
そして不可解だった。
――あたしは大丈夫よ、お兄ちゃん……。
それから、祐一は両親とも祖父とも口をきいていない。顔も合わせていない。
自分の親が、祖父が、まったく理解できなかったし、信じられなかった。
両親のしていることは、とても正気の沙汰ではない。警察に通報すべきなのだろうか。
――だけど何て?
監禁?
虐待?
けれど美佳が閉じ込められているのではないのだ。出てこないのだ。
何故美佳がそこにいられるのか。
何故美佳はそこに閉じ籠ることを望むのか。
どうしたらいいのか祐一にはわからない。
――皇は、どんな答えをくれる?
彼が神社の神主を勤め、生徒たちの間でちょっとした噂の的になっているのは、祐一も知っていた。
心の中で彼を馬鹿にしたこともある。
いつもすました顔をしている、いけすかない奴だとも、思っていた。
成績がいい、顔がいい、ただそれだけのことで、いつも誰かの話題の中心にいるあの、男が、はっきり言って嫌いでもあった。
だけど――。
強い北風が坂道を下り吹き抜けてゆく。
人間の感情とは都合よくできているものだ。昨日、初めてあの皇柚真人に声をかけたのだが、以外と話し易かった。荒唐無稽な話を馬鹿にすることもなかったし、別に想像していたような、鼻持ちならない奴でもなかった。
――美佳……。
祐一は鞄を抱き抱えるようにしてもう一度坂の上、枯れ木立ちの向こうの空を見遣った。
目に痛いほど白い雲が、流れて行く。
ほんの刹那立ち止まって、祐一は、寒々とした蔵の中を思った。
☆
「方法はどうでもいい。とにかく、蔵の扉を開けることだ」
柚真人は、三条にそう言った。
――放課後である。
生徒の影も疎らな昼下がりの教室。三条祐一は自分の座席に座っており、柚真人はその前の座席の椅子に腰をのせ、軽く腕組みをして立っていた。
飛鳥の席は三条の右隣であるらしく、彼はそこに座っている。
「蔵の扉を、早く開けるべきだよ、三条」
飛鳥は、それを聞いてぎょっと目を瞠った。
「だってその蔵、開けたらいけないんだろ?」
すると柚真人は俯きがちに目を伏せ、それから凛としたまなざしで静かに飛鳥を流し見た。
鋭い視線に、それを受けた飛鳥がたじろぐ。
「なんだよう」
柚真人は諭すように柔らかく言った。
「そんな意味のない祟りや呪いはないよ。意味もなく封印という行為は行われない。三条の云う、『クラヒメ』っていうのはね、蔵を守るための呪文なんだ。『祟りがある』という言葉の持つ災いが、封印の呪文。本当に祟りがあるのではなくてね、そう諭すことで蔵を守っているんだ。祟りというより『祟り』という言葉を使った呪いだね」
「だけどなあ」
飛鳥が首を傾げて反駁する。
「いいんだ、橘。おれも、何となくそうなんじゃないかと思っていたから。祟りなんて、あるわけないし――」
「そうねえ。うん……」
「科学万能? まあいいだろ、この場合はそうとも言える。ただ三条、ひとこと言わせてもらえば……祟りは実在する場合とそうでない場合があって、この場合後者だってことなんだ。ま、信じなくても別に問題ないからいいんだけどね」
穏やかに、柚真人が付言する。
「ともかく、大丈夫……三条の身には何も起きない。それよりなるべく早く、蔵を開けることだ。呪いはそれで終わる。扉を開けない限り呪いは続くよ」
「……開ければ、いいのか?」
三条は昨日にもまして不安げに訊いた。
「そうだよ。あ、三条。お前――妹はひとりだよな? 二人……じゃ、ないな?」
「? そうだけど……」
三条は、怪訝そう答える。柚真人は、それを聞いて小さく頷いた。
「妹を救いたいならそうするべきだよ」
