日ノ本武士の本懐
「…姫様には申し開きせねばならぬ事が山積しておりますが――今はただ、侍の本懐を果たすのみ!」
滑り落ちた初音を再び捕らえようと手を伸ばす紋七。
巨大な掌が小さな顔に影を落とすが、鋭い切先はそれを許さない。
絶え間ない波間を思わせる刃文から鋼の閃光が走り、重厚な鎧を微塵に砕く。
文字通り目にも止まらない刺突をまともに受けた鬼武者は、小山と思える程の巨躯を大きく後退させた。
「すごい…相手の半分にも満たない体重しかないのに!」
格闘技において体重とは覆し難いアドバンテージ。
最もメジャーなボクシングが体重によって17もの階級に分けられている事からも、体格の違いは残酷な『実力差』という事実なのだ。
その深い溝を一本の刀だけで埋めてしまうとは…。
「ギンレイよ、此方に姫様をお連れせい」
言われるがままにギンレイは呆気に取られていた初音に向かって一声すると、服の襟首を咥えて俺の所まで後退する。
「よくやってくれた。
お前も無事で嬉しいよ、ギンレイ…」
労いの言葉に鼻を鳴らして応えた愛犬。
よく見れば全身に細かい刃物傷を負い、相当な無理をさせてしまった事を悔やむ。
「もう心配はいらぬ。
爺が戻ってきたのじゃ。
必ずや勝利を納めてくれる!」
ゆっくりと間合いを詰めていく両者。
俺は当初、鬼涙石に取り憑かれた紋七は正常な判断力を失っていると思っていた。
だが、間合いを詰める最中、彼は驚くべき行動をみせる。
「鎧兜を……捨てただと?」
重傷を負った万治郎が驚嘆の声をもらす。
紋七は壊れて機能を失った鎧を自らの意思で砕き、無意味な枷だと言いたげに兜を投げ捨てた。
「どうしたというのじゃ?
あれでは裸同然ではないか…」
初音は意味が分からないといった具合に疑問を口にする。
確かに、これから斬り合いをするのに命を守る防具を捨ててしまうのは不可解な行動と言えた。
「…そうではない。
お主らも先程、見たであろう?
矢旗 八兵衛が振るう剣技の前では鎧兜など何の意味も成さぬ。だから自ら捨てたのだ。最後の一撃を、全身全霊の万全な状態で繰り出す為に!」
勝敗に関わらず、次の瞬間が最後――。
数々の死地を踏破した澄隆公の言葉に息を飲む。
武人が持ち得る嗅覚が死の匂いを嗅ぎ分け、戦場で訪れた死期が鬼涙石の支配を凌駕したのだ。
彼は今、意志がない人形同然にも関わらず最後の時を悟り、武人としての使命を全うする為に奇跡を起こした。
「これが……これが日ノ本武士の本懐!」
打ち奮える心が偽りの肉体を巡り、負傷によって萎えそうだった闘志に火を灯す。
古の時代から続く決闘の作法を目の当たりにし、遠い場所かと思われた異世界で、奥底に眠る起源へ辿り着いた感覚を味わう。
「みな、心してみよ!」
澄隆公にとって、どちらも得難い家臣。
だが、彼は一瞬も目を反らす事なく、行く末を見届けようと両目を見開く。
「此度の一戦、我が生涯第一の誉れなり!」
「応!」
港町を席巻した争乱が嘘のように静かだ…。
荒波が二度、三度と打ち寄せるたびに両者の間合いは近づき、互いに命を懸けた攻撃を見計らう。
一際に大きな波が視界を遮った刹那、鋼鉄の鎚が唸りをあげて襲う!
「…………!」
その時、全ての現象がコマ送りのスローモーションとして網膜に焼き付く。
死の象徴だった巨大な鎚は八兵衛さんの左肩から肘の肉を削ぎ取り、掠めた衝撃で関節を含んだ骨を完全に破壊した。
そして、同時に放たれた白刃は真っ直ぐに紋七の額へと迫り、鬼涙石ごと皮膚と頭蓋骨の一部を斬り飛ばす。
「……あ……ッッ!」
崩れ落ちる紋七。
彼は――八兵衛さんは自分の腕を犠牲にして、もう一人の家臣を殺さずに、活かしたまま戦いに終止符を打った。
「おおおお! 見事なり!
それでこそ我が娘の守役!
それでこそ波切り八兵衛なり!」
「お、親父殿…!」
鬼の領主とヤンキーが涙を流して感情を爆発させる。
いや、あの二人だけではない。
俺も初音も沸き起こる感情を抑えられず、心の喝采が涙となって流れるのを止められなかった。