第16話
レナータは目を疑った。
目の前の小柄な女が――お茶と甘い菓子が好きな女が、グリュプスの翼を切り落としたと、にわかに信じられなかった。
しかしナディアが構えるナイフには、血がついている。
この場で唯一血を流しているのは、目の前でのたうち回っているグリュプスただ一体だけ。
受け入れるしかなかった。
目の前の女が、たった一人でグリュプスの翼を切り落とした事実を。
グリュプスに視線を向けたまま、ナディアがレナータに話しかける。
「ここから先は私にお任せください。レナータ様は、どうか先ほどの岩の窪みに退避していてください」
ナディアの発言に疑問や不安を抱くこと無く、レナータは逃げるために立とうとした。しかし恐怖で腰が抜けたのか、立ち上がることができない。
のたうち回っていたグリュプスが雄叫びをあげながら、竿立ちになった。高々と上げた両前足を、ナディアめがけて振り下ろす。
しかし振り下ろされたときには、ナディアの姿はなかった。姿勢を低くし、グリュプスの後ろ足の間を通り抜けざまに切りつけたのだ。
再びグリュプスが悲鳴のような甲高い鳴き声をあげ、体勢が崩れる。グリュプスの後方から、ナディアの鋭い声が聞こえた。
「レナータ様! 早くそこから離れてください、危険です!」
レナータのすぐ傍を、グリュプスの鞭のような尻尾が過り、地面を抉った。もの凄い力だ。
凹んだ地面を見て、レナータの顔面が蒼白になる。
確かにここにいては危険だ。グリュプスはナディアの攻撃を受け、さらに暴れている。このままだと巻き添えを食ってしまう。
しかし、
「あ、足が……足が動かないんだよっ‼」
涙声になりながら、レナータは絶叫した。
やはり立ち上がれないのだ。何とか後退しようと両足を動かすが、震えて上手く地面が蹴れず、その場をもがくだけ。移動できない自分に、焦りだけが増えていく。
そんな焦りを見透かしたように、グリュプスがレナータに標的を定めた。金色の瞳に睨まれ、レナータの喉の奥からひゅっという空気が漏れた。
「レナータ様、お逃げください! グリュプスが、動かないあなたを弱っていると判断しています! このままだとエサとして連れ去られてしまいます!」
ナディアの声が聞こえる。
だが目の前にいるグリュプスの存在が、レナータから完全に正常な思考を奪っていた。
自分の中で、何かがプツッと切れる音がした。
「無理、だ……無理なんだっ! あ、ああっ、あたし、は……あたしは、殺されるんだっ‼ し、死ぬんだ、あああああああぁぁぁぁ――――っ‼」
頭を抱え、涙を流すレナータの絶叫が響き渡った。それに呼応するように、グリュプスが雄叫びをあげる。
鋭いクチバシが、レナータに迫ろうとした時、グリュプスとレナータの間にナディアの体が滑り込んだ。手に持っていたナイフをグリュプスの首に突き立て、巨体が再びふらついたところに勢いよく蹴りを入れた。
ナディアとレナータ、グリュプスの間に少しだけ距離が出来た。
「……立て」
「へっ?」
今まで聞いたことのない太く芯のあるナディアの声に、混乱していたレナータの思考が僅かに冷静さを取り戻した。
惚けた声を出すレナータの鼓膜を、ナディアの大音声が貫く。
「立て、レナータ・グリン! ギルダス族を名乗るのならば、戦う前に諦め、死を受け入れることを、最大の不名誉と心得よ‼」
その場の空気が、ビリビリと震えたような気がした。小さな体から発される言葉の力強さと闘気が、レナータの全身を駆け巡る。
首にナイフを突き立てた状態のグリュプスが、こちらに向かって来た時、頭で考えるよりも体が先に動いていた。
さっきまではどれだけもがいても動かなかった体が、自由を取り戻していた。
言われた通り岩の窪みの方へと駆け出したが、ナディアは動かなかった。逆にグリュプスに向かっていくとの首に刺さったナイフを掴み、そのまま巨体を押し倒すように地面に倒れた。翼を失い、足にもダメージを負っているグリュプスの体が簡単に倒れ、ナディアの体の上に乗る。
その状態を見て、レナータは先ほどナディアが言ったことを思い出した。
グリュプスは、動かない相手を弱っていると判断し、エサとして連れ去るのだと。
「あっ……あっ……」
レナータの奥歯がガタガタと震え出した。
このままだとナディアは間違いなく、グリュプスのエサとして連れて行かれる。腰に差したままの剣の柄に触れるが、それを握る勇気が出ない。
これから繰り広げられる惨劇から目を背けるように、レナータは双眸を強く瞑った。
だが、
「レナータ様、大丈夫ですよ。ここから先は――」
グリュプスの首に刺さったナイフを握りながら押し倒されているナディアの、恐ろしい程静かで穏やかな声に、レナータは思わず目を開けた。
銀色の一閃が走ったかと思うと、ナディアの手の届く場所に剣が突き刺さったのだ。
ナディアの声が、力強さを取り戻す。
「私《《たち》》にお任せください」
次の瞬間、黒い影がグリュプスの首辺りを過ったかと思うと、鮮血が噴きだした。グリュプスの首が半分ほど裂かれている。
巨体が横にグラリと揺れた隙に、ナディアは立ち上がると、突き刺さっていた剣を手に取り、裂かれた反対側から勢いよく斬りつけた。
グリュプスの首が飛ぶ。
頭部を失った巨体が血を流しながら地面に崩れ落ち、しばらく痙攣した後、動かなくなった。
レナータは、目の前の光景がまだ受け入れられなかった。
だが広がり続ける血だまりが、臭いが、現実だと伝えてくる。
ナディアはホウッと息を吐き出すと、微笑みながら、木の茂みに声をかけた。
「来てくださったのですね」
「遅くなってすまない。それにしても相変わらず君は、無茶な戦い方をする」
「無茶ではありません。あなたが来ていると分かったから、グリュプスの動きを止めただけです」
「それが無茶だと言っているんだ」
そう言って茂みから出て来たのは、アルバートだった。




