最終話 キャンプに行こうよ!
微睡む午後の陽気が眠気を誘う。
ここ数週間、ずっと夜遅くまで作業を続けた結果、俺の体は殆ど抵抗することなく、呆気ない程に誘惑を受け入れてしまった。
夢と現実の狭間を行き来する心地よい時間が流れ、いつしか遠い場所から安らぎに満ちた声が意識を呼び覚ます。
「あなた、こんな所で寝てたら風邪を引くわよ」
「あ…あぁ、いつの間にかね。
明日がオープンだからって気張りすぎたのかな。こう見えて、俺も歳だからさ」
ペンを杖に見立てて老人の仕草をすると、妻の江は快活な声をあげて笑ってくれた。
こうして二人で会話をしていると、江と出会った日の出来事を思い出す。
大学を卒業した後、地元の地方銀行に就職した俺は日々の業務や人間関係に悩み、唯一の趣味だったソロキャンプに没頭していた。
「本当に、君に出会えたのは俺の人生でなによりの幸運だったよ」
「もう! またその話?」
赤くなった顔を見られまいと、外方を向く江。
ソロキャンプ中に妻と運命的な出会いを果たした俺は彼女と意気投合し、その後に数回のキャンプを経て付き合う事となった。
そして――。
「何年かして…赤ちゃんが出来た――」
いま思い出しても泣きそうになる。
あの日、江が恥ずかしそうにお腹をさすりながら話してくれた瞬間、俺は万感の思いで神に感謝を捧げた。
大袈裟かもしれないけど、本当に人生の転機を迎えた気分だったんだ。
「その日の内に、役所へ結婚届を提出して…。
そう、色々あったんだよなぁ」
彼女の父、矢旗 八兵衛さんとは特に色々――いや、メチャクチャ色々あったのだ。
「当方の許しも得ずに結婚とは何事かー!
…てね。確かに舞い上がっていたとはいえ、まずは相手方の親に報告を済ませるべきだったと思うよ」
「片親だったから余計に――かしらね…」
江のお母さんは早世しており、八兵衛さんは男手ひとつで、三人の子供を育ててきたという自負もあったのだろう。
「弟の万治郎君にも随分と手を焼いたもんだ」
妻は顔を真っ赤にして、懐かしい日々を思い返しているようだ。
万治郎君は最近の子にしては珍しく真っ直ぐで、とにかく姉である江を大切にしている。
「お陰でとんでもなく恨まれちゃってさ、結婚はバイクレースで当方に勝ってからにしろ! とか言われたなぁ」
「あの子ったら…」
地元の青年団をまとめる立場の万治郎君。
かなり独特な感性を持った子だけど、彼と義理の兄弟になれたのは素直に嬉しかった。
「妹の藍がお父さんを説得してくれなかったら――ふふっ、私達はどうなってたんでしょうね」
「いや、本当に! 感謝するばかりだよ」
江と藍さん、そして万治郎君の三人姉弟は近所でも評判になる程の人物で、地域のボランティアを率先して行い、誰からも頼りにされているんだ。
彼女達との交流を通じて、俺の心境も見違えるくらい変わったんだと思う。
特に大きかったのは安定した銀行勤めを辞めて、夢だったキャンプ場を伊勢の地で開設した事。
子供が生まれて数年だったから不安もあったけど、妻や藍さん、万治郎君や地域の人達と一緒になって作ったキャンプ場だ。
「明日は鈴ちゃんを連れてくるんだっけ?」
「ええ、きっと喜んでくれるわ」
多分、一番喜んでくれるのは――。
管理棟の扉を勢いよく開けて入ってきたのは、最愛の娘である初音とシベリアンハスキーのギンレイ。
相変わらず好奇心旺盛で元気すぎるくらいに元気な、今年で4歳になる女の子。
「あしなよ、はらがへったのじゃー!」
開口一番に大声で空腹を訴え、苦言を呈する妻と追い駆けっこを始めた。
傍らのギンレイも何やら楽しそうな遊びが始まったと思い、一緒になって管理棟を縦横無尽に駆け回る。
それにしても、あの変な口調はアニメの影響なのだろうか?
妻が躍起になって治そうとしても一向に改善せず、最近は諦めた節すらあるのだが…。
「うるさいなー。寝れねェじゃねェかよ」
「いずなよ、もう昼じゃぞ!」
二階から寝ぼけ眼で降りてきたのは、プログラマーの飯綱。
当キャンプ場の宣伝ブログや経理を担当する頼れるスタッフ――なのだが、余暇の時間になると完全自立型AIゴえもんを開発する事に心血を注ぐ、ちょっと変わった娘さんなのだ。
「やれやれ、それじゃあ何か作ってくるよ」
「ワシ、やきしおタンがすき!」
めっちゃ渋いのリクエストするやん。
キッチンに入った直後、後をついてきた初音がポケットから何かを取り出す。
「なんだい、これ――え? な…!」
手渡されたのは、ロッドが縦方向に裂けて半分程になったファイヤースターター。
子供の悪戯とはいえ、どうやったらこうなるんだ?
困惑していた俺に、娘が照れた表情で告げる。
「あの時は済まなかったのじゃ」
「お前……いつの…」
それだけ口にすると妻のところへ駆け寄り、何事もなかった風に他愛ないお喋りを始める。
俺自身、このファイヤースターターに見覚えはなかったが、どこか胸の奥で扉が開いたような――懐かしい記憶に手が届いた気がしていた。
「それでね、もうすぐ初音ちゃんに妹が生まれてくるのよ。名前は――」
異世界だろうがソロキャンだろう!?
one more camp!
これにて閉幕なり。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ラストは元の世界に戻ってきた、という感じで締めさせてもらった次第です。
実際には二つの平行世界が調和を保った状態で混ざりあい、新しい世界が誕生しました。
ラストでは言及されていないキャラクターも、この世界ではちゃんと存在しています。
前世(以前の世界)の記憶を持つ者は殆どいないのですが、それぞれが忘れ難い夢のようなニュアンスで、僅かに覚えているような感じでしょうか。
次回作は今年の2月か3月を予定してます。
そちらも読んで頂ければ幸いです。