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第一部 第2話 永遠の一対 05



 鈍色の曇天からは、白い雪が降りてくる。


 季節を急いだ、初雪だった。

 だが、それにしてはいささか盛大な降雪量である。あたりは一面うっすらと――白い。


 まだ明け初めたばかりの、空の端に蒼さの遺る早朝、少年は庭先にたたずんで静かに息を吐いた。

 吐息は、白く凍え、雪の色に重なっていく。


 彼女は、少年の視線の先にいる。


 こんな時間にもかかわらず、であったが、彼女にとって時間はさほど重要な意味を持つ概念ではないのだ。彼女は、想いのまま、ここにいるのだから。

 彼女は、もはや生身の女ではない。この世に在らざる念いの残滓。


 ――篠崎湖珠。


 年若くして自らその命を絶った、此岸を離れた少女の、青白い心。


「神主さん……」


 湖珠は、そう柚真人を呼んだ。


 緩く波打つ髪を無造作に垂らした湖珠の表情は、よく見えなかった。

 彼女がうつむいているためだ。


「神主さん……」


 柚真人はすうっと目をほそめた。


 どうしてだか珍しく朝も早くから目が冴えると思ったが、なるほど今朝は、どうやら彼女に呼ばれたらしい。

 いつやってくるかと思ってはいたがまたえらい日を選んでくれたものだ。


 湖珠の躯は半分透けており、背後に竹薮が見えている。

 顔を上げて微かに微笑む。

 そうしてみると、彼女も存外に幼い風情だった。


 柚真人は、白い寝間着の懐から、彼女の索める物を取り出した。細く優美な指先が、すいと凍える空気を揺らす。それは、簡素な銀の耳飾だ。


 ――約束の、彼女の遺品。


「貴方の探していたものは、これでしょう?」


 そういうと、あたりの気配がふわりと揺らいだ。安堵の空気が広がったようだった。


「ええ。それよ」

「これで、遺す想いなく逝けますね?」

「ええ。……どうも、ありがとう」


 少年は、それを湖珠の方へと放り投げた。

 彼女はそれを受け止める。

 実体のないその両手の中に、銀の耳飾が届いた。


「ありがとう……」

「礼はいい。さあ早く行って下さい。……『恋人』を待たせてあるんでしょう」


 少年は、選ぶ言葉こそ丁寧であるものの、高圧的な口調で無表情にいう。

 また、気配が揺らいだ。


「貴方……もしかして、あたしのこと……」

「いいえ。……心配には及びません。おれが、それをあなたに返還したことが、おれの選択した答えだから」


 雪が舞う。


「さあ」


 沈黙があって――ひうっと――風が降り積もった粉雪をまきあげながら通り過ぎた。

 そして白い風に巻かれるように、女――篠崎湖珠の姿は――掻き消えた。



      ☆



「なるほどねえ……今朝はそんなことがありましたか」


 少年の言葉に、優麻は頷いた。

 少年――皇神社の神主は、今朝、彼女が訪れた庭の見える縁側を眺めながら小さく笑う。


 皇の屋敷の応接間に、ふたりは向かい合って、日本茶など啜っている。

 柚真人は、優麻に、今朝の顛末を語って聞かせたところである。

 そして、何らかの反応あるいは返答を促すように上目使いで青年を見た。


「その……耳飾りひとつで、彼女は納得できた、というわけですか」

「ああ。――というか、そいつは、殺人の証拠だったんだ。それ自体が彼女の心残りだったかどうか、はわからないけどな」

「その、耳飾りが、ですか? へえ、そうですか。とすると……それはまたどうした気紛れでしょう。まあ、君の決めたことですから、私はかまいませんけどね。……証拠の隠匿には、目を瞑りましょう。今回だけですよ。なにせ私の仕事は――」

「わかってるよ。だがそれはお前の、であって、おれのじゃない」

「そうですね」


 優麻は、そう言って煙草に火を点した。

 対する柚真人は、大袈裟に肩をすくめて見せる。


 本日は土曜日で、青年の担当する事件についての公判の予定は一つもなかったため、彼はこうして柚真人から報告を受けていたのであった。昨日の夜から降り始めた雪が午後になっても止む気配を見せないこともあって。


 柚真人は、重ねていたく不遜な笑みを返した。人形のように整った顔が妖しく歪む。


「まあ、どのみち証拠にもならないだろうしな。だからいいんだよ」

「そうですか? でも、殺人事件の証拠の品だと、確かに君は先刻言いましたよ?」


 優麻は、そういって煙を吐いた。


「……だけど、公判がなければ証拠にだって意味はないんだろ。犯人を起訴できなければ……ね」

「――というと?」


 柚真人は例によって例のごとく、自分の中ではきちんと事実関係を把握し出来ているがゆえの、悟り切った空気をその表情から滲ませている。

 しかし優麻にしてみれば、先週、少年が何やら想い遺すところがあるらしい『来訪者』から、何かを依頼されたらしいということしかわからないのだから、柚真人が断片的に言うことがいまひとつ繋がらないもの当然であった。


 そもそも優麻には、柚真人を訪れる、不可思議な『来訪者』の姿が、全く見えていないのだ。


 気配なら確かにわかる。

 だが、気配しかわからない。

 だから、あの時も。


 柚真人が、女だというからそれがわかるのであって、優麻自身には、そこまでは判然としないのだった。


 あと、優麻にわかることといえば、少年の妹――本来であれば皇家の巫女であるはずの司が、その得体の知れない『来訪者』を極端に嫌い、怖がっているということくらいだ。


 雪見障子となっている部屋の窓の硝子の部分から中庭を眺めやれば、外はなお雪。

 そこから見える屋敷の中庭は一面が白く、それにしても今日が土曜で高校が休みでなかったら大変なことになっていた、と少年がごちった。

 神主の職にあるこの少年は、齢はまだ十六であるから、当然普段はといえば、学業に他ならないのだ。


「君が隠匿したその、件の証拠が唯一の物なら、事件は迷宮入りということでしょうか?」


 と、優麻は柚真人に向けた。


「そういうこと。だから、いってみればおれがしたのはその幇助ってことになるかな。したがってこの一件は、完全犯罪」

「完全犯罪……ですか? 私はいまだかつて一度もお目にかかったことはありませんがね」

「当たり前だろ。弁護士のお目にかかっちゃ完全でもなんでもない」

「あ、まあ……言われてみればそうですね。ですが、……君はそういうことも全部知っていたんですか? その、篠崎湖珠という依頼主には、あの日、何もその……訊かなかったように思いますが」

「それが奇遇だったってわけだ」

「奇遇、ですか?」


 柚真人は、小さく笑って頷いた。


「そう。……そこで、ひとつ種明かしをしよう。おれだって、できない話は引き受けたりしない」


 柚真人は、そう言っていっそう悪戯っぽい笑みを唇に刷いた。


 少年のそういう笑い方は、彼がその整いすぎた顔容で、穏やかに微笑むより、優しく微笑むより、印象が鮮烈だ。

 涼しい瞳が愉しげな色を宿すと、それを見返す優麻でさえ、見慣れているはずなのに時折身がすくむような寒気を覚えるのが常だった。

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