異世界でも残業はあります!
魚の入ったバケツに目をやると鮨詰め状態でも半数近くは生きており、苦労して運んできた甲斐を実感する。
ざっと数えて30匹は釣ったので、これから遅くまで保存食作りに精を出さなければならない。
会社の仕事なら間違いなく文句を口にするところなのだが、生きるか死ぬかのサバイバルとなれば話は別だ。
「あーい、本日の残業開始~」
食事の直後という事もあり、満足感と仕方なしの妥協が入り混じる感情によってユル~い雰囲気で開始を宣言する。
まずは時間のかかる干物から始めよう。
『干物』と言っても実は様々な種類があり、日光を利用した一般的な天日干しを始め、塩干し・素干し・凍干しなど挙げられるが、今回は焼き干しに挑戦してみようと思う。
「本で読んだだけの聞き齧りだけど、やってやれんくはないだろ」
異世界に飛ばされたと分かった時から、出来る出来ないは別にして、何でもやると決めていた。
最初に行うのは下処理。
鱗と内臓を全て取り除き、全体に塩を揉み込んでから竹串に刺す。
串焼きとの違いは腹に小さな爪楊枝を入れ、中までキッチリガッチリ完ッッッ全に水分を飛ばす事。
少しでも水分が残っていた場合、そこから雑菌やカビが繁殖して、食中毒を引き起こしてしまう恐れがある。
「幸いにして時間だけなら一生ある。
俺が一晩かけて相手してやるぜ!」
焚き火の周囲に等間隔で串を並べ、定期的に回して全身を隈無く乾燥させていく。
狼が先に寝てくれていて助かった。
これだけの魚を見たなら最後、大興奮した挙句に焚き火の中へ飛び込んでいただろう。
「さて、お次は甘露煮か。
こっちも作るのは初めてだけど…やってみっか」
先程と同様に内臓や滑りを取り除き、追加購入したキッチンペーパーでしっかりと水分を拭く。
こうして考えると、使い捨ての道具がどれだけ贅沢なのかが骨身に沁みて苦笑いしてしまう。
だが、この工程で水分を残す訳にはいかず、どうしても必要なのだと割り切るしかない。
次に煮付けと同じ工程で漬けタレを作るのだが、塩と砂糖の分量はかなり多めにしておく。
こうする事によって菌の繁殖を抑え、ある程度の保存が可能となる。
そしてダッチオーブンに薄切りのジンショーガとタレ、魚を投入して水分が完全になくなるまで煮詰めていくのだ。
「おっと、焼き干しの方も忘れちゃいかんな」
甘露煮との同時進行を一人で行い、火加減に気を配りつつ忙しく立ち回る。
これも明日の為だと自分に言い聞かせるが、何で俺がこんな目に遭ってるんだと愚痴りたくもなってしまう。
「どーにもなんねぇんだけどさ……でもなぁ…」
行き場のない怒りや不安が心に浮き沈み、再び生まれた場所へと帰っていくのを繰り返す。
キャンプを始めてから気づいたのだが、炎とは本当に不思議な存在だと思う。
静かに燃える焚き火を見つめていると人は時々感傷的になり、いつしか内に秘めた感情やストレス、誰かへの想いを客観的に見直す切っ掛けを与えてくれる。
まるで、誰かと対話しているかのように――。
古代の人間は火を崇めたそうだが、理屈を抜きにして少しだけ分かる気がする。
暖かい炎がホームを照らし、複雑な岩肌に反射して妖しく揺らめく。
次第に疲労が頂点に達する頃、どうしようもない眠気に襲われ、いつの間にか意識が細切れに……遠くから…犬の鳴き声が………。
「なんだよ…お前。
さっきから何に吠えて…」
一瞬、炎の番を怠った事に対して教えてくれたのかと思ったが――違った。
眠い目を擦ると狼は外へ向かって激しく吠えている。
野生動物でもいるのか?
この時の俺は呑気に構えていたのだが、これなら熊の方が遥かにマシだ!
「う…あ……く、来るな!
こっち来んじゃねぇ!!」
降りしきる雨の中、洞窟の入口に立っていたのは…異国の服を身に纏う女だった。
それだけなら俺と同じ遭難者だと思っただろう。
だが、焚き火に照らされた女の影は明らかに人間のモノではなかったのだ!