牙を剥く獣
翌朝、イワガニモドキの住む水辺を出発してから数時間が経った頃、少し早めの昼食を済ませた俺達は奇妙な光景に出くわした。
周囲に漂う異様な獣臭が鼻を衝き、ギンレイは全身を総毛立たせ、耳を伏せて厳戒体勢を取っている。
普段は大人しいギンレイが、これ程の反応を示す理由とは?
「なんだこりゃ。
泥の……山?」
スコップで掘り起こした土を雑に積み上げた。
そんな表現がピッタリの盛り土が等間隔に並び、中には衣服らしき切れ端が含まれている山もあって、興味を惹かれた俺が近づこうとした瞬間、背後から鋭い声が飛ぶ。
「やめい!
それはデイドモグラの巣じゃ!」
「泥土? 土竜?
なにそ――」
俺の言葉を待つ事なく、不意に腰のベルトを掴まれて強引に引き倒された。
初音の焦った様子から、相当に厄介な野生動物の巣だという事は疑う余地がない。
そのままズルズルと引きずられる最中、『異世界の歩き方』を呼び出して調べてみると…。
「デイドモグラとは夜行性の哺乳類で、昼間は自身の糞尿を混ぜた泥の中で過ごす。しかし、外部から僅かでも刺激された場合は即座に反応を示し、その際の狂暴性は特筆すべき――」
「い、いかん! 立て!
追いつかれたら命はないぞ!」
初音の警告と共に泥山の一部が崩れ、中から顔を出したのは体毛のない巨大な鼠!
白濁した瞳と出来物だらけの皮膚を持ち、しきりに鼻を動かして匂いを嗅いでいる。
その醜悪な姿を目撃した途端、聞こえるはずのない鳥肌が立つ音を、耳の奥で確かに聞いた!
「ッッッッ~~~~!」
声すら出ない…!
ここで腰を抜かさなかった事は幸運の一言に尽きるが、不用意に近付いた事については心底自分の馬鹿さ加減に呆れ、ブン殴ってやりたい気分だ!
だが、事態の収拾は拳骨一発では到底足りない。
狭い山道に面した斜面には夥しい数の泥山が控え、一斉に蠢く様は孵化寸前の卵を想起させる悍ましい光景が広がっている!
「うぉぉああ走れ!
走れぇぇぇええ!!」
ギンレイを小脇に抱えて脱兎の如く逃げ出すが、地響きと共に凄まじい勢いで迫るデイドモグラは次々と数を増やし、山肌を被い尽くす程の規模で俺達を追う!
「クソッ…! はぁ、初音ぇ!
どうする!? どうすりゃいいんだよ!
ハァ! もう…そのドラム缶捨てちまえ!」
自分の体よりも遥かに大きなドラム缶を背負って走る初音。
中には猪肉から作ったリエットが入っており、もしかしたら化物の気を引く囮になるかもしれない。
我ながらナイスアイデアだと思った矢先、断固たる決意を込めた返答が返ってきた。
「愚か者め! むざむざと化物に喰わせるくらいなら、ワシがこの場で喰ろうてやるわ!」
「だーかーらー! 今ァぁああ!
食われそうなのは俺達の方なのォぉおお!」
食べ物を粗末にしない考えは素晴らしい。
それは分かる。
分かるのだが、自分の命はもっと大事に!
飯と命を天秤に掛けてる場合かよ!?
「うおおおおおあああ!!」
人生において、こんなにも躍動感と風を感じたのは初めてだ。
一本足を踏み外せば滑落死を免れないであろう険しい山道を、髭がトレードマークの配管工ばりに華麗なアクションで飛び越していく。
しかし、背後から追いすがるデイドモグラとの距離は一向に広がらず、むしろ徐々に縮まっていくのを、肌を震わせる轟音から察する。
これ以上はマジにヤバい!
いつまで体力が続くか分からない上に、こんな無茶なトレイルランもどきを連発してたら本当に死ぬ!
肺が焼きついていくのを感じながらも、バテ始めた初音を励まして兎に角走る。
だが、それも長くはないと悟りつつある中、小脇のギンレイが突然激しく吠えだした!
「ハァ、ハァ…どうしたんだよギンレイ!?
何か――ッ!? あれか! あれの事か!」
狼の持つ優れた五感は、未踏であるはずの地形を完璧に把握していた。
障害物だらけの細道から漂う気配。
谷底を吹き抜ける風。
眼下を流れる激流。
朽ちた木材の匂い。
そう、ギンレイは断崖に架かる一本の吊り橋を既に察知していたのだ!
ここを渡ってしまえば勝ち確!
吊り橋は古めかしい木と縄から作られており、一歩でも足を踏み入れると激しく左右に揺れる程に不安定だったが、そんな事は言ってられない!
ギンレイを庇ってヘッドスライディングで橋を渡りきると、後の一切合切を鬼娘に託す。
もうこれしか助かる道は――ないッ!
「初音ぇぇぇええ!!
やれぇぇぇええ!!」
「応よ、後で泣き言をいうでないぞ!」
威勢の良い言葉と共に背中のドラム缶を放り投げ、振り上げた小さな拳を橋の袂へ叩き込む!
途方もなく圧縮された衝撃が収束の果てに、木材と縄で作られた橋を橋塔ごと跡形もなく粉砕した!
目前まで迫っていたデイドモグラの群れは支えを失い、成す術もなく数十mはある崖へと真っ逆さまに落ちていく…。
谷底に累々《るいるい》と横たわる死骸を目の当たりにしても現実感はなく、一連の出来事は嵐のように速く、過ぎ去った時間は酷く緩慢に心を流れている。
舞い上がった埃が谷底へ還っていくのを呆然と見つめ、脳の処理が追いつくのを静かに待つ。
「ほれ、命を拾ったんじゃ。
もっと喜ぶがよい」
「……はは! 確かにな。
お前はマジに頼りになる奴だよ」
断崖を背に、余裕の表情を浮かべる初音。
彼女が居なければ俺とギンレイは間違いなく、さっきの化物に食われていただろう。
大いに体を張ってくれた巫女に感謝を述べ、俺達は更に森の奥地へと進む。
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