二つの世界をつなぐ聖地
「町では外を眺めるしかできなんだワシも、境内だけは駕籠から出て歩く事を許されておってのう」
鳥居からは木製の大きな橋が架けられていて、眼下の清流は河床までクリアな水質を保ち、絶え間なく煌めきながら反射する様子に思わず溜め息が漏れてしまう。
「この橋を越えた先が神宮じゃ」
『川を越える』その行為自体が現世から此の世ならざる場所へ足を踏み入れる事であり、ここから先が神域であるという事実を示していた。
「…不思議な物だな。世界が違うのに全く同じ場所が存在するってのは」
俺が口にした何気ない言葉に前を歩く初音が反応する。
「お主の世界にも神宮があると申すのか?」
本当の事を言うと先程の町、全く同じではないが似た雰囲気の場所も知っている。
おかげ横丁と呼ばれる門前町が俺のいた世界にもあり、まるで時代劇のような景観なのだが…そこは新しく作られた観光地のような町なので、こことの直接的な関係性は薄いのかもしれない。
「似ているけど少し違う…。別世界なのに共通点があるってのは不思議な話だな」
だが、思い返してみれば奇妙だ。
初音を含めた日ノ本の住人達は日本語を喋っており、ある程度の固有名詞や価値観、物事の尺度なども共通している。
本当に異なる世界だというのであれば、独自の動植物が形成する生態系だけでなく、全く別の歴史や価値観が存在する方が自然なのではないか?
俺と初音の世界。
この二つはあまりに似過ぎている。
そう思えてならない……。
「遅いぞ、あしな!」
色々と考えを巡らせる内に初音は随分と先に進んでしまい、見失わない為にも慌てて距離を詰める。
「考え事の途中だってのに……今いくよ」
しばらく進むと橋から見えた川の沿岸に着き、同じく他の参拝者達も続々と引き寄せられていく。
「ここで禊を行い、自身の穢を祓ってから参拝するのが習わしでな」
「ああ、そうだな。五十鈴川だろ?」
そう言うと初音は少し驚いた様子で目を丸くさせ、小さく息を飲む。
何かを言いかけたが川へ向き直ると腰を落とし、流れる水で手を丹念に洗い始めた。
俺も隣で手を洗うが、互いに無言で奇妙な空気が2人の間を満たす。
初音の胸中には今、どんな思いが浮かんでいるのだろうか。
不安、興味、疑心、享楽、様々な色が交じり合いながら振り子のように俺の価値を値踏みしているのかもしれない。
「……お主は本に不思議な男子よの」
「そうか? まぁ、別世界の人だしな」
こうして川音を聞いていると奇妙な安らぎを覚え、世界の事など忘れてしまいそうになる。
「ほれ、憧賢木厳之御天疎向津比売之命《つきさかきいずのみたまあまざかるむかつびめのみこと》が御待ちじゃ、先を急ごうぞ」
この地に奉じられているであろう神の名。
恐らくは天照大神の事だろう。
俺はそこまで日本神話に詳しくないが、二つの世界を繋ぐ共通点が元の世界へ戻る為の要素となり得れば良いのだが…。
不安と疑心、それらを抱えているのは初音だけではないらしい。
境内は沢山の参拝者が列を成して歩いているにも関わらず静まり返り、皆が神妙な面持ちで参詣を行う姿から神宮に対する敬意と崇敬の心が伝わってくる。
ここまでの参道は初夏とは思えない茹だる程の熱射から参拝者を守るように、数々の杉と思われる巨木が枝葉を一杯に広げ、貴重な日陰を作り出していた。
ここの樹木はどれも目を見張る大きさで初音は2000年の歴史があると言っていたが、それに及ばなくとも各々が相当な樹齢を重ねているのだろう。
鳥居をくぐってからリュックに収まるギンレイは一吠えすらしておらず、特に躾た覚えもないのに人との適正な距離について、既に心得ているのではないかと思わせる振る舞いだ。
清廉とした姿の社務所では神職や巫女が忙しく立ち回り、参拝を終えた人達がこぞって願いを込めたお神札やお守りを買い求めている。
そのまま社務所を通り過ぎて歩みを進めていくと、左手に苔むした石階段が姿を現す。
その先には威厳を讃えた拝殿が静かに鎮座し、訪れる者が心中に抱く想いを溢さず汲み取っていく。
初音と並んで二拝二拍手一拝を行い、今日までの異世界での行いや残してきた家族を想う。
叶う事なら帰還を果たせますように…。
参拝を終えて、ここまで無言だった俺達は肩の荷が降りた気分で会話を再開する。
「…どんな願いをしたんじゃ?」
神社は自身の祈願をする場所ではなく、日々の感謝を捧げるのが本来の形。
それを分かっていて敢えて聞いているのだろう。
俺の考えを知りたいが故に…。
「言っちゃうと叶わなくなるだろ?
そうなると俺は困るのさ」
「そうか………そうじゃよな!」
暗に言い含めた返答だったが心意は十分に伝わったと思う。
初音はどんな答えを期待したのだろうか。
僅かに言い淀む間に何を考え、何を言おうとしたのか、誰にも分からない。
いつの間にか、ギンレイが顔を出して俺の顔をじっと見つめている事に気付く。
幼いながらも時折垣間見せる妙に落ち着いた雰囲気から、こいつは人の心が読めるんじゃないかと変な勘繰りをする事が多くなった。
異世界に来てから俺も立派な犬バカの仲間入りって訳か。
我ながら突飛な想像に、思わず吹き出しそうになった所を初音に見られてしまった。
「お主は笑うと少しだけ、ほんの薄羽一枚分だけ可愛い顔をしてみせるのぅ」
「え……?」
茜色に染まりつつある参道の中、先程の言葉を聞き返そうとするが初音はギンレイをリュックから取り出し、円舞曲を思わせる足取りで踊るばかり。
斜陽を浴びて楽しそうに回る姿は年相応の子供っぽさと、どこか別世界の儚さを醸す魅力を有していた。