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第三九章 「始動の刻」


 契約を交わした翌日から、ヒロジの日々は一変した。

 小森のスタジオで始まった新曲制作。初回の打ち合わせから、小森の言葉は容赦がなかった。


「そのメロディじゃ弱い。もっと突き抜けるものを考えろ」

「歌詞に余計な装飾はいらない。本当に伝えたい一行に全てを込めろ」


 ひとつひとつの指摘が鋭く胸に突き刺さる。だがその痛みは、これまでの自分が甘かったことを教えてくれるものでもあった。ヒロジは食らいつくようにノートへ書き込み、何度もピアノの前に座り直した。


 数日後のレッスンでも、小森は細かいリズムの取り方やフレーズの抑揚まで徹底的に指摘してきた。

「違う! 君の声はもっと荒々しくてもいい。綺麗にまとめようとするな、心の奥からぶつけろ!」

 何度も歌い直しを命じられ、声が枯れるまで挑戦する夜もあった。鍵盤の上に落ちる手は震え、鉛筆で走り書きした歌詞は修正の跡でぐちゃぐちゃになっていく。けれど、そんな厳しい指導の中にこそ、自分の殻を破るきっかけが潜んでいることをヒロジは感じ始めていた。


 帰宅すると、サチが用意してくれた温かいお茶や食事が待っている。

「今日はどうだった?」と彼女に聞かれるたび、ヒロジは「また怒鳴られたよ」と苦笑しながらも、不思議と悔しさより充実感が勝っていた。サチはそんな彼を見守り、「でもヒロくん、きっと成長してる。私にはわかる」と優しく言葉を添える。その支えが、疲れ切った身体と心に染み渡った。


 新居は小森の事務所で所有するマンションの一室。

 スタッフや仲間がすぐ駆けつけられるように配慮されたその場所は、安心感を与えてくれた。高層階の窓からは東京の街が一望でき、夜になればきらめくネオンの向こうにスカイツリーがそびえ立ち、まるでこれから歩む二人の未来を象徴しているかのように輝いていた。


 その夜、まだ段ボールが積まれたままのリビングで、二人はささやかな「お祝いの食卓」を整えた。サチが心を込めて作ったディナーは、前菜のサラダにスープ、メインには鶏肉のソテーと彩り野菜――まるで小さなコース料理のようだった。テーブルクロスも食器もまだ新しくはないが、その不揃いさえも新生活の輝きに見えた。


「すごいよサチ。これ、レストランみたいだな」

「ふふ、今日は特別だから。ヒロくんの新しいスタートに乾杯しなくちゃ」


 グラスに注がれたシャンパンの泡が、ぱちぱちと弾ける。二人は向かい合ってグラスを合わせた。


「……これから大変になると思う。でも、必ず乗り越えるから」

「うん。一緒に、ね」


 窓の外に浮かぶスカイツリーの光が、二人の未来を静かに照らしていた。

 そしてその光は、明日から再び始まる厳しい鍛錬の日々をも、温かく見守っているかのようだった。


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