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第一部 第2話 永遠の一対 03


 

 

 皇柚真人は、とある屋敷の前に立っていた。


 ――妹……だったわけか。


 唇を引き結ぶ。


 ――奇遇、と――いうべきだろうな。


 柚真人は、心の中で独り呟き――そして格子の引き戸に、手を掛けた。



      ☆



「すみませんが、少しだけ、妹さんの方の部屋を見せていただけますか」


 少年神主は、そう切り出した。


 そもそもの話は半月ほど前に溯る。

 都区内の高級住宅街にあるこの家で、その事件が起こったのは十一月始めのことだった。

 この家には、家族六人が暮らして居た。それが、今柚真人の目の前にいる夫婦と、その夫方の両親、そして子供たちだった。その子供のうちの片方が、まず、死んだ。


 上の兄だ。これが十一月二日。

 ところが、兄の告別式の日に、下の妹も、死んだ。

 兄の死は、事故。

 妹は、自殺だった。これが十一月五日――話はそこから始まる。


 時間が経って後から考えてみれば、じつにくだらない思い込みだったと、きっと誰もがいうのであろう。

 はじめは、物音。

 誰もいない夜の廊下に響く足音。

 それは気のせいかもしれない。

 住人を失ったはずの部屋で聞こえる、物音。

 それも、気のせいだったかもしれない。何処かに、誰かが潜んでいるような気配。

 ふとした瞬間背中に感じる視線。深夜、目を覚ましたときに、聞こえた気がした、水音。軋み。家鳴り。


 何も彼もが、二人の子供をなくして急に静かになった家の中で、ただ誇張されて感じただけなのかもしれない。古い紙魚が、何故か意味ある形に見えるように。


 禍々しく。

 虚々しく。

 ひどく哀しく。


 けれども、遺された寂しい家族を、恐慌に陥らせるには十分なものだった。

 それでなくとも立続けの不幸だ。


 子供達は、死にきれていないのではないか。

 そのように思った遺族はまず、葬儀を執り行なった寺の僧侶に相談した。そして、気休めの守りのまじないを貰った。そのとたんに、家の者が恐れていた不可解な現象は、なんとぴたりとおさまったのだと云う。


 だが遺族は一度は安堵したものの、よく考えれば何の解決にもなっていないことに気がついたのだ。これで、子供達がいったい成仏できたというのであろうか――?


 そのような経緯で、皇神社の神主に話がまわってきたのが、一週間程前のことだ。


 私どもの子供達を、救済けてやりたいのですが、方法がわかりません。

 両親にしてみれば、大真面目な言葉だったはずだ。

 そうでなければ噂話を頼りに、宗派の違う神社の、歳若い神主などに頭を下げはしなかっただろう。


 それ故、柚真人は先日もこの屋敷を訪れた。

 その時は――どうということもなかったのだが……やはり奇遇は奇遇。


 両親の案内で、柚真人はその――自殺したという、妹の部屋の扉を開けた。


 彼女の部屋は六畳の洋間だった。

 床はフローリング。

 ベッド、机、本棚、クロゼット。

 ストライプ模様のカーテン。

 ベランダに面した窓から射す、秋の名残の陽光が暖かく部屋を満たしている。

 何の変哲もない、少女の部屋だ。


 柚真人の背後で、両親が怯えたように息を殺した。

 彼等はこの部屋で――頸を吊って死んでいた愛娘の死体を発見したのだ。

 兄の火葬が済んだ直後だったという。


「お寺の方から頂いたというのは、お守りですか? それとも、札のような物?」


 柚真人の問いに、両親は虚を衝かれた様子だったが、父親の方が素早く言った。


「札と思います。机の上に……」


 言われて見てみると、なるほど何やら奇妙な字を描いた紙が、勉強机の上にのっていた。


「お兄様の部屋にも?」

「はい」


 梵字は真言宗。

 どうやら簡単な魔除け札のようであった。


 ――そういうこと――か。


 これが結界たりうる限り、彼女は屋敷の敷地にさえ立ち入ることができないだろう。だから、あんなことを。

 そうして、柚真人は軽く、目を伏せた。


 ――では、何があった?

 ――その日、ここで何があった?




 それはフラッシュバックのように、断片的な映像となって、柚真人の脳裏に描かれる。

 想いの残滓と記憶の名残。


 ――少女と青年がいた。


 兄妹だ。


 それは真新しい仏壇に飾られた、遺影の中の笑顔の持ち主。


 柚真人は、その飛び散った記憶の破片を拾い集めるように、脳裏の奥で意識を凝らした。

 これは恐らくこの部屋で、首を括った少女の命が尽きるとき、弾けてしまった――彼女の、想い――。

 白昼の夢のように、それは閃く。


 カナシイ。安堵。

 ツメタイ。安心。


 凶暴なまでの――絶望。


 兄の笑顔。

 妹の泣顔。


 水の感触、水の感触、水の感触――。


「……どうかしました?」


 母親の声が不意に、遠くで聞こえた。 


 ――これは……?


「お兄さんの方……。バスルームで亡くなったというお話でしたが……?」


 母親にその場で問う、自分の声も、いくらか遠い。


「ええ……」


 脳裏では、揺らめく水面の向こうに、電灯が見えた。

 泣いてる。

 彼女は泣いている。


「事故でした。酔っ払ったまま……、浴槽の中で眠ってしまったのです……」


 違う。

 それは――違う。


「あの子が……。妹まで連れていってしまったんです。仲のよい兄妹でしたから……」

「独りじゃ……寂しいんだろうねえ」 


 ――違う!


