妖刀に魅入られし者
「万治郎! 爺!」
初音の悲痛な声は夜の闇に消え、永遠とも思える一瞬が流れる。
万治郎の手から木刀が滑り落ち、全身から力が抜けていく。
真っ直ぐに心臓を貫かれ、地面にひれ伏す万治郎だったが――。
「ぐ…ぅ……クソ…がっ!」
生きている!
だが、駆け寄ろうとした俺達の前に女媧様が現れ、厳しい口調で制止した。
『いっては駄目!
いけば…殺されます』
彼女が感情を込めて話すのは極めて珍しい。
困惑と焦燥感に駆られた俺はどうすればいいのか判断できず、八兵衛さんへ必死に訴える事しかできなかった。
「万治郎は貴方の息子ですよ!?
一体…どうしたんですか、八兵衛さん!」
しかし、問い掛けられた八兵衛さんの耳に俺の言葉は届いておらず、依然として彼の関心は手にした刀に注がれている。
あの刀…神奈備の杜で俺が手渡した物じゃない。
行方不明中に入手したのだろうか?
「斬れぬ……面妖な……術」
よく見ると万治郎の体は半透明の膜に被われ、刀を受ける寸前に女媧様が神力で守ってくれたようだ。
虚ろな瞳が刀の切っ先を不思議そうに見つめ、月明かりが老侍の痩せた姿を影絵の如く射抜く。
「あれは…まさか……村正か!?
じゃが、桑名宗社で厳重に守られておったはず…。そうか、それで爺は…」
一人で合点を得た様子の初音。
「あの刀がどうかしたのか?
どう見ても古いだけの刀じゃないか」
刀剣類に疎い俺には理解できないが、八兵衛さんの変容に刀が関係しているとは思えない。
否定の言葉を口にした矢先、女媧様が驚くべき事実を述べる。
『あれは…千子 村正が己の血と命で打った最後の一振り。 此の地にあまねく全てを斬りたいと願った…妖刀』
「妖……あ、あり得ない!
馬鹿げた威力は刀の力だというのですか!?
八兵衛さんが正気を失ってるのも、妖刀に魅入られたのが原因だと!?」
妖艶な輝きを放つ刀は吸い込まれる程に研かれ、美しくも危険な気配を漂わせる。
しばらく見惚れていた八兵衛は、思い出したかのように向き直ると、負傷した万治郎を無視して俺達の方へ歩き始めた!
「爺…ワシを斬るつもりか?
20年の付き合いを忘れ去るほどに、たかが刀一本に心まで奪われたか!」
「20…?
誰だ……お前は……誰?」
歩みを止めた八兵衛さんは苦悶の表情を浮かべ、矢鱈目鱈に刀を振り回す。
家屋を破壊した威力には劣るものの、それでも到底近づく事などできない!
効果有りとみた初音は、なおも語り掛ける。
「思い出せ。
お主は我が父、九鬼 澄隆第一の忠臣にして波切りの異名を与えられた矢旗 八兵衛じゃ!」
過去を呼び覚ます説得によって、彼の苦悶は精神にまで及ぶ激痛へと変わり、刀を持つ手が僅かに緩む。
空虚な瞳に理性の光が灯り、このまま正気を取り戻すかに思われた。
「そうじゃ、またワシの守役として――」
瞬くより速い一閃が前髪を掠め、想像もしていなかった忠臣の行いに思考が止まり、呆然としてしまう初音。
高々と掲げられた凶刃が振り下ろされる瞬間、俺は何も考えずに飛び出していた。
「初……音…」
振り下ろされる刃。
その時、体の中を通り過ぎる金属を『冷たい』とだけ感じた。
三重県桑名市の桑名宗社には、村正の写しが所蔵されています。
本物は桑名市博物館にも所蔵され、こちらは脇差ですね。
作中では桑名宗社から奪った太刀としております。