初音の本心
刻一刻と輝かしい陽の光が東の空から失われ、訪れる参拝者が疎らになる頃、辺りは夜の帳に包まれた。
「動きはない…か。
こりゃ長期戦になるかもしれんぞ」
念の為、神社の関係者には盗難が相次いでいる事を伝えた結果、警備を強化すると言ってはくれたものの、どれ程の効果があるのかは不明だ。
鬼涙石を狙う存在は八兵衛さんの意識を完全に支配しただけでなく、彼を利用して各地の神社を襲おうとしたのだ。
そんなヤバい奴相手に、民間の警備で防げるとは思えない。
「あしなよ、少しよいか?」
いつになく神妙に改まった表情の初音が話し掛ける。
手を後ろに回して躊躇いがちな様子は、昼間はしゃいでいた時とは別人のようだ。
「ああ、構わないけど…どうした?」
新しく購入したタープテントが風に揺れ、無言の時間を繋ぐ。
普段の初音は言いたい事があればハッキリと口にする性格をしており、このように言い淀むのは珍しい。
多分、かなり言い出しにくい相談なのだろう。
「…立ち話もなんだし、座って話そうか」
追加で購入したのはアウトドアチェア。
肘掛けの付属した背もたれの広いタイプで、腰を下ろすと体全体がすっぽりと収まり、自然とリラックスできる優れもの。
「お、おお! 卵を優しく包み込むような感覚!
椅子とは角張って固い物じゃと思っておったが、全然違うんじゃのう」
日ノ本では床に直接座るスタイルが主流で、海外から伝わった木製の椅子は肌に合わなかったらしい。
初めて座るアウトドアチェアが、従来の印象を180度変えたようで何より。
「珈琲を飲んだ事はあるか?」
「あ~、あれじゃろ?
こう…粘っとして、辛い食い物だったような…」
いまの説明だけで未体験だという事は分かった。
不思議なガマ口からヒグレタンポポの根を乾燥させ、粉末状にした物を取り出し、じっくり湯煎していくと仄かな香りが立ち込める。
「味の方は珈琲もどきって感じだけど、カフェインレスだから夜に飲んでも安心なんだよ」
「かふ…そ、そうか」
なるべくリラックスできる状況を作ったつもりだったけど、それでも初音は落ちつきなく足をバタつかせたり、ギンレイの背を撫でているだけで一向に話を始める気配がない。
「なんだか久しぶりだな。
こうしてお前とギンレイで旅するのは」
「そうじゃのう…」
今夜の初音は口数が少なく、俺と顔を合わせないように海を見つめている。
もうすぐ梅雨入りだというのに、夜の海はどこまでも晴れ渡り、美しい月が波間を照らす。
「良いロケーションだよな。
異世界の風景はどこも綺麗で…自然豊かで…」
元の世界と比較すると自然に触れる機会は圧倒的に多く、初めて目にする動植物には驚きの連続だ。
「そ、そうであろ?
どうじゃ、その…まだ元の世界が恋しい…か?」
少しずつ初音の気分が上向いていくのを感じ、こちらからの質問は控えた。
本当に話したい事は、彼女が口にするまで待とうと思う。
「うーん、帰れるならって感じだけど…」
「だけど、帰れなかったら…。
お主は…どうするつもりじゃ?」
俺は今までの旅路を思い返し、万が一の場合も想定していた。
「そん時は…お前の専属シェフにでもなるさ」
「ほ…ほぉ! そうか、そうか…わ、ワシの専属かぁ。
な、なるほどのう…それは名案じゃぞ!」
伊勢で暮らす事も考えたけれど、手に職もない俺が異世界で生き抜くのは容易ではない。
やはり、安定した生活は何よりも重要だ。
それに――。
「お前は放っておくと無茶するからな!
誰かが見ていてやらないと危なっかしいんだよ」
「ははは、言うではないか!
……しかし、そうかもしれぬ。
誰かが近くに居らねば、ワシは何処でも……ひとりで…ひ、ひとり…爺も女媧様も姿を隠してしもうて…これで、あしなまで消えてしもうたら…」
いつの間にか、初音は泣いていた。
二人を失ったのは初音にとって、母親との死別に次ぐ別れだったのだろう。
とっくに分かっていた。
昼間、あんなにも楽しそうにしていたのに、どこか無理をしていると感じた。
今ようやく、彼女は本心を打ち明けたのだ。
「初音…」
「あ、あしな…」
気づけば初音を抱き寄せ、耳元で囁いていた。
「絶対にお前をひとりにはしない。
危険が迫れば絶対に助けてみせる。
だから…もう泣くな」
静かな波音が少女の泣き声を覆い隠し、悲しみを水面の彼方へと洗い流していく。