第一部 第3話 蔵姫追儺 03
「なんでしょう、その『クラヒメ』様、というのは?」
と、優麻が言った。
「『蔵』に、『姫』と変換されるんですか? 一般的には聞いたことありませんね」
「それがねえ。ま、三条に言わせると『三条家の座敷童』みたいなもんらしいんだよね。家の守り神ってやつ?」
と、橘飛鳥は答えた。
「ふうん……、あるんだ。今時そんな物に右往左往してるの、うちの家ぐらいだと思ってた」
そう、神妙な顔をして呟くのは、皇柚真人の一歳違いの妹――司。
「今時って、司、おまえね……」
「お、柚真人が悲しくなってるぞ」
司と柚真人の家である皇家は、古式ゆかしい神道を現代にまで伝える由緒ある家系である。
だが、司にとっては古くさく何の役にも立ちそうにないしきたりと儀式を細々と守る、古風な旧家でしかなかった。
それが証拠に親は司が物心つく頃からすでに放蕩暮らしで滅多に家に帰って来ないし、後見人と称して弁護士が常駐している始末である。
神社の敷地を含め屋敷だって古くて広いばかりで、今はもう使われていない生活領域ではない場所が一体どのような有様を呈しているのかというと考えるだにおそろしい。
となれば、とても現役で由緒ある家柄の姿ではないことだけは、確かではないか。
とはいえ神社がある以上それは運営されていかなくてはならず、そのために神社の長子として生まれた皇柚真人が今は神主を務めているのだが、当の神主はというと、
「――で。何なんだ。なんで雁首揃えておれの家で夕餉の食卓囲んでるんだ、ああ?」
前掛姿で――食堂のテーブルにサラダボウルを置いたところであった。
食堂は、この古臭い木造平屋建ての皇邸にあって唯一弱冠洋風のたたずまいを見せている場所である。
とはいえ床も壁も年期の入った板張りだし、テーブルも椅子も、年代物を通り越す勢いの代物。それもただ古いのか価値があるのか、いまいち判然としない。
柚真人は芝居がかった溜め息で、肩を竦めて見せた。
皇家の放蕩両親には当然家事の習慣はなく、夕食は、雇っている通いの家政婦が簡単に下準備をしておいてくれる。それをふまえても、今日の柚真人の帰宅が六時、今が七時ちょっと過ぎだから、標準的な男子高校生と比較すれば、なかなか優秀な腕前といえよう。
今日の献立は、そのサラダボウルに盛りつけられた温野菜のサラダと――味御飯、焼魚、味噌汁、であるらしい。
しかし、ふうむ、と飛鳥は唸って、テーブルをじっくり見渡した。
「そういいながらしっかり用意してるんじゃない、四人前の夕食」
「いやあ、どうもすみませんねえ。柚真人君」
級友の橘飛鳥と、柚真人のよき友人を自認する件の常駐弁護士優麻にあっては、動じたふうもない。
しかも飛鳥に至っては、付き合いも揺籠から始まる程のものだったし、どちらの家も勝手知ったるものだったから、夕方までどちらかがどちらかの家にいれば、こうなるのはいつものことではあったのだが。
飛鳥は、さらにはすっかり据え置きとなている、曰く『マイ箸』を取り上げながら、にやりと唇を歪めた。
「てかさ、いつもお前ん家、みんな留守で帰ってこないだろう? だからさ、司ちゃんと二人じゃ寂しいだろうなあ、と思って。ねえ、弁護士さん」
「そうですよねえ、橘君」
前掛姿の少年は、二人の言葉に苦々しく目を細めた。軽く、睨んでみる。
「……」
飛鳥と優麻の言いたいことが、何となくは理解できる柚真人である。
こういうところが付き合いの長い相手は厄介だ。
つまるところ、優麻と飛鳥は少年神主の歪んだ恋の矛先を知っているから質が悪い。
まして飛鳥は、柚真人に対して司の奪取を宣言してはばからないときている。
このあたりは友人・従兄弟ながら実はお互いに微妙な緊張感の漂う関係でもあるといえよう。
だから柚真人は小さくふんと鼻を鳴らし、ややぞんざいな態度で応える。
「――は。ありがたいことだね」
「まあまあ。それに、わざわざよ? お前の『趣味』にもこうしてつきあってやってるんじゃないか。そういう意味では、感謝されたっていいよなあ。だって――いいだろ? 食卓囲むのは大勢の方がさ」
そこを突かれると、ううん、ともなる。皇柚真人の趣味は料理だ。
およそ同年代の少年たちの平均的趣味の範疇からはおそろしくはずれているといっていいだろう。だが、好きなものは好きなのでしょうがない。その点を指摘されると、柚真人は相手に主張を斬って棄てるわけにもいかず、形の良い唇を尖らせた。
「……うるさいな。いいんだぞ、だからって別に無理しなくても」
「あ、かわいくないぞう。柚真人君」
「かわいくなくて結構」
「なんだよ。司ちゃん、君のお兄ちゃんがいじめるよう」
「……ごちゃごちゃと器が小さいわね。柚真兄」
さっぱりとした司のひとことで、そうなっては――いちおう無敵の少年神主も黙らされざるをえなかった。
こういう時、三対一では勝ち目が無いということを、柚真人は幼い頃からの経験から学んでいた。
☆
蔵に触れれば、災いが起きる。
祟りがあるから、蔵の扉は開けてはならない。
三条祐一は、幼い頃からただ意味も無くそう聞いて育った。
蔵に近づくことは厳しく禁じられていた。いままで、それを別段不審に思ったことはなかった。だが――。
この真冬に、もう七日も蔵に閉じ込められていて何ともないはずはない。
――そうだろう、皇。うちの家族皆おかしいと思わないか?
