第2話
ナディアがレナータ・グリン子爵令嬢と会ったのは、今日が初めてだった。
レナータは貴族令嬢としては珍しい女性騎士であり、現在アルバートが所属している王宮騎士団の第五部隊の隊長だ。
グリン家は、代々武術に優れた家系であり、男女問わず、幼い頃から武術をたたき込むのが教育方針であり、数多くの武人を性別問わずに輩出している。そういう環境に身を置いていたレナータも例外ではなく、女性騎士となり、一つの隊を率いるほどの立場となったのだそうだ。
そして――ウォルレイン男爵であるアルバートの幼馴染みでもある。
互いの領地が近く、同じ年齢ともあり、幼い頃から交流があったらしい。
アルバートは十三歳の時、見聞を広げるためと言って、隣国ヤーブラルド帝国に留学。そこで十年を過ごした後、自国へ戻って騎士となり、入隊したのが、レナータが率いる第五部隊だった。
そこで二人は、十年ぶりに再会したのだという。
彼が入隊して二年後、ナディアと結婚したのだが、幼馴染みという関係からか、レナータは結婚後も良くアルバートを気軽に呼び出していた。アルバートもそれに応じていた。
相手は上官。仕方ないと言って。
だがナディアは、そんな彼を快く送り出していた。
アルバートがナディアと一緒に過ごす時間よりも、仕事とレナータと一緒にいる時間の方が多くなっているのに気づいていたが、夫がいない屋敷を管理し、彼のサポートに全力を尽くしていた。
何故ならナディアは、ヤーブラルド帝国からこの国に嫁いで来た身だったからだ。
色々と自分が育ってきた環境と、ここワイドルク王国は違うため、早くこの国の風習に慣れ、男爵夫人としての立場を学び、アルバートの隣にいて恥ずかしくない人間になりたいと考えていた。
それにナディアの故郷でも、男はよく戦に駆り出されていて長期不在を余儀なくされていたため、そういうものなのだと思っていたことも、不満に思わない理由だった。
レナータが立ち去ったテーブルには、アルバートとナディア二人が残された。
ナディアは先ほどと同じように黙々と食事を続ける。その隣で、夫も同じように黙って食事を続けた。
周囲から見れば、隣同士に座るという普通ではない関係である男女が、ただ黙々と食事をしている光景は、異様に見えただろう。
ただレナータの言動の方が迷惑だったため、すぐに周囲の興味は、ナディアたちのテーブルから自分たちの会話へと移り、誰一人彼女たちを気にする者はいなくなった。
しばらくしてアルバートの食事が終わった。しかし彼は、隣でまだ食べている妻に話しかけようとはしない。そんな彼にナディアも何も言わない。
やがてナディアが食べ終わると、二人は右手を胸の前に置き、空になった皿の前で無言で頭を下げた。そして頭を上げると、初めてアルバートが口を開いた。
「ナディア、しばらく仕事で忙しくて一緒の時間が取れなかったから、よければ少しこの辺りをまわって帰らないか? 今度出席する晩餐会で着るドレスも決めたいしな」
笑顔を浮かべながら提案する夫の瞳に、僅かな罪悪感が見える。夫婦の時間が取れないことを申し訳なく思っているのだろうと感じながら、ナディアは彼の罪悪感を取り除くために笑って頷いた。
夫と二人で出かけるのは、いつ振りだろうか。
いつもはっきりとしている頭の中がフワフワとする感覚は、今でも慣れないが不快ではない。
彼と出会う前には、全く無縁だった感情なのに――
アルバートは立ち上がると、ナディアの手を取った。アルバートの手を握ると、彼の腕に自身の腕を絡める。出口に向かおうとしたその時、二人の元に、メモをもったウェイターがやって来た。
「アルバート・ウォルレイン様。ムゥト・リアートと名乗る方より、先ほどご伝言を承りました」
「ムゥトが?」
伝言主の名を聞き、アルバートは青い目を見開いた。
ムゥト・リアートという名は、ナディアにも聞き覚えがあった。夫の口からよく聞く同僚の名前だ。彼もまた、同じ部隊に所属する騎士だったはず。
若干同情するような眼差しを二人に向けつつ、ウェイターがメモを読み上げる。
「『俺たちでは訓練にはならないから、アルバートを連れてこいというグリン隊長からの命令だ。今すぐ訓練場にきて欲しい』とのことです」
「そう、か……」
アルバートが肩を落としながら返事をすると、ウェイターは役目を終えたとばかりに、ナディアたちに一礼をすると立ち去った。
ナディアは夫の様子を窺った。彼は難しい顔をしながら、顎に手を当てて考え込んでいる。
だがナディアには分かっていた。
彼の口から発される言葉が、何なのかを――
「ナディア、すまないが……」
いつものように、眉間に皺を寄せながら謝罪の言葉を述べる夫に、ナディアは首を横に振った。そして優しい眼差しを向けながら、そっと彼の腕を離した。
「私は大丈夫です。侍女のサリーと一緒にドレスを見て帰りますから。さ、あなたはどうか城にお戻りください。訓練も大切なお仕事ですから」
真っ直ぐに発されたナディアの声色からは、夫を責める気持ちは微塵も感じられなかった。
アルバートは硬い口調でもう一度ナディアに謝罪をすると、足早に店から出て行った。
「行ってらっしゃいませ、アルバート様」
残されたナディアは、夫の姿がドアの向こうに消えるまで、深々と頭を下げたままだった。