第一部 第2話 永遠の一対 04
「おやおや、おかえりなさい柚真人君」
帰宅した柚真人を出迎えたのは、優麻であった。
しかも彼は、にこにこと、本当に珍しいことにそれとわかるほどに楽しそうだ。
従って柚真人はいささか不吉な予感を抱いた。
この青年は、一見虫も殺さぬおとなしげな顔をしているが、はっきり云ってそれが単なる見掛けにすぎないというのが、困ったところなのである。
何時何処で、一体どんなこと、しかもほんの細やであるにもかかわらず非常に甚大な精神的衝撃を与えてくれる悪巧みを進行させているものやら、わかったものではないのだ。
最近になって、柚真人もようやく、どうやらそれが彼の趣味嗜好であるらしいということに、気がついた。屈折した愛情ともいえるだろう。
この調子で弁護士業をこなしているのかと思うと、空恐ろしい事限りない。少なくとも、同業で敵に回したい相手ではない。
ともあれ柚真人の不安に追い討ちをかけるように奇妙な匂いが廊下の向こうから漂ってくる。
「……なんだ、この匂いは」
「やだなあ。晩御飯の支度をしているんですよ。ちなみに、誰でも作れる市販のカレーですからご安心ください」
どう――考えても、そのような匂いではなかった。
柚真人は黙して乱雑に、スニーカーを脱ぎ捨てる。
「……お前、もちろん今日も夕飯食って帰るんだろうなあ?」
「それは脅迫ですよ、柚真人君。人の身体・生命に危害を加える害悪の告知です」
つまり。
柚真人の妹である司は、破壊的なまでに料理が下手だ。
と、いうよりも彼女は、その涼しげで凛とした端正な雰囲気からおよそ遠く宇宙の壁に届こうかというほどにかけ離れて不器用で、鈍くさいことこの上なく、慌て者で、粗忽なのである。
しかも質の悪いことに何事にもそれなりに精一杯一生懸命で、そこには悪意がまったく無い。
柚真人は軽く舌打ちした。
司の料理が不味い理由はわかっている。
計量をしない、味見をしない、思いつきで妙な手順を調理過程に加える、レシピを信用しない――以上の事を実行すれば、大抵料理は不味くなる。
要するに、司の調理スタイルである。
柚真人は、家に台所まで至る前に、思い切りぐいと青年の耳朶をつかんで自分の耳元に引き寄せた。
「いたたた」
と優麻がわざとらしい悲鳴をあげる。
――おまえっ。司には料理させるなって何度いったらわかるんだよ!?
――いや、だから、司さんの細やかな嫌がらせですよ。私はそういう意味では司さんの味方ですから、ちょっとばかりアシスタントを。
――……てめえいい度胸だな。死なすぞ。三途の川を今から渡るか?
――あ。いいんですか。不用意にそんな大切な『言霊』を使って。しかも三途の川って。あとで禊しないと駄目ですよ。皇流神道の後継者といえども、そういうことには気を遣っていただかないと。
――……ウチはそういう神社じゃねえ。誰がいちいちんなことするかよ。
――もう十一月も終りですからねえ。水ごりは寒いでしょうねえ。
剣呑なまなざしで睨みつけてみたところで暖簾に腕押し、他の人間ならいざ知らずこの男にはまるで効果はない。
どん、と柚真人はその胸を軽く突き飛ばして、優麻を睨みつけてから、離れた。
嘆息して室内履に履き替え、廊下を行く。
「司あー? いま帰った。だたいま」
優麻は、口許を綻ばせつつ、柚真人の後に続いた。
微笑ましい――と、優麻本人は思っているのだが、きっと柚真人がそれを聞いたら即座に鉄拳のひとつも飛んでくるのだろう。
――君は意外と短気なんですよねえ……。まだまだ修行が足りませんよ。
などと、青年は心の中で呟いた。
――司さんもね。乾物のホタテで出汁を取るのはいただけません。だってカレーですよ? ホタテっていうのはどうなんでしょうねえ。それに、余ってるからってシチューミクスとブラウンルーを足すのもどうかと思いますよ。シナモン入れ過ぎですし、まあヨーグルトはいいとしてもそれって量的には隠し味程度にするべきだとおもいます。生姜は、すり下ろして欲しかった。
☆
夜空は、綺麗な桔梗色だった。
――桔梗色……。
いつか、どこかで呼んだ、有名な童話の中にあった言葉だったような気がする。
――ああそうだ。桔梗の色だ。
湖珠は塀にもたれて、そんなことを思った。
いや、思っていることは、曖昧だった。
とぎれとぎれに、色々なことを考えていたような気がしていた。
それは意味のない想い出や、さして重要でない記憶だったりした。
いや、いまだってこれは洩れ出した記憶の集合体にすぎないのだろう、きっと。
仄かに青い、明滅みたいに。微かに白い、煙みたいに。
夜の透明な空気に拡散していく自分の存在。空気に溶け出す思考。
それは粒子になって、やがて消えて逝く。そして無くなってしまう。
だけど。
――耳飾――。
あれがないと。
――逝けない。
この綺麗な青紫の空に、溶けて消えることだって、出来はしない。
少年神主が、篠崎家のバスルームで、小さなピアスを見つけたのは、それから五日後のことだった。