今日はもう寝る!
「嗚呼、旨い…なにこれンマイ……」
炎天下で見つけた洞水は木陰と吹き抜ける風によって程好く冷えており、甘味と僅かなアルコールを感じる不思議な味わいだった。
たとえれば夏場で散々歩いた後に、冷奴を肴に一気飲みする生ビールと同等の美味しさ?
いやいや、それは言い過ぎか。
「うん、どちらかと言えばカクテルに近い?」
一頻り喉の渇きが癒された事で落ち着きを取り戻したのだろうか、洞の少し上に朽ちかけた蜂の巣があり、中の蜂蜜が幹を伝って水に溶け出しているのに気づいた。
そういえば聞いた事がある。
岩の窪みや洞に果実や蜂蜜が入り込み、雨水と混ざって自然発酵した天然の恵み『猿酒』
昔の猟師は好んで飲んだそうだが、虫や鳥の住処でもある場所に溜まった水などとてもではないが飲む気になれず、今までスルーしていたのだが…遭難しなければ一生味わう事なく過ごしていたかと思うと、なんだか得した気分だが安心してもいられない。
相変わらず救助の目処もなく、民家も見つかってはいないのだ。
このままではジリ貧になるのは目に見えている。
だからこそ、どうにかして人里を目指すのがベターだと俺は思う。
「考えもまとまったし、そろそろ行くか」
少し元気が出た所で再び腰を上げて南を目指す。
念の為に道中の小枝を時々折って目印とするのを忘れないようにし、何か口にできそうな果物や木の実がないかを注意深く探しながら歩く。
一面が緑に覆われているが、視線を地面に移せば所々に野草や白いキノコが自生している。
しかし、軽々しく口にするのは早計だ。
特にキノコはヤバいなんてもんじゃなく、10年間で300件以上の食中毒が報告されている。
その中でも白色のキノコは毒を持っている可能性があり、いくら空腹でも付け焼き刃の知識で手を出すのは避けた方が無難だ。
「野草にも毒を持った物があるが…これは何だ?」
足元には長い柄と紫の葉を広げた植物が一面を埋めていた。
特徴的な清涼感のある香りはシソとよく似ているが、相違点として葉が3つに分かれており別の植物にも思える。
「本当にシソの仲間か?
だとすれば食べられるんだけど…」
しばらく迷ったが口にするのは保留とした。
見知らぬ土地でもし救助が遅れれば、腹痛であっても万が一という事態になりかねないからだ。
まぁ、半日も山を歩いているのに人っ子ひとり見ない時点で、救助されるのかどうか相当に怪しいが。
その後は休憩時に板チョコを少しだけ食べて我慢するが、消費したカロリーと釣り合いが取れず心情的にはもっと食べたい気持ちが強まってしまった。
荒れた心を落ち着かせようと再び深呼吸を行うが、一瞬の静けさによって耳にしてしまう。
自分の背後から静かに迫る物音に!
「……ヤバい……ヤバい…ヤバいヤバい!!」
振り返りたくても心が拒絶する。
何故なら――明らかに人間の足音ではない!
もっとずっと長い…何かを引きずるような音…。
しかも、かなりの重量を彷彿とさせる上に、空気が抜けるような音まで混じっている。
「ッ…………う、うぉぉおおおお!!」
萎えそうな心を奮い立たせる為、気合いの大声を上げて振り返るが――。
「だ、誰も居ない……。
なんだよ…幻聴だったのか?」
あまりにもリアルで生々しい音が気のせいだったとは俺自身も正直、思えない。
しかし、疲労による幻聴という事にしなければ今にも発狂してしまいそうだった。
とはいえ、ここで闇雲に走って逃亡した挙げ句、無駄に体力を浪費してしまえば、待っているのは確実な死あるのみ。
ここは今一度、自分を騙してでも冷静さを取り戻さなければならない。
少しでも気持ちを落ち着かせようと震える手でスマホを取り出して確認すると、朝方の4時前だ。
「!? いやいや、数時間前まで太陽は真上にあったはずだ! スマホの時計がズレてたのか…?」
出発前は確実に時刻ピッタリだった。
新幹線と電車を乗り継いで雪山に来たのだから、それは間違いない。
では何故か?
何故…感動的なまでに美しい太陽が、西の空へ沈もうとしているのか!
見れば儚い夕日が鬱蒼とした森林を朱く染め上げていく最中であった。
「あり得ない……俺は…疲れてるのか…?」
確かに今日は散々歩き倒したさ。
雪山で暖かく過ごす為に、全身を完全防寒コーデで初夏みたいな陽気の森を歩き回った。
オマケに意味不明な幻聴にまで悩まされていたのを鑑みるに、疲労が頂点に達したのは明確だ。
「そうだ、俺は疲れている!
今日はもう寝る!」
ぐらつく頭を抱えて下を向いていると、地面に映る影は長く長く伸びやかに、俺を見つめているように感じた。