第八章 雨の約束
放課後の街は、灰色の雲に覆われていた。
校舎の白壁も、並木道も、どこか沈んだ色合いに見える。
ぽつり、ぽつりと降り出した雨がアスファルトに丸い模様を描き、甘い土の匂いを漂わせる。
サチは小さくため息をもらした。折りたたみ傘を取り出そうとしたその時、正門前に立つひとりの姿が目に入った。
黒いギターケースを背負ったヒロジ――。
美容学校の生徒たちの波から浮かび上がるように、彼のシルエットはまっすぐサチの視線を射抜いた。
サチの胸がふっと温かくなる。彼は、わざわざ学校まで迎えに来てくれていたのだ。
傍らには、友達のミカも小さな傘を片手に立っていた。
「サチ、傘あるよ」と優しく声をかけるが、サチの視界は彼から離れられない。
ミカはにっこり微笑んで少し離れた場所に立ち、ふたりの時間をそっと見守った。
「お疲れ。雨、降ってきちゃったな」
そう言いながら差し出された傘が、サチの視界をすっぽり覆う。
黒地の布に打ちつける雨粒が、ぽたりぽたりと規則的な音を立てる。
サチは少し照れながらその中に身を寄せた。狭い空間で、ふたりの肩がぴたりと触れ合う。
雨に滲む街のざわめきが遠くなり、傘の中にはふたりだけの世界が生まれていた。
「濡れちゃうだろ?」
「ううん、大丈夫…でも、来てくれてありがとう」
サチが小さく答えると、彼はふっと笑みを浮かべた。
その笑顔に、濡れた前髪がわずかに揺れる。
その横顔を見つめた瞬間、胸の奥が熱くなる。
目が合った。
次の瞬間、彼がそっと身体を傾ける。
唇が触れた。
ほんの一瞬のはずが、気づけば深く、長く――。
傘を叩く雨の音も、街の喧騒も、すべてが遠のいていく。
あるのはただ、互いの温もりと重なる吐息だけ。
サチの指先が無意識に彼の服の袖を掴む。服の布地は少し湿っていて、心臓の鼓動と一緒に震えているように感じた。
彼はその手をそっと包み込み、さらに強く、想いを込めて唇を重ねた。
離れた時、サチは息を整えながら彼を見上げた。
頬は赤く染まり、言葉も出ない。
けれど、瞳だけはまっすぐに彼を追っていた。
「…これで、俺たちは特別だな」
冗談めかした声に、サチは恥ずかしそうに笑った。
けれどその胸の奥では、雨に濡れても消えない確かな想いが、静かに芽生えていた。