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第二五章 揺れる距離、確かな灯


 ツアーバスの窓にうつる夜明け前の街が、ゆっくりと後ろへ流れていく。

 ボー・ギャルソンのスケジュールは、デビューの熱気とともに加速度を増していた。各地のライブは手応え十分で、SNSの数字も伸びる。スタジオの片隅でイヤホンを差し込み、最新のデモを聴き返すたび、胸の奥で小さな確信が灯る――「いける」。

 それでも、打ち合わせのテーブルでは別の言葉が並ぶ。

 「次の曲はよりキャッチーに」「タイアップの条件はこう」「今の勢いを落とさないこと」

 成功の足音の向こうに、音楽業界の冷たい現実がつねに同居しているのを、ヒロジは嫌でも感じていた。期待は重さに変わり、歓声は次のハードルの高さを知らせてくる。


 一方のサチは、いよいよ本番を迎えるコラボ企画のヘアショー&ファッションショーに向け、最終リハに没頭していた。

 モデルの髪を整え、メイクを施し、衣装とのバランスを何度も確かめる。袖での動線、ステージ中央での見え方、ライトが当たった時の質感――一つずつ、丁寧に。

 LINEの通知が震え、画面にはヒロジの未読の一行が並ぶ。

 《今から収録入る。また夜にかけ直す》

 その夜、サチは疲れた指でスタンプを返し、眠りに落ちた頃にヒロジから着信。すれ違う時間が少しずつ増えていく。でも、交わす言葉の温度は下がらない。


 本番当日。

 会場の端でキャップを目深にかぶり、マスクをしたヒロジが、人目を避けるように観客席の影へ滑り込んだ。どうしても、サチの晴れ舞台をこの目で見たかった。

 袖に消えるサチの後ろ姿――結わえ上げられたモデルの髪を一瞥して、ヒロジは小さく息を呑む。サチの手が、光っている。

 その瞬間、鋭い声。

 「こんなところで何してる!」

 マネージャーが現れ、腕をつかむ。予定にない生出演が急遽決まり、すぐに局へ向かわねばならないという。

 「あと五分だけ――」

 「ダメだ、行くよ」

 ヒロジは振り返り、ステージへ歩み出るサチの背に、音にならない“頑張れ”を投げた。目の前で暗転、本番の照明が走る。連れ戻される足取りに、悔しさと誇らしさが同時に滲む。バスに飛び乗る直前、震える指で短くメッセージを送った。

 《今、来てた。全部は見られなかったけど、絶対に最高だ》


 ショーは幕を開け、サチのセクションで会場がどよめく。

 艶を抑えたハーフウェット、前髪のラインで視線を切り、衣装のカッティングを生かす後頭部の立体――モデルがランウェイを一歩進むたび、ヘアが服を語り、服がヘアを引き立てる。

 終演後、汗の中に漂うヘアスプレーの匂い。達成感と空虚が入り混じる楽屋に、落ち着いた声が落ちた。

 「君の仕事、見ていたよ」

 黒縁の眼鏡の男――業界で名の知れたヘアデザイナー須賀勇気が、名刺を差し出す。

 「基礎が正確で、遊びに無駄がない。うちで見習いから始めてみないか」

 サチの心臓が跳ねる。視界がわずかに滲み、名刺のロゴが震えた。

 ――私の手で、扉が開いた?

 控え室の片隅で深呼吸し、ヒロジに報告のメッセージを打つ。すぐに既読がつき、短い返信。

 《やったじゃん。サチの力だ。行きたいなら、行こう。俺、全力で応援する》

 文字の向こうで、ヒロジが少し照れくさそうに笑う顔が浮かんだ。


 数日後、卒業式。

 春の光が講堂の床を四角く照らし、拍手が重なる。

 校庭では満開の桜が風に揺れ、花びらがはらはらと舞い込んでくる。卒業袴の肩に落ちた一枚をそっと払うと、春の匂いが胸いっぱいに広がった。

 式を終えたサチの前に、地元から上京した母・正子が立っていた。

 「おめでとう、サチ」

 抱きしめられた瞬間、張りつめていた糸がふっと緩む。

 忙しい合間を縫って、ヒロジも駆けつけてくれた。三人で入った小さな洋食店。銀のポットから湯気、白い皿の端に添えられたパセリの緑。

 正子は、ヒロジに深く頭を下げる。

 「いつも、娘を支えてくれて……ありがとう」

 「いえ。僕のほうこそ、サチに支えられてます」

 母は照れたように笑い、「この子、昔から人の髪をいじってばかりで」と昔話が弾む。テーブルの上で、三人の笑い声が重なった。

 けれど、時計の針は待ってくれない。ヒロジは次の移動のため、先に席を立つ。店の外、春の風。舞い散る桜の下で、サチの髪に一枚の花びらが落ちる。

 「本当に、おめでとう」

 短く言って、名残惜しそうに手を振る。サチも、うなずいて手を振り返す。その夜にはもう、彼は別の街の空気を吸っているはず…。


 夜更け、ツアーバスの暗い通路。

 窓の外に、点と点になった街の灯り。ふいにスマホを開き、指が勝手に動く。

 《早くゆっくり会いたい》

 送信した瞬間、胸の奥が熱くなる。数秒後、振動。

 《私も。次に会う時、今日のこと、いっぱい話そう》

 遠く離れた場所で、それぞれの道の音が重なる。

 不安も、忙しさも、約束も――全部を抱きしめるように、見えない灯が静かに二人を照らしていた。

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