修験者への道
翌朝の泥沼地は一層濃い霧に包まれ、静か過ぎる水面の空気も相まって、不気味な雰囲気が漂っていた。
昨夜も女媧は俺達の前に姿を現さず、意味ありげな沈黙を保ったままだ。
相手の考えが読めないというのは不安だが、俺としては逆に都合が良い。
「このまま修験者の所へ一気に向かおう」
実は昨夜も初音と八兵衛との間で意見の衝突があり、こちらも不確定要素として大きな懸念を抱えていた。
八兵衛さんは危険な泥沼を渡るのは善しとせず、帰宅を促したのだが当の初音が一切聞き入れなかったのだ。
「目的の地は目前ぞ!
ここまで来たら最後までやるんじゃ!」
そう言って聞かず、とうとう八兵衛さんが折れて渋々着いてくる形となった。
「ウォーターバルーンをもう一つ買います。
八兵衛さんはそちらを使ってください」
「斯様に得体の知れぬ物になど乗れるか!
当方の心配などせずともよい」
「慣れるとめっちゃ楽しいんじゃがのう」
透明なウォーターバルーンがよほど奇妙に見えたらしく、彼は絶対に中へ入ろうとはしなかった。
それどころか触るのも躊躇っていた事から、水の上を歩ける(転がる?)理屈が理解できなかったのだろう。
――初音は相変わらず楽しんでたけどな。
「ふん、そんな物に頼らなくとも田下駄があれば事足りるのだ。見よ!」
彼は落ちていた木片と紐を組み合わせ、雪の多い地域で使われる『かんじき』に似た履物を即席で作り、器用に泥沼の上を歩いてみせた。
「まるで忍者みたいっすね。
その履物は初めて見ましたよ」
「そうかのう?
よく庶子が田んぼで履いておるぞよ」
どうやら日ノ本では一般的な農機具らしく、トラクター位しか知らない俺からすれば、泥の上を歩ける田下駄の方がよっぽど珍しい。
深い霧の中をゆっくりと進む巨大なウォーターバルーンと、水上を歩く老侍。
ミスマッチな光景は二時間も続き、途中で休憩を挟みながら終点を目指す。
終止警戒体制を解かなかったのは、足場である泥沼は洞窟の時よりも更に柔らかく、再びツチナマズのような水棲生物に襲われた場合、相応の被害は避けられない為だ。
「いつまで続くのかのう~~。
ワシ、もう飽きてきたんじゃが」
「いや、もうゴールっぽいぞ」
沼の終わりが見えた頃、視界を覆っていた霧が徐々に晴れ、俺達の前に姿を現したのは、一本の朽ちた吊り橋だった。
しかも、橋を渡りきった先には家屋らしき物が見え、あそこに噂の修験者が居る可能性は非常に高いと思われる。
だが、古い木造の橋は今にも崩れそうで、断崖に囲まれた谷底は日の光も届かない程の暗闇に覆われていた。
ここを渡りきるには、相応の度胸と覚悟が必要だろう。
不吉な未来を想起させる吊り橋を前に、しばし立ち尽くす俺達に対して、八兵衛さんが毅然と口火を切った。
「……当方が最初に渡りまする。万が一の時は捜索などせず、真っ直ぐに熊野へ御戻りくださりませ」