第七章 触れそうで触れない夜
夜の街は、昼間の喧騒を忘れたように静かだった。
ライブの帰り道、ヒロジが「少し寄っていかない?」と誘ったのは、駅近くの小さなカフェだった。ガラス窓に映る柔らかな灯りが、二人を招き入れる。
木のテーブルに向かい合って座り、二人はカップを手にした。
話題は取り留めもなく、音楽のこと、仕事のこと、そしてお互いの夢のこと。会話が途切れても、気まずさよりも、不思議な安心感がそこに流れていた。
「……なんか、サチと話してると落ち着く」
ヒロジがぽつりと呟いた。
サチの心臓が一瞬、強く跳ねる。
「そ、そうかな……私も。ヒロくんといると、安心する」
言葉にしてしまった自分に、頬が熱くなるのを感じる。
カフェを出ると、5月の夜風が肌を撫でた。昼間の陽射しをわずかに残した空気には、若葉の匂いが混じり、初夏の訪れを告げている。月が高く昇り、二人の影を並べて落とす。
駅までの道を歩く間、二人の肩は時折、かすかに触れ合った。けれど二人ともそれを避けようとせず、自然と歩調が揃っていく。
「送るよ」
そう言ったヒロジの声は、どこか真剣で。
サチは小さくうなずいた。
彼女のアパートの前に着いたとき、空気が一段と静まり返る。街灯の下で立ち止まり、5月の涼やかな風が二人の間を通り抜けた。
ヒロジが、そっとサチの髪に触れる。
「……風で、ちょっと乱れてる」
優しく整える指先が頬にかすめ、その温もりにサチの呼吸が止まりそうになる。
見上げれば、彼の瞳が真っ直ぐに自分を捉えている。
言葉もなく、ただ見つめ合う二人。
――このまま、唇が重なるのではないか。
胸が張り裂けそうな沈黙のあと、ヒロジはふっと視線を外した。
「……おやすみ」
低い声が耳に残る。
サチはまだ熱の残る胸を押さえ、小さく「おやすみなさい」と返した。
扉を閉めた後も、頬に触れた彼の指先の感触が消えず、5月の夜風が窓を揺らす中、眠れない夜が始まっていた。