冷たい声だ、と飛鳥は思った。
それは、覚悟をうながす声。
柚真人は、自分の外面というやつを可能な限り利用する。だから言葉も口調も優しいし、いつだって唇は微笑んでいる。けれどその粉飾の下には冷たい真実が潜む。真っ直ぐ見つめ返せば真実を宿す瞳は万年氷の青より冷たい。
飛鳥は、それを知っている。
「柚真人、あのさ――」
ちくりと嫌な感じがしたのは気のせいではあるまい。
「できれば、そうして欲しい」
「ああ。……わかった」
飛鳥の言葉は、柚真人に遮られるようにして、塞がれてしまう。
「でも、鍵が――」
「錠の?」
「ああ。どこにあるかわからないんだ。……どうしようかな?」
「三条のお祖父さんはそういう大切な物をどこに?」
「さあ……」
「まあ、箪笥の隅とか、仏壇の引き出しとか……そういうとこかな。探してみればいい。ただ……――三条」
少年の声色が、微かに変わる。
「蔵は封印されたままでも存在する。蔵の扉を開けないことも、選択できる。それでもいいよな? 過去への封印は、それなりの故あって施されたもの。意味のない封印など、存在しない。それでも妹を救いたいなら、蔵を開けることだけど」
「……そうする。ありがとう皇。その……変なこと相談して、悪かったな」
違う――その時飛鳥は気づいた。
柚真人は、『助ける』とはいっていない。
『救う』と、彼はいったのだ。
それは、柚真人が――皇神社の神主たる柚真人が、生きた人間に向ける言葉ではない。
そう、飛鳥が柚真人に感じる冷たさは――柚真人が見ているのが、柚真人が動くのが、現在の生命のためではないからだ。
なぜなら彼は――。
誰あろう皇神社の神主。
一族の巫。
死者の導き手――。
黄泉と現世の境に立つ者。
――じゃあ――柚真人は――。
待て、と飛鳥は言おうとした。
しかし。
身を竦ませる一瞥が、それを阻んだ。干渉を許さない――それは柚真人の意思表示だ。だから、飛鳥はすんでのところで言葉を飲み下だすしかなかった。
これは――柚真人の『仕事』だ。
三条を残して教室を出た後、飛鳥は柚真人の肩をつかんだ。
「おい、柚真人」
「いいんだよ。こうするのが」
肩越しに振り向いた柚真人は言った。
「いいって――」
立ち止まると、柚真人はさっさと廊下を歩いていってしまう。飛鳥は早足になって、再び柚真人を追いかけた。
「でもよ。お前――」
「別に……後先考えてないわけじゃあない。おれは三条のために、最善の方法を示唆しただけだ」
ため息混じりに柚真人はいい、くるりと身を翻して飛鳥を――見た。
「それに、三条家の呪いは、どのみちもう長くはもたない。あいつの手で早く壊すのがいいんだ」
「……柚真人……」
「――飛鳥。おれの言いたいことの意味が分かるなら、口は出すな」
「……!」
この豹変ぶりときたらない。
「はあいはい。御当主様」
今のこの柚真人の表情を、三条が見たら一体何と言うことだろう。
こういうときの皇柚真人は、恐ろしい表情をする。感情をすっかり消し去り、逆らうなと云う。端整な顔の造作さえも武器になる。
こいつのこの特別仕様の姿形は他人を惹きつけ魅了するために備わってるんじゃあない。威迫するためにこそある才能だ。
軽く両手をあげたポーズで降参を示すと、飛鳥は言及を止めた。
飛鳥には――柚真人を止めることはできなかった。
彼は、同い年の従兄弟である前に、幼馴染みである前に、皇一族の現当主なのだ。
皇柚真人が、その立場から物を言うとき、橘飛鳥は、彼に逆らうことを許されない。
それに――この人間離れした気色悪い美貌をもつ幼馴染みの、鋭い視線が、飛鳥は怖かったのである。