鬼ヶ城、脱出!
ポツリと呟いた言葉に反応を示す者はいなかった。
皆、目の前で起きた本物の奇跡に心を奪われ、それどころではないのだろう。
「澄隆の旦那が囮になるんだ。
これほど敵さんの目を引く人物はいねぇや」
「…確かにな」
藁人形から作った身代わりは通路の出入口まで進むと、本人と見分けのつかない声で俺達の脱出を促す。
「ここは儂が引き受けよう。
早急に城から離れるがよい」
「う、うむ……頼んだぞ」
流石に一国の城主といえども、自分と瓜二つの身代わりを前に動揺しているのか、僅かに震えた声で威厳を保つのが精一杯の様子。
「脱出ルートは確保してあンぜ。
アタシ様が手ェ貸してやんよ」
通路にポッカリと開いた穴から外を見ると、そこは背筋も凍る断崖絶壁に囲まれ、荒々しい波が打ち寄せていた。
「これは落ちたら死ぬ……かなぁ」
飯綱の差し出す手を取った直後、地下牢へと続く道には鬼属の一団が押し寄せ、激しい戦闘が始まった。
「ちょ! まだ初音が――」
「急いでくだせぇ!」
ゴえもんは体操選手にも勝る身のこなしで断崖をロープなしで飛び降り、軽々と先を進む。
「ち、父上…」
「心配致すな。
儂に掴まっておれよ」
続く澄隆公は初音を抱えたまま飛び降りると、猛烈なスピードで岩だらけの地面に激突――いや、突き刺さった。
「お、おい! 大丈夫か初音ぇ!」
「お、おおおお…………だい、大丈…夫……じゃ…」
飯綱の手を借りて地上に降り立ち、急いで2人に駆け寄ると初音は恐怖で腰が抜け、地面にへたりこんでしまった。
一方の澄隆公は胸元まで地面に埋まってはいたものの、まるで風呂上がりみたいな感覚で穴から抜け出す。
「あの……貴方も…大丈夫…すか?」
「うむ」
あれで無傷とかマジモンの化物だろ。
断崖はどう考えても転落死を免れる高さではなく、運が良くても全身の骨が残らずバラバラになってしまう程の衝撃だったはずだが…。
「鬼の頭領なら驚くこたぁねぇよ。
それよか、こっからはお前の出番だぜ。
アタシは一度に一人しか運べねェからな」
「ああ、任せてくれ。
こっからは大盤振る舞いだ」
Awazonで購入したのはフィッシングボート。
エアーで膨らませる必要のない大型のポリプロピレン製で、かなり頑丈な作りをしている。
これなら熊野の荒波でも越えられると思う。
「…多分だけど」
ボートに船外機の類いは一切なく、完全な人力のみで漕ぎ出さなくてはならない。
この僅かな陸地から向こうに見える対岸までは相当な距離があり、普通の人間なら辿り着けるかどうかも怪しい。
――普通の人間ならな。
「問題ないわい。
ワシら鬼属の力を見せてくれるわ!」
言うが早いとばかりに、勇んでボートに乗り込む九鬼家の親子。
左右に分かれて短いパドルを操る様は親子ならではの微笑ましい光景だが、船外機など足元にも及ばない速度で波間を進む。
「こりゃ楽チンだねぇ。
馬力に関しては十~分でさぁな」
軽い調子の声に紛れ、漏れ出る吐息は異常な熱を帯び、額を流れる大量の汗は明らかな警告を発している。
遠ざかる鬼の居城を背景に、ゴえもんの容態は急速に悪化の様相を見せていた。




