第九章 彼の部屋で
窓の外には初夏の光が差し込み、街路樹の若葉が風に揺れている。春の雨で濡れたアスファルトはすっかり乾き、柔らかい日差しが街を明るく染めていた。空気には新緑の香りが混ざり、出会いの春から季節が少しずつ移ろっていることを感じさせる。
数日後の夕方、デートの後彼はさりげなく声をかけた。
「少し寄っていく?」
サチは胸の奥が跳ねるのを感じながら頷く。玄関を抜けると、そこは彼のワンルームだった。楽器やCDが所狭しと並び、壁にはライブポスターがいくつも貼られている。まるで彼自身を映す小さな博物館のようで、サチは思わず目を輝かせた。
「すごい…いっぱいあるんだね」
彼はにっこり笑いながらギターケースを片手に取り上げ、少し埃の匂い混じりの部屋に柔らかな音楽を流す。ギターの木の香りとレコードの紙の匂いが混ざり合い、どこか懐かしく、心地よい空気が広がった。
「座っていいよ」と指さされたソファに腰を下ろす。サチは少し緊張しながらも、その近さに心が温かくなる。
「これ、最近ハマってるんだ」と彼が小さなスピーカーのボタンを押すと、やわらかなギターの音色が部屋に広がった。
ソファに並んで座ると、互いの距離が自然と近くなる。目が合うたびに、サチは頬がほんのり赤くなるのを感じた。
「見せてほしいな、演奏しているところ」とサチが小声で言うと、彼は少し照れくさそうにギターを手に取り、静かに弾き始める。指先が弦に触れるたび、柔らかく温かい振動が部屋に広がる。
サチはその音色に耳を澄ましながら、自然に彼の手元を見つめる。手の動きがとても優雅で、思わず息を詰める瞬間が何度もあった。
ふと、彼が指先でそっとサチの肩に触れ、髪を耳の後ろにかける。その温かさと柔らかさに、サチの胸は跳ねるように高鳴った。視線を上げると、彼は微笑みながら「邪魔になってない?」と尋ねる。
「ううん…全然、嬉しい」とサチは小さく答える。
その手の感触に、言葉にならない甘いドキドキが全身に広がる。肩や髪に触れる彼の指先が、まるで空気ごと優しく撫でるようで、サチは思わず息を止めそうになった。
夕暮れの光が窓から差し込み、部屋の空気を黄金色に染める。壁のポスターや本棚の影が柔らかく伸び、二人だけの静かな時間がゆっくりと流れていく。
「もっと近くで見てもいい?」
サチの心臓がまた高鳴る。彼が少し身を乗り出し、指先で肩や髪を整えるその距離感に、思わず視線を逸らせない。
「もちろん」と彼は微笑む。
楽器の音色と夕暮れの光、そっと触れられる温かさに包まれ、サチは心の奥で小さな幸せを感じた。
――こんな時間が、ずっと続けばいいのにと心から願った。