表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
135/300

老侍の過去

「当方の出自など聞いたところで、特段おもしろき事など無いとは存じ上げますが……姫様が望まれるのであれば、しばし御耳汚しつかまつる」


 本物の武士の過去が直接本人から聞ける。

 俺はもしかして、物凄く貴重な体験をしようとしているのではないか?

 夜の暗闇にぜゆく薪。

 森の虫達がかなでる素朴な演奏。

 最高の食材と古代の酒を前に、老練な侍の回想が語られる。


「当方は伊勢國いせのくにの寒村にて、農家9人兄妹の八男として生を受け申した。言うまでもなく家は貧しく、家族の食い扶持ぶちを減らす為に職を求めて村を出立したのです。年の頃13になったばかりの、寒風吹きすさぶ真冬の時期でした」


 思わず喉が鳴った。

 平和で安定した日本では聞かなくなった遠い記憶。

 想像していたよりも遥かに緊張感のある語り口に加え、現実だからこそ持ち得る悲壮なリアリティが胸を締めつける。


「難病をわずらう母が手渡してくださったのは、僅かな路銀と古びた刀一本のみ。恐らくは今生の別れと思い、母の顔をまぶたに焼きつけたのを今でも憶えております」


「母上は……そうか」


 初音がぽつりと呟く。

 多分、彼の母はもう…。


「幸いな事に人よりも体格に優れた当方は、いく先々の村で力仕事や農作業で日銭を稼いでおりましたが、やがて金子きんすも尽き果て、一向に報われぬ現実に苦悩する日々。……今にして思えば、あの頃の当方は次第に心がむしばまれていったのでしょう」


 回想する老人の眼はどこか遠くを眺め、一言では言い表せない様々な色がせめぎ合う。

 余程…思い出したくない過去もあったのだろう。

 それでも彼の話は続く。


「いつしか宿場町の用心棒にまで身をやつした当方は心身共に荒れ果て、いたずらに無益な闘争に明け暮れる毎日を送っておりました。

 お恥ずかしい話で御座ござる」


 …同意も、哀れむ余地すらも俺には許されない…。

 ただただ、彼が歩んできた壮絶な人生の一端に耳を傾ける。


「幸か不幸か、め事の絶えない用心棒家業は当方に眠っていた剣の才覚を芽吹かせ、無慈悲な白刃はくじんふるう内に、いつしか撫斬なでぎり八兵衛などと呼ばれ始めたのです」


 僅かに緩んだ頬は自嘲の色を強め、心に貼りついた影を如実に浮き立たせる。


「腕試しと称して無頼漢ぶらいかんや侍に挑まれるたび、その全てを斬り伏せ、膨大な数のしかばねを積み上げた結果、当方の名は遠方のくににまでとどろいたそうです」


 武芸で身をおこそうとした武士の回想録を読んだ事があるけど、実際には凄惨せいさんを極めた恐るべき苦行としか思えない。

 殺人者――そう呼ぶには余りにこくだ。


「名が知れ渡る一方、浴するが如く総身を濡らした血の臭いは臓腑ぞうふにまで染みつき、恐れをなした人間はおろか、野良犬ですら寄りつかなくなっておりました」


 ギンレイの方へ視線を向けた八兵衛さんの瞳は夜の暗闇よりも深く、焚き火が照らす光では到底届き得ない程に沈む。

 ――しかし、燃え尽きたかに思えた感情は、不意にくすぶりをみせ始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