三条は、柚真人にそういい募った。
――クラヒメだかなんだかしらないけど。でも、父さんも、母さんも、じいちゃんも、どうかしてる。得体の知れない化け物でも蔵っで飼ってるみたいに怯えてさ……。妹のことなんか、これっぽちも心配してやってないんだ。
だから、なんとかしてくれ、と。
――お前、神社の跡継ぎだろう。祟りとか、呪いとかって詳しいんだろう?
――頼むよ、あの蔵の扉を、開けるにはどうしたらいいんだ?
三条の家族は、祖父と両親三代五人。
その中で、自らの家の蔵に伝わる奇怪な伝説を信じられなくなりつつあるのは、祐一ひとりなのだという。
そんな話をこの期に及んで頑なに信じ続けることができる両親たちが祐一にはとても信じられなかった。
――だって、死んじまうだろ? あの中じゃごはんも食べられないのに、いつまでも閉じこめるとくわけにいかないだろ?
三条の言い分はもっともだった。
――どうすれば、その……変な化け物の祟りとか、避けられるんだろう?
☆
「しかし、奇妙ですね。その少年の話が事実だとすれば何日も経ってしまうと妹さんが無事であるはずはありませんが」
「やっぱそうだよな?」
飛鳥が言い、優麻は茶を啜ると、嘆息して分析した。
「そりゃあそうですよ。気温ひとつとっても、小さい子供なら簡単に死んでしまいます。東京の一月の夜の気温、どれくらいだと思ってるんです、橘君」
「さあねえ……」
「下手すれば氷点下でしょう。そんな中、大人だって眠ってしまえば一晩で凍死です」
だよなあ、と飛鳥は相槌をうつ。
「ええ。それに……そんなに恐ろしいのでしょうか、その家に伝わる伝承というような話が?」
湯飲みを掌に押し包んで、優麻は穏やかに柚真人を見遣る。
対する柚真人は、テーブルの上の食器を重ねながら、ううん、と軽く唸った。
「それとこれとは別にしても、普通は……、あくまでも普通な。自分の子供だろ、心配しないか?」
「ええ、そうですね。言いましたが今は真冬ですし、どう考えても小学生の女の子では体力的にも――」
「ていうかさあ……またそういう怪しい話に足突っ込んでるの、ふたりとも? いいかげんにしてくれないかな、兄貴もさ」
というのは司の言葉だ。
司は、厳しい視線でもって、兄の柚真人を睨む。
もっとも、兄の方は全然動じていないのだけれど――それがまた、司にしてみると腹立たしいところだ。
「聞いてるの?」
「はいはい、聞いてるよ、お前の話も」
「……大概にしてよ、本当に」
柚真人は、それにはわずかに肩を竦めただけで、続けた。
「三条の話では、家族はとにかく頑として蔵の扉を開けようとしないらしいんだけどね」
「それにさ、その三条の妹の方も、、どうやって蔵の中に入ったのか、謎だよな。聞いた話じゃ、家族の様子からしてまず、蔵の錠がそもそも開いてたはずないからな? だろ、柚真人」
「その話、全部真に受けりゃあな」
「真に受けてるから怖がってんだろ。てか他にどう受け取るんだよ。お前に嘘つく理由が三条に無いだろ。普段話をしたこともないヤツなんだし。ううん、祟りかあ。本当なら凄いなあ」
「――凄いか?」
「凄いっていうか……まあ正直面白い」
「……相変わらずそういうとこ不謹慎だよな、お前」
「でも――確かにおかしいはおかしい……よね。なのに、いまでも蔵の中から声がするって」
飛鳥は司の反応に、そうそう、それよ、といって鼻の頭に皺をよせた。
変な顔である。けれど愛嬌がある。司は、それが可笑しくて少しだけ笑っってしまった。
「いや、まじで、すごい変だと思うだろ? だって、ぞっとするじゃん、そんな話。飲まず食わずで七日だろ? ……気色悪いよな。閉じ込めとくのもどうかしてるけど、開けるに開けられねないって感じもするじゃない、そりゃ。なんかこう……いけないものがでてきそうじゃなーい?」
「……なんですか、いけないものって」
