第十一章 香るキッチンと初めてのカット
週末の午後、サチの部屋には穏やかな陽射しが差し込んでいた。カーテン越しの光は柔らかく、木の床に小さな斑点を描く。窓の外では、秋の風がそよぎ、銀杏の葉が黄色く色づきながら舞い落ちる。
「今日は一緒に作るんだね」
ヒロジが笑いながらエプロンを手に取り、サチも少し照れくさそうに同じ色のエプロンを着ける。二人の間に自然な距離が生まれ、ほんの少しだけ指先が触れ合った瞬間、サチの胸がドクンと大きく跳ねる。
キッチンに並べられた食材は、色鮮やかで見るだけでも楽しい。赤いトマト、緑のバジル、オレンジ色のパプリカ。香り高いオリーブオイルが小瓶の中で揺れ、ハーブの香りが部屋に漂う。
「玉ねぎ、切るの手伝ってくれる?」
「うん、気をつけて切るね」
サチが包丁を手にすると、ヒロジがそっと手を添え、指先の使い方を教えてくれる。その距離の近さに、サチの頬が少し熱くなる。包丁のリズムに合わせて玉ねぎが刻まれる音が、二人の静かな会話の合間に響く。
「おお、いい匂いがする〜」
振り向くと、ミカがドアのところから顔を覗かせていた。両手には差し入れらしい小さなケーキの箱を持っている。
「今日はデートかと思ったら、料理教室してるんだ?」と茶化すように笑い、サチの頬はますます赤くなる。
「ちょっと!見ないでよ」
「はいはい、邪魔しない。後でケーキ食べよ〜」
そう言ってリビングのソファに腰を下ろし、ミカは雑誌を広げながら、時折二人の様子を微笑ましそうに眺めていた。
その瞬間、サチの手とヒロジの手が自然に触れ合った。ほんの一瞬のことなのに、サチの胸は跳ね上がる。指先から伝わる温かさと心臓の速さに、思わず視線を上げると、ヒロジも少し照れたように微笑んでいた。
「…ドキッとした?」
「え、う、うん…ちょっとだけ…」
ヒロジの笑顔に、サチはさらに胸が高鳴るのを感じた。
次はサチが覚えたばかりのヘアカット。
「え…本当に切ってくれるの?」
ヒロジの声には少し不安と期待が混ざっていた。
「大丈夫、ちゃんと練習したから。少しだけだからね」
ヒロジはベランダに置かれた椅子に腰を下ろし、サチはハサミを手に慎重に前髪を揃えていく。ハサミが髪を切る小さな音に、空間の静けさが優しく包まれる。鏡越しに見つめるヒロジの横顔は柔らかく、少し照れたような笑みを浮かべている。
室内からはミカの声が飛んできた。
「サチ、手元、気をつけてねー!変になったら責任取れないよ〜」
「ちょっと!集中できないから黙ってて!」
三人の声が重なり、ベランダにはどこか温かな笑いが広がった。
ハサミを動かす手に迷いがちだったサチを、ヒロジはそっと支えるために手を添える。手が触れた瞬間、サチの心臓はまるで手に引っ張られるように跳ね、顔が熱くなる。二人の間に言葉にできない甘い空気が流れた。
「…どう?」
「うん、すごくいい。思ったより自然で、似合うよ」
「おー、意外と上手いじゃん!」とミカが拍手をしてからかい、サチは恥ずかしそうに頬を赤らめた。
カットが終わると、二人は作った料理をテーブルに並べる。色鮮やかなパスタにチーズを削り、バジルを飾る。小さなワインボトルを傾け、グラスに注ぐ音が部屋に響く。
「自分たちで作ると、なんだか特別な味だね」
「うん、二人で作ったからかな」
ミカもちゃっかり席に着き、三人でテーブルを囲む。
「これ、お店で出せるんじゃない?」
「そんな大げさだよ」
賑やかな笑い声が弾み、料理の香りと重なって部屋を満たした。
夕陽が部屋を黄金色に染め、窓の外の風景も赤みを帯びる。サチは心の奥で小さな幸せを感じる。
――こんな時間が、ずっと続けばいいのに。心からそう願った。




