おやすみなさい
――小屋の周囲に渦巻く異常を察知したのは、食事を終えて就寝の準備に入った頃だった。
……何か、途轍もなく巨大ななにかが小屋の周りを移動する音。
俺と初音はそれぞれ分かれて隙間から外をうかがうが、そこには月明かりに照らされた森や草むらしかない。
だが、確実に--音の発生源はすぐそこに存在しているのだ。
声を出さずに初音の方を振り向くが、向こうも首を振っている。
まだ相手の姿を見てはいない。
しかし、こんな山奥で心霊現象じみた事をする奴には心当たりがあった。
そう、俺に取り憑いているという女媧しかいない!
いつもならノックもなしに入ってくるはずが、今夜に限っては小屋をグルグルと周回するだけに留まっているという事は、初音が張ってくれた注連縄の結界が効いているのだろう。
雨によって湿った地面から聞こえるズルズルという不快な音はその後も続き、およそ1時間程で聞こえなくなった。
「……行ったか?」
「恐らくな。
それにしてもお主、大層気に入られたのう。
絶世の美女と伝わる女媧様の御目に掛かったのじゃ、男子の本懐であろう?」
「アホか。
こっちは命が懸かってんだよ!
……まぁ、すげぇ美人だったのは否定しないけどさ」
分からない事だらけながらも、こうして何度も女媧と遭遇する内に、少しずつ傾向が掴めてきた。
まず一つに俺達が移動すると相手も後を追うが、1~2日は時間が稼げる事。
そして過去の経験則として、奴が姿を現すのは決まって夜だという事。
最後に先程も見た通り、注連縄の結界によって小屋への侵入を防いだ事。
兎にも角にも、物理的強攻策が一切通じない相手に対して、防御とはいえ有効な対策が判明したのは大きい!
現状では修験者を頼るのが最も確実だけど、万が一に備えて自前の対抗策を練っておくべきだろう。
「ここはもう限界かもしれん。
朝早くに出発しよう」
「ふわぁぁ~、やっと寝れるのぅ~」
大きな欠伸から牙を覗かせた初音は眠そうな足取りでハンモックへと向かい、ゴロンと横になった。
明日は早いと言ったばかりなので、俺の意見を受け入れてくれたのは素直に喜ばしい。
――喜ばしいのだが……。
「おい、そこは俺のハンモックだろーが」
「…そう遠慮するでないぞ美丈夫よ。
普段なら絶対に有り得ん事じゃが今宵だけは身分違いなれど、共に添い寝も許…」
怖がりの鼻先に寝ているギンレイを押しつけ、仕方なく初音のハンモックで横になるが、自分の意思に反して体が大車輪めいた回転を起こし、ド派手な効果音と共に地面に転落した。
何故こうなったのか、考えるまでもない。
フツフツと沸き起こる怒りを深呼吸で納め、見上げた先でハンモックの端を握り締める涙目の初音に声を掛ける。
「マジに無理な感じか?
このまま一睡もさせないつもりかよ」
「…………まぢ……むりじゃ」
怖いと思う感情に是非もなし。
俺は無言のまま起き上がってハンモックに寝そべると、片手で布地を引っ張って僅かにスペースを広げた。
そっぽを向いて寝たフリをしていると、初音は遠慮がちに入り込み、背中合わせの形を取る。
正直、すげぇ寝辛い環境ながらも、背後から聞こえる静かな寝息は不思議な安堵感をもたらし、仄かに伝わる体温がゆっくりと眠気を誘う。
明日…も…早いから……おやすみ…なさい……。
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