第19話
ナディアが、ギルダス族。
それも族長の娘であり、次期族長であったことをアルバートから告げらたレナータだったが、驚きよりも納得感の方が上回った。
「明日には命が奪われるかもしれない。そんな過酷な環境で生きるギルダス族にとって、怒りや恨み、妬みなどの負の感情にかける時間は、最も無駄とされている」
ナディアが特別なわけではない。ギルダス族全体が、ナディアのような人間たちばかりなのだと、争いはあっても引きずらず、次の日には肩を組んで笑い合っているのだとアルバートが語った。
その言葉は、ナディアに対するレナータの行為が、何一つ意味をなしていなかったことを示していた。それに気づかず、ナディアの上に立とうと足掻き、僻みと憎しみに振り回されていた自分が、どれだけ滑稽だったかを思い知らされる。
顔が熱くなり、俯く。
それが怒りから来るのか、羞恥から来るのか、レナータには分からなかった。
だが、とアルバートが付け加える。
「そんなナディアを、君は一度怒らせたことがある」
「……えっ?」
レナータは顔をあげた。目を瞬かせながらアルバートを見ると、彼は深く頷いた。青い瞳がスッと細くなる。
「君がグリュプス討伐遠征後に開かれた宴会で、自分の部下に無理矢理酒を飲ませようとしたときだ。まあ、私はナディア自身と周囲から話を聞いただけだが」
「あ、あたしはただ、酒が弱いから強くしてやろうと思っただけで……」
「猛獣を狩ることを生業としているギルダス族は、いつ自分の命が奪われるか分からない生活をしているからこそ、生き残ることを――命を何よりも大切にしている。自分の糧となる食事にすら沈黙と一礼をもって感謝を捧げ、犠牲となった生き物たちを余すこと無く食す。そんな彼女が、戦いから生きて帰ってきた者が、酒を無理矢理飲まされて死ぬかもしれない場面に遭遇し、見て見ぬ振りが出来るわけがない。だから、君が酔い潰れるまで酒に付き合った」
「あんたもあの女も、たかが酒如きで大袈裟なんだよっ‼」
「そうやって命を軽視する君に、ギルダス族を名乗る資格はない。そもそも――」
アルバートが嫌悪感を露わにしながら吐き捨てる。
「グリン家に、ギルダス族の血は流れていないだろう」
「はっ?」
レナータは、口を大きく開けたまま固まった。しかしすぐさま、唾を飛ばす勢いで反論する。
「そ、そんなわけないだろっ‼」
「だが、君の父君はハッキリと仰っていた。グリン家にギルダス族の身内はいないと」
それを聞き、レナータは記憶を掘り起こした。
確かに、父が言ったのだ。グリン家に、ギルダス族の血が入っていると。
――いや。
本当に父は、グリン家にギルダス族の血が入っていると言ったのだろうか。
父は、こう言わなかったか。
『グリン家が武術に優れているのは、祖先がギルダス族《《のような》》優れた武人だったからかもしれないな』
と。
初めはあくまで父の妄想、ただの夢だったのだ。
だが父の言葉は、いつの間にかレナータの中で変化していった。グリン家の祖先がギルダス族なのだと思い込み、周囲に吹聴するようになったのだ。
ギルダス族という単語を出すと、皆がレナータを恐れる。
それが気持ち良くて、気づけば自分が強いのは、ギルダス族の血が入っているからだと思うようになっていった。
周囲に本物のギルダス族がいるわけではない。それに本物がいたとしても、自分と同等、もしくは少し上ぐらいの強さだと、たかをくくっていた。
だが本物の強さを知った今は――
「君の父君は笑っていたよ。グリン家が本当にギルダス族の血を引いていたのなら、今頃もっと上の爵位を賜っていただろうなと。国王はギルダス族をこの国に呼び込みたいと思っているからな、と」
アルバートのその言葉に、レナータはハッと息を飲んだ。
結婚を反対していた彼の父親を納得させるため、ワイドルク国王が王命まで出して、二人を結婚させた理由が、今の発言にあったからだ。
「もしかして……そのために王様は、あんたたちの結婚を王命として……」
「ああ、そうだ」
そう頷くアルバートは、若干不服そうだった。
ヤーブラルド皇帝はギルダス族に守られている恩がある。
