レースの余韻は遠い記憶と共に…
全ては一か八かの大博打!
捨て身で長屋の屋根から神宮の鳥居にダイレクトで突っ込んだ瞬間、大観衆の悲鳴も挙動も…あらゆる時間が緩やかに流れていくのを肌で感じた。
俺は着地と同時に前方へと投げ出され、数えるのも億劫な程に地面を転がった末、ようやく五十鈴川に架かる橋の手前で止まった。
地面へ倒れ込んだ俺を助け起こす初音。
その表情は勝利の喜びを滲ませる反面、ボロボロの俺を気遣う優しさが垣間見えた。
「あ、あしなっ!
お主…この大馬鹿者めが!」
「全く、返す言葉もないな」
町人達の興奮と熱狂が渦巻き、割れんばかりの歓声が絶え間なく響く中、不思議と互いの声は苦もなく聞き取れた。
さっきから飯綱は俺の名を興奮気味にまくし立て、町中の人々も釣られて口々に囃し立てる。
普段からそこまで評価された事がないからなのか、どうにも妙な居心地の悪さを味わう。
なんにせよ、ムズ痒くて仕方がないのだ。
万治郎の方へ視線を向けると項垂れた様子で両膝をつき、一歩も動けない様子。
「負けた……オレが……当方が……」
僅かな差で勝利を逃した万治郎は両膝をつき、未だに信じられないといった表情だ。
舎弟でさえ近づく事ができない雰囲気にも関わらず、お江さんは静かに寄り添う。
「万治郎ちゃん…」
「お江…姐さん……当方は……余所者に負けて…愚連隊の名に泥を塗っちまった……二代目失格なんざ……とてもじゃねぇが名乗れねぇ!」
心が折れてしまった万治郎の手を取り、子供を諭す口調でお江さんが話し掛ける。
「いい走りだったよ。
やっぱり、二代目を万治郎ちゃんに任せて正解だった。指名したアタシも鼻が高いってもんさ!」
「…ッ! 姐さん…!」
人目も憚らず大男が泣いている。
だが、その姿を冷やかす者は一人としておらず、町民達は万治郎へ向けて万感の拍手をもって健闘を称えた。
温かい光景を最後に、全身から力が抜けていく感覚が俺を襲う。
「初音…悪い…俺も、限界っぽい……わ」
「委細、分かっておる。
今日だけはワシが肩を貸してやる故、ゆっくり休むがよい」
初音は自分の胸元に俺を引き込み、後事を引き受けてくれた。
今だけ…柔らかな胸を借りて眠りに――。
「あしなさん、優勝おめで……あしなさん?
こ…れ……お、お…お江姉ちゃん! た、大変!」
遠くからお鈴ちゃんの声が聞こえてくるが、次第に意識は暗い水底へと引き込まれていき、恐ろしく冷たい感覚が四肢を凍らせていく…。
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「ホントに分かってンのか?
いい加減、諦めた方が身の為だってンだ。
アタシの言ってる意味が分かンねぇアンタじゃねェだろ?」
「分かってる。分かってて……やるのさ。
もう、ずっと…最初に会った時から決めたんだ」
誰だ?
誰と話をしている?
「アンタ分かっちゃいねェ!
よく考えろって言ってンのさ。
万に一つも成功する見込みなンざねェよ!
どンだけの無茶をやらかすつもりだ!?
相手が悪すぎるってな!」
「…そうだ、分の悪い賭けでしかない。
けど、君とこうして出会っていなければ、もしかしたら…俺も諦めていたかもしれない。君には……感謝してもしきれないよ」
この声は――。
「ハッ! アンタがそんなタマかよ。
アタシの見立ては違っちゃいねェ。
アンタはアタシが居ようが居まいが、いずれアイツを助けに動いただろーぜ!」
「はは、確かに、君の言う通りそうだね――飯綱」
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「飯綱だって!?」
飛び起きたのは森田屋の一室。
周囲を見渡しても誰も居らず、窓から差し込む月明かりによって、既に日没を迎えていた事を知る。
「あれは……過去の記憶…なのか?」
「よォ、いい夢みれたかい?」
軽口混じりの挨拶と共に月が陰り、闇夜に漆黒の翼が羽ばたく。
口調こそ普段と変わらないものの、逆光に隠れた飯綱の表情はうかがい知れない。
すいません、少し操作をミスって二重に投稿してしまいました。
現在は修正済みです。