 触れ合う肌の感触。

 指先が絡まり合う感覚。

 眩暈がするような――これは、これは一体誰が感じた恍惚感なのだろう。

 腰から崩れ落ちるような、快感――!

 絶望と慟哭の入り混ざった、幸福。高揚感。


 ―――駄目……だ……。


 ぐっ、と柚真人の喉元に吐き気が込み上げた。


 ――駄目だ、ひきずられ……っ。


 柚真人は自分の中に雪崩れ込んでくるその光景を遮断しようとした。


 ――それが、真実なのか!?


 堪らず片方の手で、口許を押さえる。


「どうしました……?」


 きつく目を瞑る。


「あの……?」


 振り払う――禍々しい、その記憶。

 はっ――と、短く呼気を吐く。


「大丈夫です……、すみません」


 思いがけないほど、自分の声が弱々しかった。なんとはなしに、額を拭う。


「ええ……、と」


 姿勢を正して振り向くと、彼等はひどく怪訝そうな面持ちで柚真人を見ていた。


 ――これが結末か?


 茫然と、柚真人は自身に問うた。

 朱の唇からは、嘆息が洩れた。

 柚真人には、確かに霊視えたのだ。それは少女の耳朶を飾る小さな小さな耳飾が。


 ――さようなら。さようなら、コダマ。誰より好きだよ……。


 優しい声を、霊聴いたと思った。

 切ない声を、霊聴いたと――思った。

 


     ☆



 柚真人は篠崎邸を後にした。

 家路、神社へと続く緩やかな坂道を上る。


 それが真実なら、それが彼女の願いなら、もう一度行かなければなるまい。


 寺の僧侶が残した梵字の呪符の結界は、まだ有効だ。

 葬儀は寺が、お秡いは神社が――そんなことは、さして珍しいことではなかった。


 柚真人にとって、相手がいかなる宗教を信心していようとそれはさして重要なことではない。大抵の日本人が特定の信仰など持ち合わせていないのだし、仮初の心の平穏を与えてくれるのならば、おそらく神でも悪魔でも構わないのだ。


 ――現代の人々にとって『信教の自由』には重要が意味はないんです。そもそもの存在意義からしてもそう言えるんでしょうが。


 友人で、弁護士でもある青年は、柚真人によくそんなことをいう。


 ――日本人にとっては、宗教は信仰ではないんです。思想なんですね。何でもいいんですよ……安心させてくれるものなら。人は、弱い生き物ですから、誰かが正当化してくれないと、一人ではとてもやっていけない。そうでしょう?


 ――本当に人々が欲しかったのは、信仰の自由ではなく、弾圧されることのない自由だったのではないか、と……私は思うんです。心の平穏は欲しいけれど、それ以上は、信仰にさえ縛られたくはない。それが、宗教的雑居性寛容性の正体なのでしょう。ただの身勝手です。


 そうかもしれない。


 柚真人とて、たまたま古い神社の血統を継いだがために神社本庁から神主の職を預かるにすぎない。柚真人の裡に、信仰は――ない。もっともな話だ。


 けれどそれでも、やはりどこかで自分も神様を探して彷徨っている。

 柚真人は、それに気がついていた。

 誰より神に縋りたいのに。

 この世に神などいやしないことを、誰よりもよく知っている。


 ――それでも……。


 神様――と。


 ――彼女もきっと、そうだったろう。


 柚真人もその遠い祈りに似た絶望を知っているから。

 それが最期の願いなら。

 神様と――虚空に両手を伸ばして哭いた、あの絶望を知っているから。


 ――叶えられたって、いいんだろう。


 そう、思った。

 奇遇は単なる奇遇であって、それ以上でもそれ以下でもない。現象に意味を求めるのは、脆弱な心に他ならない。

 神様なんて――神様だけは、どこにもいない。必然たる偶然など有り得ない。

この世のすべての事象は、ただ切れ切れの現象にすぎない。


 ――でも。


 人は脆弱で淋しい生き物だから――奇遇に意味付けをしたいのだ。



 神社の鳥居の下に、彼女が居た。

 石造りの階段にその少女が座っているのを認めて、柚真人は足を止めた。

 昨日と同じように、淋しい瞳をしていた。


 篠崎湖珠。

 享年十九歳。十一月

 五日、自宅の部屋にて自殺――。


 柚真人が見た、遺影の中の彼女は、明るい陽射しの中で笑っていた。

 けれども、その淋しげな瞳の色は、いま薄闇の中にたたずむ彼女のそれと変わるところがない。

 いったい何時から、彼女はこんな瞳をしていたのだろう。

 泣きそうだな、と柚真人は思った。


「貴方が――殺したんだ……」


 彼女は、答えなかった。


「どこでなくしたのか……忘れてしまいましたか?」


 彼女は、何も言わない。


 柚真人は目を伏せると、もう彼女の顔も見ないで歩き出した。なぜなら、真実を知った柚真人にとって、彼女のそのまなざしは、凶器だったからである。

 影絵のような社の向こうの西の空には、葡萄色の雲が広がっている。明日は、雨になるかもしれない。


「……私。……あれがないと。……あれがないと……」


 背後で、細い声がした。

 立ち止まる。


「――大丈夫。おれが……貴女の願いに免じて、秘密を守りましょう」


 柚真人は、振り返らずに――そう告げた。


「……約束しますよ」

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