だからナディアとアルバートの結婚が彼の父親に反対されていると知った皇帝が、ワイドルク国王に働きかけたのだ。
国王はギルダス族との繋がりを作りたかったため渡りに船とばかりに、二人の結婚に協力した。それが全ての真相だと、アルバートは語った。
「あの女のために……皇帝と国王様まで動いたってことかい……」
あの小柄で目立たない女が、二つの国のトップを動かすまでの存在だったなど、もう乾いた笑いしか出てこない。
そんなレナータに、アルバートは真っ直ぐ向き合った。
「私もいけなかった。このような事態になる前に、君にハッキリ言うべきだった。だが、ナディアやギルダス族と同じように負の感情に囚われたくなくて、君から何をされても許容していた……いや、我慢していた。でも今なら分かる。ナディアなら我慢しない。嫌なことは断り、本当に大切なことに時間を使っていたはずだ」
「が、がま、ん……? アルは……我慢していたというのかい? あたしが呼び出してすぐに来てくれたのも、一緒に過ごしていた時間も、全て嫌だったと言いたいのかいっ⁉」
「そうだ」
たった一言の肯定。
それがどんな言葉よりも、レナータの心を抉った。
今まで、アルバートがレナータに時間を使ってくれることが、彼からの愛情だと思っていた。王命で結婚させられた妻よりも、自分を大切に想ってくれている証だと思っていた。
その根拠のない確信が、たった一言で崩れ去った。
唇を薄く開いたまま何も言えなくなっているレナータに、アルバートは容赦なく告げた。
「私は幼い頃から、君が嫌いだった」
何を言われているのか、一瞬分からなかった。しかしレナータの頭は、アルバートの発した言葉の意味を、ゆっくりと理解していく。
理解したくないのに、理解していく。
唇が、勝手に笑いを形作る。
もう笑うことしか出来なかった。
「は、はぁ? な、なんで? 小さい頃からずっと一緒にいただろ? あんたのこと、一杯守ってやっただろ⁉」
「……守る?」
アルバートの両眉が上がったかと思うと、眉間に深い皺を寄せながら、憎々しげにまくし立てる。
まるで、長年の鬱憤を晴らすかのように。
「ああそうか。君はそう思っていたんだな。だがお門違いもいいところだ。君はずっと私を虐めていた。見た目が女みたいで皆から揶揄われていた? 初めにそう言い出したのは君だ。登った木から私が下りられなくなった? 君が無理矢理登らせて、下りられなくなった私を笑っていたんだろ? 狩りで私が迷子になった? 置き去りにされて泣く私を影で楽しんでいたのは、誰だ?」
「あ、あたしはそんなつもりは……ただあんたに構いたくて……で、でも、あんたも嫌なら嫌だって言えば良かった――」
「言ったさ‼」
レナータが全てを言い終える前に、アルバートが叫んだ。
「何度も何度も何度も何度も、君に止めてくれるように言った‼ だが君はまともに取り合ってくれなかったっ‼ 父にも相談したっ‼ だが父は、相手は格上の子爵令嬢だから我慢しろと言うだけだった‼ 君の言いなりになるしかなかった‼ 君に会うたびに弱い弱いと揶揄われ私の心はボロボロだった。何に対しても自信が持てず、こんな自分が生きていていいのかとすら追い詰められていた‼」
こんなに感情を露わにするアルバートは、初めてだった。
あまりの激情に、レナータは何も言い返せず、彼の発言を聞くしかできなかった。
肩で息をしながら、アルバートは一旦口を閉じた。気持ちを落ち着かせるためか、深い呼吸を数回繰り返すと、先ほどとは違う落ち着いた声で話を続けた。
「私が十三歳の時だ。グリン子爵が、私と君を結婚させようとしていることを知った」
「え? あ、あたしとアルを?」
聞き返すレナータの声色に、思わず期待の感情が滲み出てしまう。だがレナータとは正反対に、アルバートの声色から感じ取れるのは強い嫌悪感。
「ゾッとしたよ。だから隣国に渡った。君から逃げるためにね。そこで――」
嫌悪感で歪んでいた彼の口角が、ゆっくりと上がった。
あれだけの怒りを見せていたとは思えないほどの、穏やかな表情へと変わる。
「ナディアと出会い、本当の強さというものを知ったんだ」




