第二六章 休日の逃避行
朝日がサチの就職先スタジオZの大きなガラス越しに差し込み、店内の高級感ある空間を柔らかく照らしていた。
サチは師匠・須賀勇気の指導のもと、スタジオZでの仕事に慣れようと必死だった。
「サチ、今日のカットモデルは彼女だ。動きに気をつけて」
須賀の鋭くも温かい声に、サチはうなずき、ハサミを手に慎重に動かす。
一方、ヒロジは音楽活動や仕事に追われる日々。
SNSチェックにレコーディング、ライブ準備……ほとんど休む暇はなかった。
そんな中、ふとスマホを見ると、サチからのメッセージが届いていた。
「今日も頑張ってね」
疲れた心が少し和らぐ。
そして電話越しに、ヒロジは提案した。
「明日、一日だけ休みがもらえそうだ。もしよければ、二人で出かけない?」
サチの胸が高鳴る。
「出…出かける?一緒に?」
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翌日、二人はこっそり変装をして山梨へ向かった。
サングラスに帽子、マスクで顔を隠しながらも、二人の心は弾むように軽かった。
「これで大丈夫…かな?」
少し不安げに笑うサチに、ヒロジは茶目っ気たっぷりに微笑む。
「完璧だよ。忍者みたいでしょ?」
車内では音楽をかけ、二人で笑い合う。
忙しい日常から解放され、心の距離も自然に近づいていった。
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湖畔に着くと、二人は景色をバックにセルフィーを撮った。
サチが少し照れながら、肩をヒロジに預ける。
「もっと笑って」
「じゃあ…にっこり」
シャッター音が響き、二人の笑顔が写真に刻まれる。
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・山中湖でのボート
青い湖面にボートを漕ぎ出す。風が髪を揺らし、太陽の光が水面にきらめく。
「手、貸そうか?」
ヒロジの手をそっと握るサチ。心臓が跳ねる。
「ありがとう…」
小さな声で返すサチの指先に、ヒロジの指先が軽く触れるたび、二人の間に小さな電流が走る。
ボートが揺れるたびに自然と肩が触れ合い、視線が合うたびに互いに微笑む。
「…湖の上、静かで落ち着くね」
「サチと一緒だから、なおさら」
ヒロジがそっと顔を近づけ、サチの頬にかかる髪を指で優しく整える。
そのままヒロジは、そっとサチの額に唇を寄せ、優しくキスをした。
サチは胸の奥が温かくなるのを感じ、思わず目を閉じた。
「このまま時間が止まればいいのに」
「俺もだ」
二人は自然に手を握り合い、湖の上で静かに息を合わせるように寄り添った。
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・湖の見えるカフェでお茶
湖を望むカフェで席に着くと、温かい紅茶の湯気が手を包む。
「スタジオZ、だいぶ慣れた?」
「うん、須賀さんの指導は厳しいけど、すごく勉強になる」
サチが紅茶を持つ手を少し震わせると、ヒロジはそっとその手を包む。
「大丈夫、俺がいるから」
その声にサチは頬を少し赤らめ、視線を落とす。
「頑張ってる君、かっこいいよ」
ヒロジの指がカップ越しにサチの手に触れ、温かさが伝わる。
サチはそっと手を握り返し、笑顔を浮かべる。
「…ありがとう」
サチの声は小さいけれど、ヒロジにはすべて届いている。
二人の距離はわずか数センチ、カップの向こうに互いの心が確かに重なっていた。
窓の外に映る湖面には、二人の姿が静かに揺れていた。
その穏やかな光景は、まるで二人だけの世界を閉じ込めたようだった。
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夕暮れの山道を走りながら、二人は窓の外の景色を静かに眺める。
言葉少なくても、心は互いに満たされていた。
「今日は本当に楽しかった」
「俺もだ。こんな日がずっと続けばいいのに」
手が自然に重なり、そっと握り合う。
静かな車内に、満ち足りた時間が流れていた。
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だが、帰宅間際、ヒロジがふと後ろの視線に気づく。
茂みの陰から、カメラを構える人影がちらりと見えた。
「…あれ?」
サチも息を呑む。
小さなフラッシュが一瞬、二人の笑顔を切り取る。
「パパラッチ…?」
穏やかな時間が、ふいに揺らぐ予感。
二人は目を合わせ、肩をそっと寄せ合った。
未来の平穏がまだ脆いことを知りつつも――二人はその瞬間を抱きしめるように静かに噛み締めた。