「だからさ。怖い物」
「不定形生物?」
「それ、司ちゃんの『怖い物』?」
飛鳥が笑ったので、司は軽く唇を尖らせた。
「まあ……、それはともかく三条の家族は、そのこともあって怯えているんだそうだ。そりゃあ、ちょっとどころでなく不気味だろうさ。開かない蔵から何日たっても元気な女の子の声が聞こえるってのは」
「実は暖房機があった、とか」
身を乗り出して、飛鳥が提案した。
「いちおう真面目にそう考えても、築ウン百年の蔵にコンセントはないだろうし、勿論灯油も話からしてそんな封印蔵にはしまわないだろう。使い様がないんじゃないか? だいたい、それ以前に食事の問題がある」
「食べ物というと、味噌と醤油――とか?」
引き継ぐ優麻はやや面白そうだった。
「それ、蔵にありそうなものってこと?」
「ええ。蔵というからには、もしかしたらそれぐらいあるのではないかと思いまして」
「だからそういう物をしまう蔵じゃないって。なにしろ有り難い神様が棲んでる蔵だからな。ちなみに二階建てで、蔵自体の敷地面積は十畳ほど。扉の前には毎朝水と米なんかが備えられてたみたいだよ。それにさっき飛鳥も言ったけど――蔵が封印されていたのなら、やっぱりまず考えるべきは、三条の妹はどうやってその蔵に入った?」
柚真人は、話をしているうちに食事を終えた自分の分の食器を流しに置き、再び椅子に腰を下ろすと頬杖を突いて、それから斜めに優麻を見た。
「どうやって、だ?」
「どうって……そうですね、それは……どこかに、子供が入れるくらいの穴があるとか。古い蔵なら漆喰に穴が開いているとか有り得るでしょう」
「おっ、いいねえ、推理ぽいじゃん」
ところが、自分で疑問を投げかけておきながら、
「……推理ってほどの物でもないんだがね」
と、すでにひとり物知り顔の柚真人である。
「いっておくけど、兄貴にしかわからないような妙な理屈じゃ、納得いかないでしょ」
「そうかもね」
「もしかしたら、鍵をその妹さんがこっそり持ち出したんじゃないの? 悪戯で。小学生の、しかも中学年といったら、駄目っていわれるとかえって興味掻き立てられてしまうものでしょ。得体の知れない神様なんて、有り難がったり怖がったりしないだろうし……」
「ああ、鍵はね。三条の祖父さんが保管しているらしいんだけどさ。祖父さんの言うことには鍵が持ち出された形跡はなし。蔵には、穴もない。出入りできるのは、正面の扉だけ。だから、もし錠前を開けたとて正面から入ったとしても、それは、鍵を使用せずにやったことになるな。……小学三年生の、女の子が」
「それじゃあ、やっぱりどうやって中に入ったかがそもそもわからないってとこに戻っちゃうってこと?」
「そう。だから三条も混乱して、次第に怖くなってきちゃったってわけ」
一瞬の沈黙があった。
「じゃあ……やっぱり、その手の話なってことになるの? 柚真兄?」
「司の言う、『おれにしかわからない妙な理屈』ってやつ?」
「……じゃ、ないでしょうね?」
「さあね。どうだろう」
「……まったく。そういう話なら、あたしは遠慮しておくから、あたしにわからないところでやって欲しいんだけどなあ」
兄を、向かいの席から睨め上げる。
「明日の放課後、三条にまた会うんだろ? ……じゃあ、本当にあるのか、その祟りってのは?」
飛鳥が柚真人に投げた言葉に、ふむ、とだけ、弁護士が呼応した。
それから冷めた茶を、啜ると、一同をくるりと見渡して――弁護士は穏やかに微笑んだ。
といっても、それはいつものように表面上はひどく穏やかに見える微笑でしかないのだが。
