神奈備の杜
皆がひとしきり食べ終えた頃、スマホを見ると時刻は13時を回っていた。
まだまだ行動できる余地が残されている一方、未開の土地に足を踏み入れているという事を忘れてはいけない。
「なるべく早い段階で今日のキャンプ地を決めたい。そろそろ出発しようか」
「はー、ここは絶景じゃのに…勿体ないのう」
気持ちは分かる。
だけど、岩場は足元が不安定なので野営地には向いておらず、夜中にトイレに出た際は転落してしまう恐れもある。
渋る初音をどうにか説得して移動を促す。
そこから少し歩いた先は岩場のエリアを抜け、川が爆音を響かせて流れる急流が続いた。
日本の河川は川幅が狭くて流れが急だとよく言われるが、正確には上流へ近づくにつれ、目まぐるしい変化をしているのだ。
「ほんに不思議じゃのう。
ついぞさっきまで激流と思うたら、もう穏やかになってしもうた。まるで生き物のようじゃ」
「ああ、しかもちょっと雨が降っただけで様変わりするんだ。4月から5月は山の雪解け水が川に流れ込む影響で、年間を通して一番水量が多いんだよ」
昔、夏場に挑戦した川下りが楽しくて、翌年の5月に同じ川を下った事があるのだが、全く違う様相に驚いたのを思い出す。
夏は渇水で船底を擦る程だったのに、あの時はまるで川が洗濯機みたいに渦を巻いていた。
やっとの思いで目的地に着いた頃には、何度も転覆してヘロヘロだったなぁ。
「よく無事じゃったのう。
お主は見た目に似合わず泳ぎが達者なんじゃの」
「見た目は余計だろ。
それに、俺はそこまで水泳が得意って訳じゃないよ。命拾いしたのはライフジャケットのお陰さ」
川だけでなく水場で活動する際には必須のアイテム、ライフジャケット。
これさえ着ておけば絶対に助かるとは保証しないが、少なくとも死体は見つけてもらえるだろう。
神奈備の杜は川の流れに沿って道らしき物が続いており、足を踏み外して転落しない限りは大丈夫だ。
「それにしても…だ。
ここは昼間でも薄暗いな。
なんだか誰かに見られてるみたいだよ」
異世界に来てから度々感じている感覚。
注察妄想や対人恐怖症に近いのか?
最近になって視線が増えた気がするのだが、疲れているのかもしれん……。
「お主がそんなタマか。
きっと女媧様が近くに御座すに違いない。
あまり気にするな」
「それこそ大問題じゃねぇか。
めっちゃ気にするわ!」
辺りを見渡すと一面が鬱蒼と生い茂る緑に覆われ、視界が殆ど利かない状況。
これではいつ不意討ちに遭遇するか分からず、背中に嫌な気配を感じつつも足を進めるしかなく、無駄に神経を磨り減らさなければならない。
ただでさえ道幅が狭く、崩落している岩場や足場も不安定だというのに…。
「コレきっっっつ!
少し早いけど今日の野営地を探した方が良いな」
焦って行動すれば取り返しのつかないミスに繋がりかねない。
杜は御禁制の場所と呼ばれるに相応しく、複雑で険しい上に、一時間も歩かない内に地形が嘘みたいに変化してしまう。
傾斜がそこまで厳しくないのは幸いだったが、ここから先はどうなっているのか予想もつかない。
いつどこで野営するべきなのか。
正直、俺は迷い始めていた。
選択をミスると本当に遭難しかねない状況だ。
すると、先行していたギンレイの声が木々の奥から届き、何かを知らせているかのようだった。
「ギンレイ? 何かあったのかもしれん!」
もしや、また猪が出たのかもしれない。
言い知れぬ不安に駆られた俺は走りだし、初音も後に続く。
森を抜けた先は視界が大きく開け、目映い午後の光が俺達を包み込む。
「ギン…! ……ここは…誰か居るのか…?」
目の前には随分と前に放棄された荒れ果てた小屋があり、不気味な雰囲気を醸していた。