想定外の事態
その瞬間、森田屋の一画は夏の蒸し暑さなど完全に忘れ去られ、居合わせた全ての心胆が凍りつく。
これだけ大勢の人間が、同じタイミングで息を飲む場面に出くわした事があるだろうか?
一斉に吸い込まれる空気の音。
肌で感じる霊気。
恐怖、驚嘆、後悔…。
――脳内の言葉を総動員しても、まだ足りない。
それでも稀代の大泥棒は飄々とした態度を崩さず、声を失った一同にあって唯一人、夜風に吹かれる柳の如く受け流す。
「まぁ、夏にゃ丁度いいんじゃ~ねぇですかい?」
行灯に照らされた異形の影は無防備な人間を丸ごと飲み込み、目撃しまった町役人や愚連隊は動く事すらできない。
ゴえもんの抑えとなる万治郎も居ない。
だとするなら!
「女媧様、奴を空気の膜で閉じ込めてください!」
奥の手だった神の力。
静かに佇む女神は俺とゴえもんを見比べ、何かを言い掛けた直後、指先を僅かに動かして神力を行使してくれた。
「風……な、何がどうなってるんだい!?」
突如として部屋に吹きつける一陣の風。
行灯が灯す心許ない火を消し去り、ゴえもんの周囲を不可視の檻が瞬時に囲う。
過去に飯綱のラボに侵入したクノイチは、神力が不十分な状態の膜を攻略してみせたが、今回のソレとは状況が別。
ほぼ100%の力で発揮したのであれば、物理的に破るのは不可能だ。
一連して発生した想定外の出来事に、男勝りの気っ風を持つお江さんは驚き、お鈴ちゃんを庇うように座り込んでしまった。
「ヒィ…! ば、化物!
…こんな…神の御膝下で…!」
悲鳴をあげる町役人の反応も無理はない。
事実、俺だって最初は拒絶してしまった。
しかし、彼女は決して化け物などではない!
「無駄な抵抗はここまでだ!
大人しくお縄につけば危害は――」
「これ、な~んだと思いやす?」
頓狂な口調で奴が懐から取り出した物体を見るや、全身に鳥肌が立ち、衝撃のあまり電気が走った感覚を覚える。
現物を見た事はないが、まず間違いないだろう。
「有り得な…伏せろぉお!!」
絶叫と共に地面に転がったのは――閃光手榴弾!
御丁寧にサングラスと耳栓まで用意していた泥棒に対して、大半の人間は意味も分からずに無防備なまま、数秒後に訪れる事態を受け入れる他ない。
残された時間で俺に可能だったのは、初音とお江さん達に覆い被さり、彼女達のダメージを和らげる事だけだった。
「何の真似を……!?」
誰かの声は大音量の爆音と目も眩む閃光によって掻き消され、彼らの想像を超えた事象は遂に、包囲網の決壊という事態を引き起こした。
雪崩を打って階段に殺到する者。
二階から飛び降りて逃げ出す者。
一時的な失明と難聴に怯える者。
そして――。
「女媧様!? あしな、女媧様は何処か!」
体験した事がない程の耳鳴りが頭の奥から響き、聞き取れない音の端々を必死に拾う。
初音が何かを伝えようとしているが、目の前に居るのに全く聞こえない!
数秒遅れて周囲を見渡すと、殆どの者が部屋から逃げ出し、お江さんとお鈴ちゃんは気を失っているようだ。
「あーあー、聞こえてるかな?
深淵から生まれた女媧は強い光を嫌うって知ってたかい?」
「そいつは…ご親切にどうも…。
アンタの方こそ…葉煙草は気に入ってくれたかい?」
どうして今まで気づかなかったのか。
静寂に包まれた部屋に漂うマツバヤニの香り。
男が粋な仕草で吸っている煙管は俺が作ったマツバヤニの葉煙草であり、あの時に訪れた虚無僧がゴえもん本人だという事実を示していた。