逃亡先の拠点は…
「…そんな…くすぐったい……お江さん…」
甘い一時は雷鳴じみた衝撃と共に突然の終幕を告げ、後に残されたのは触れるのも憚る大きさのタンコブのみ。
嗚呼、せめて夢の中だけでも会いたかった…。
「どうじゃ寝坊助よ。
起き抜けの挨拶は気に入ったかの?」
初音は青筋を立てた笑顔のまま拳を握り締め、今にも追撃してきそうな気配を漲らせている。
「アッハイ、ありがとうございました…。
言えねぇ…。
『なんで怒ってるの?』とか、とてもじゃないけど言える雰囲気じゃねぇ…。
後から到着した面々は巨大なタンコブで全てを察したのか、哀れみを含んだ目で俺を見ている。
「それにしても未来の技術か。
原理とか全然分かんないけど、神奈備の杜にあった飯綱のラボと同じなのかな?」
「厳密には違うんですがね、似たようなモンでさぁ」
光のカーテンとも言うべきゲートから姿を現したゴえもんは説明をはぐらかした。
多分、詳しく話したところで俺には到底理解できないと知った上だろう。
「さてさて、上手い具合にお日様も顔を出しましたなぁ。ほら、こっちでさぁ」
そういえば俺達はどこに飛ばされたんだ?
ここは先程の原っぱではないように見える。
全くの異邦人である俺には現在地の予測すらできずにいた。
「しかも、いつの間に朝日が…。
なぁ、あれから大して時間なんて経ってなかったよな?」
「言われてみれば…。
じゃが、衣服の乾き具合からして数時間は経っておろう」
ボートからの上陸時にズブ濡れた衣服は完全に乾き、かなりの時間が経過していた事を示す。
井戸に飛び込んだ俺の意識は直後に途絶えており、それより少し前に目覚めていた初音にも分からないらしい。
後ろを歩く澄隆公も驚いた顔で周囲を見渡している事から、古井戸を使った未来の移動では一定の時間が経過すると考えて間違いないだろう。
「とりあえず前に進めば道なんてのは開けるもんでね。
これがその証拠ですぜ」
前に進み出た彼は、背の高い草で覆われた一角を強引に押しやると、開かれた視界によって晴れ渡る空と青い海が俺達の視線を釘付けにする。
――そこからの眺めは一生忘れられない。
高台に居た俺達は立ち昇る朝日を背に、眼下に広がる美しい白亜の港町が放つ輝きにしばしの間、時を忘れて見惚れてしまう。
太陽を迎えた大海原は夜空の星々よりも眩しく煌めき、複雑な地形に分布するいくつもの島々を眩く照らしだす。
「ここは見覚えがあるぞ…。
英虞湾だ! 熊野から志摩まで一瞬で移動したのか!」
「ちぃとばかし一計を案じやした。
城を占拠する甲賀藤九郎は、あっしらが逃亡の末に井戸へ身投げした事実を信じられず、血眼になって近辺を探すでしょう。そこを逆手に取り、熊野の隣にある港に出て追跡を躱し、そこを拠点にして城を奪い返す腹でさぁ」
「うむ、見事な策なり!」
ゴえもんという男、一体どこまで切れ者なのか…。
妙な感覚だけど、彼が味方で本当に良かった。
そうでなければ、無勢の俺達が苛烈な追跡から逃げ切るどころか、反撃に転じるなど無理な話だっただろう。
「志摩にこんな場所があったのかや!?
すごい! まるで伊太利みたいじゃ!
父上、早く行きたいです!」
異世界日ノ本ではお目に掛かれないであろう、情緒ある異国の町並みに初音は大いに興奮している様子。
しかし、飯綱は鋭い声で警告を促す。
「だっから~お前はお子ちゃまなのさ。
ゴえもんの計画はたらればの話でよ、問題が一個だけ残ってンだわ」
「問題だって?」
渋い表情のゴえもんを横目に、飯綱は事もなげに口にした。
「あの港、もう甲賀の連中に落とされてンよ」
恐ろしい情報を耳にした俺達は一斉に振り返ると、町のあちらこちらから薄い黒煙が立ち、普段なら多くの船が停泊しているであろう港は、一隻の軍艦らしき船しか見当たらない。
「な……に? 出鱈目を申すな!
西班牙村は熊野における海外貿易の拠点ぞ!
故に、何重もの強固な防衛策と鬼属兵士を――」
澄隆公は口にしている途中で気づく。
そう、ここも熊野の鬼ヶ城と同様、鬼涙石によって拠点を守る兵士は無力化されてしまった事に…。