老侍の過去
「当方の出自など聞いたところで、特段おもしろき事など無いとは存じ上げますが……姫様が望まれるのであれば、しばし御耳汚し仕る」
本物の武士の過去が直接本人から聞ける。
俺はもしかして、物凄く貴重な体験をしようとしているのではないか?
夜の暗闇に爆ぜゆく薪。
森の虫達が奏でる素朴な演奏。
最高の食材と古代の酒を前に、老練な侍の回想が語られる。
「当方は伊勢國の寒村にて、農家9人兄妹の八男として生を受け申した。言うまでもなく家は貧しく、家族の食い扶持を減らす為に職を求めて村を出立したのです。年の頃13になったばかりの、寒風吹き荒ぶ真冬の時期でした」
思わず喉が鳴った。
平和で安定した日本では聞かなくなった遠い記憶。
想像していたよりも遥かに緊張感のある語り口に加え、現実だからこそ持ち得る悲壮なリアリティが胸を締めつける。
「難病を患う母が手渡してくださったのは、僅かな路銀と古びた刀一本のみ。恐らくは今生の別れと思い、母の顔をまぶたに焼きつけたのを今でも憶えております」
「母上は……そうか」
初音がぽつりと呟く。
多分、彼の母はもう…。
「幸いな事に人よりも体格に優れた当方は、いく先々の村で力仕事や農作業で日銭を稼いでおりましたが、やがて金子も尽き果て、一向に報われぬ現実に苦悩する日々。……今にして思えば、あの頃の当方は次第に心が蝕まれていったのでしょう」
回想する老人の眼はどこか遠くを眺め、一言では言い表せない様々な色がせめぎ合う。
余程…思い出したくない過去もあったのだろう。
それでも彼の話は続く。
「いつしか宿場町の用心棒にまで身をやつした当方は心身共に荒れ果て、徒らに無益な闘争に明け暮れる毎日を送っておりました。
お恥ずかしい話で御座る」
…同意も、哀れむ余地すらも俺には許されない…。
ただただ、彼が歩んできた壮絶な人生の一端に耳を傾ける。
「幸か不幸か、揉め事の絶えない用心棒家業は当方に眠っていた剣の才覚を芽吹かせ、無慈悲な白刃を奮う内に、いつしか撫斬り八兵衛などと呼ばれ始めたのです」
僅かに緩んだ頬は自嘲の色を強め、心に貼りついた影を如実に浮き立たせる。
「腕試しと称して無頼漢や侍に挑まれるたび、その全てを斬り伏せ、膨大な数の屍を積み上げた結果、当方の名は遠方の國にまで轟いたそうです」
武芸で身を興そうとした武士の回想録を読んだ事があるけど、実際には凄惨を極めた恐るべき苦行としか思えない。
殺人者――そう呼ぶには余りに酷だ。
「名が知れ渡る一方、浴するが如く総身を濡らした血の臭いは臓腑にまで染みつき、恐れをなした人間はおろか、野良犬ですら寄りつかなくなっておりました」
ギンレイの方へ視線を向けた八兵衛さんの瞳は夜の暗闇よりも深く、焚き火が照らす光では到底届き得ない程に沈む。
――しかし、燃え尽きたかに思えた感情は、不意に燻りをみせ始めた。