「それにしても、なにもかも唐突ですよね。今まで何もなかったのに、突然祟りというのは。……いいですか? 気をつけて下さい。結果と原因が逆転しています、そのお家の方々の話は。祟りとはいいますが、では今の不可思議な現象こそが祟りなんでしょうか? だとすると原因は何です? それとも今の現象が原因となりうると言うのでしょうか。とすれば、すでに蔵に人の手が触れている以上、祟りは起るでしょう。不可避に。では一体、彼等は何を恐れて蔵に触れるなと言うのでしょう? いま、現在も。本来なら、妹さんが蔵の中に立ち入ってしまったことで祟りによる封印は破られてしまったのではないのですか? それなのにいまだ、蔵に触れてはならない? それは、矛盾です」
「ねえ、柚真人君?」
柚真人は答えず――ふっと笑った。
その日。
皇家の玄関で靴を履き終えた優麻は、彼を見送るためたたずんでいた柚真人をふいに振り返った。
いつもの、おっとりとした笑顔で。
「君には、もう結論が見えているんでしょう?」
対する少年は、それを聞くと少し顎を反らして微笑んだ。
応接間の方からは、飛鳥が何やら騒いでいる声が聞こえる。
時計は午後十時を回ったが、彼はまだ居座るつもりのようだ。
「なあ優麻。生きている子供を、七日も蔵の中に閉じ込めて置いたら、普通はやっぱり死ぬだろう?」
「……普通は……こんな季節ですから。子供一晩で凍えてしまいます。それは先刻も話題にのぼったと思いますが?」
しかし三条の家においては事情が違う。だから、家族は蔵の扉を開けられない。
蔵の中から声がするからだ。それは、蔵の中で少女が生きている証しに他ならない。
――出たくない。
――扉を開けないで。
明りも点らない、冷たく暗い、黴びた空気の澱む蔵で、何故少女はそれを望むのか。
何故少女は生きているのか。
否――。
優麻は、不意に柚真人の言外の示唆に、気づいた。
「え? ――柚真人君?」
柚真人は、その恐ろしく美しいかんばせに、仄かな笑みを浮かべて頷く。
その様は、白装束を纏っていなくとも、やはりどこか神さびて見える。
この少年は、巫なのだ。
「事実はごく簡単さ。現実には……現実に起こりうることしか起こらない。そうじゃないか?」
「そう、なんですか? ですが……それでは……」
すっ――と柚真人が片手を上げて、優麻の言葉の先を制した。
「優麻の目に映るのが、現実。おれの目にうつるのは、真実。ただ、それだけの違いさ」
この少年は、――皇神社の少年神主は、その、見えないものを見る瞳で、何を『霊視た』と云うのだろう。
「ですが……」
「このことは近いうちにおって連絡するよ。たぶん……仕事を増やすと思う、優麻」
柚真人は、優麻の背中にそんな言葉を投げてよこした。
少年がその不可思議なものを見るという瞳に、一体何をうつし、いかなる真実を見たというのか――優麻にはわからなかった。
否、それが物理的に瞳に像を結ぶ物なのか、それとも彼の心が見るのか、それさえ判然としているわけではない。
それはいつものことだ。
けれど、彼の言いたいことは、わかった。
玄関を出て、皇家の庭を横切り、神社の境内を歩く。
先日降った雪が、まだ溶けきれず氷の山になって固まっていた。夜の中に浮き上がっている白い色が、いっそう寒さを感じさせる。
そう、年明け二度目の雪だ。……この間降ったのは、たしか一月……二日か三日か。
鳥居をくぐると、道路に出た。
――雪の日だってあった。
蔵に棲むという、家の守り神の、祟りに怯えて幼い娘を放置する。
そんなことがあるのだろうか。
生贄でもあるまいに、家の娘を犠牲にしてまで守らなくてはならない……何がある? そんな倫理がこの御時世に通用するのか?
かの秀麗な少年神主の言うことが、本当ならば。
確かに、こんな寒さでは、小さな子供は凍えてしまう。
一晩ともちはしないであろう。
それは、現実。
だが。
それでは真実と現実にいかなる食い違いがあるというのか。
――食い違い――錯誤か?
優麻は、知らず微笑んでいる。
錯誤。
現実と真実の錯誤。
それは――いや、それこそが。
真実であると。
多分そうなのだろうと、優麻は思った。