第15話
「あんた、今何を……」
「グリュプスが、私たちに気づいてこちらに向かってきています」
「そ、そんなわけないだろ‼」
ナディアの発言に、レナータは激しく目を瞬かせながら反論した。
猛獣が出るのは、未開の森と接している辺境や国境だ。
ワイドルク王国は未開の森と接している部分が少なく、元々猛獣が発生することは少なかった。
特にグリュプスは、ヤーブラルド帝国の辺境を生息地としているため、ワイドルク王国で見ることはない。
先日、アルバートたちが他の隊と合同で討伐に行ったグリュプスは、密猟団がヤーブラルド帝国からワイドルク王国に持ち込み、逃げ出した個体だと判明している。それだって討伐されたはず。
未開の森と接していないグリン領に、グリュプスが出てくるわけがないのだ。
しかしナディアは首を横に振った。
「以前、レナータ様が連れて行ってくださった宴会で、ムゥト様が報告なされていたではありませんか。グリュプス一頭を取り逃がしたと」
「……えっ?」
宴会時、ナディアとレナータの会話に無理矢理割り込んできたムゥトの報告が思い出された。
あのときは、意図的に話題を変えようとしてきたムゥトに苛立ち、彼の報告を遮ってしまったが、ナディアはしっかりと聞いていたようだ。
グリュプスは、死体でなら見たことがある。
頭と前足が猛禽類、体が獣をした猛獣。尖ったクチバシと、前足に生える爪は、あらゆる防具を切り裂くほど鋭利だ。
足が速いだけでなく、翼もあるため、長い距離の移動も可能。とはいえ、警戒心が強いため、生息地から出ることはほとんど無いと言われているのだが。
嘘だと否定したかったが、ナディアの発言を肯定するかのように、遠くで何か重い物が地面に落ちる音がした。
レナータの全身が恐怖で強ばり、奥歯がカタカタと鳴った。
「に、逃げよう! 今すぐここから‼」
「駄目です。もうすでに私たちは、グリュプスの縄張りに入っています」
「な、なんでそんなことが分かるんだよっ‼」
「ここに落ちたとき、グリュプスの臭いがしました。彼らは自分が気に入った場所を見つけると、色んな所に自分の臭いを付け、縄張りだと主張するのです。縄張りに入って来た同種同性は敵、そのほかはエサだと認識します」
「え、さ……? あたしたち、が……?」
エサ――それは死を意味していた。
グリュプスは獲物を動けなくすると、生きたまま捕食するらしい。意識があるなか、鋭いクチバシで肉を貪られる自分を想像し、胃から喉にかけて、熱いものがせり上がるものを感じた。
しかしナディアは続ける。
彼女の声色には恐怖による震えはなく、赤い瞳からは強い意志が感じ取れた。
「エサと認識された以上、逃げることは困難でしょう。だから出来るだけ体力を温存するため火と食料を用意して休み、少し移動して、迎え撃てればと思ったのですが……」
ナディアの言葉に、レナータは息を飲んだ。目の前の女が言った意味を理解した瞬間、今まで速かった呼吸がさらに速くなり、止まらなくなる。
「あ、あんたっ……あ、あ、あたしに、グリュプスを倒せと、言うんじゃ、ない、だろうね……?」
「まさか」
ナディアは驚き、しかし大きく開けてしまった口を恥ずかしそうに手で隠すと、常に携帯していると言ったナイフを手に、微笑んだ。
「私も一緒に戦います」
それを聞き、レナータは絶望した。
確かに自分は強い。
武人を輩出しているグリン家の誇りも、実力で隊長の座を勝ち取った自負もある。部下や、他の隊の騎士や兵士と訓練試合をしても、負けることはなかった。
だがそれはあくまで、人間相手の場合だ。猛獣となると話は変わってくる。
猛獣があまり発生しないワイドルク王国の者たちにとって、猛獣はまだまだ未知なる存在。
だから猛獣討伐は通常複数の隊と合同で行う。
最近では対猛獣用の特殊な罠が登場し、以前よりも安全に狩ることが出来るようになったらしいが、まだまだ油断は出来ない。
それほど慎重に戦うべき相手なのだ。
なのにレナータが持っている武器は、腰に差した一振りの剣。
一緒に戦うのは、小さなナイフを手にする幼馴染みの妻。
絶望しても仕方がなかった。
「……い…………だ……」
「レナータ様?」
「い、いや、だ……いやだいやだいやだいやだいやだ‼」
レナータは絶叫した。
岩の窪みの最奥まで後退ると、大きく頭を横に振った。その瞳には、涙が滲んでいる。
「かっ、勝てる訳がないっ‼ こんな武器と人数で……無理だ、絶対に無理だっ‼ 逃げ、る……逃げる、しかないっ‼」
「しかしこのままグリュプスを見逃せば、他の人間に危害が及びます。それにここはグリン領。グリン子爵令嬢として民を守る責任があるのでは?」
「そ、そんなの、どうだっていい‼ あ、あたしは、死にたくない……死にたくないんだっ‼」
叫ぶやいなや、レナータは岩の窪みから外に飛び出した。
猛獣のエサになりたくなかった。
死にたくなかった。
生き残れるなら、どうでも良かった。
しかし、
「ひぃっ‼」
突然、進行を妨げるように現れた大きな影に、レナータはその場にへたり込んでしまった。両足が震えて立ち上がることが出来ない。
グレーの双眸が、こちらを見下ろす金色の瞳を捉える。
目の前にグリュプスがいた。
レナータと同じぐらいの高さがある個体だ。だが背中には白い翼が生えているせいで、死体で見たときよりも巨大に見える。
「あっ、ああっ……」
唇の隙間から洩れた言葉は、絶望に満ちあふれた呻き声。
グリュプスの前足が上がった。
レナータの視界に鋭く尖った爪が映る。
獲物が怯えて動けないことを理解しているかのように、グリュプスの爪がゆっくりとレナータに迫った。
が――次の瞬間、グリュプスが叫び声を上げたかと思うと巨体がよろけた。白い羽が、フワッと雪のように舞い上がる。
初めはグリュプスがよろけたことで、翼が木にぶつかって羽が舞ったのかと思った。しかし、レナータの傍に遅れて落ちてきた血塗れの片翼の半分を見て、切り落とされたためだと気づく。
またグリュプスが叫び声を上げたと同時に、もう片方の翼の半分が地面に落ちてきた。
間違いない。
グリュプスの両翼が、切り落とされている。
一体誰が。
この場にいるのは、レナータと――
のたうち回るグリュプスとレナータの間に、小さな影が落ちた。
そこには、
「レナータ様、グリュプス討伐が初めてだったのですね。申し訳ございません。それなら恐怖を抱かれるのも当然です。でもありがとうございます。あなたがグリュプスの気を引いてくださったお陰で、安全に翼を奪うことが出来ました」
血に染まったナイフを構えたナディアの姿があった。




