第一回 稲荷杯争奪 大江戸料理大会 (中)
「夢か・・・」
平伏していたはずの体にふとんの重みを感じ、それまでの事を幻と断じた嘉平は、閉じていたまぶたを開き───
「っ! ひぇぇぇ」
───ついさっきも、同じようにもらした悲鳴を上げた。
ひと、ヒト、人。
となりで寝ていた妻はともかく、番頭を始め奉公人が一重二重とまわりを取り囲んでいれば、そしてその視線が自分へと一身に注がれているとなれば、臨終直前でもない限り飛び起きるだろう。
「ど、どどどど、どうしたんだい? お前たち!」
「それはこっちの口上ですよ。一体全体何が起こったんです?」
皆を代表して口火を切ったのはやはり番頭だった。
「貴方の枕元に光、ぼんやりした光の柱が立って。呼んでも、揺すっても、平手打ちしても起きないものだから私、わたし・・・」
なぜこうなっているのを説明してくれたのは御内儀、嘉平の妻だ。
わっと両手で顔を覆っているが、油断してはいけない。平手で打たれた嘉平のほほはちょっと赤いし、なぜか布団の側にはなみなみと水の入ったたらいが置かれている。
ばしゃり! と、かけるならまだいいが、うつ伏せにして顔を・・・とか考えると、ちと、どころかすごく怖い。
ぶるり、と嘉平が震えたのは秋の朝の冷え込みのせいだけではなさそうだ。
「まあまあ、説明は後だ。まずは良くない事ではなかったと言っておくよ。皆着替えるから出てっておくれ。・・・男の着替えなんて見てても楽しくないだろう?」
「そんなことは!」
と、鋭く発せられたのが女の声なら、嘉平もまんざらではなかっただろう。
江戸時代、今で言うBLは衆道と呼ばれそう忌避される文化ではなかった。
「誰だ今の?」
「おいおい、男も女も部屋は違うが大部屋だぞ!?」
とはいえ、そうで無い人の方が多いのも変わらない。
「はいはい、出てった出てった」
きちんと働いてくれるんなら嘉平としても気にしない。
「はいはいじゃ無いですよ! え? これで終わり? ホントに?」
終わりと言ったら終わりである。
着替えて朝餉を食べたら嘉平にはやらなければならないことがあるのだ。
「きたか。夢枕に稲荷の大神が立ったそうだな?」
「いえ。立ったのはお使いです」
人の声は音である。
音の速度は音速である。
ゆえに噂話の広まる速度もまたしかり、である。
まあ、伝達するには伝える文言を繰り返したりする必要が不可欠なので、時速千キロには達しないが、江戸の井戸が地下水路でつながり流れるように嘉平の一件は耳ざとい者には届いていた。
ましてや嘉平の対面している人物、常日頃、町中に耳を澄ましている町奉行ともなれば、知っていて当然であった。
「お使い・・・御キツネ様か。して、なんと?雷、親父は良いとして、地震と火事は勘弁してもらいたいが」
「それが・・・」
お使いとはいえ、神の関係者? が枕元に立つのは大事なのだ。
奉行の懸念に改めてそう感じた嘉平は口ごもった。
聡明、名裁きと名高い御奉行であっても、まさか降臨した理由が毎日の食事に飽きた、とは思いもよらないだろう。
そうとはいえ・・・。
「地震でも火事でもないだと? ・・・外つ国では空から燃えた大岩が降ってきたと聞くな。そうとなれば地は揺れ家屋は燃え・・・、いや、まさか!? 将軍、将軍様に何か? いやいやまさか、京都におわす・・・」
聡明だからこそか、どんどんと相手の顔が青ざめるのを見て嘉平も腹をくくった。
ここらへんで真実をつげないと、そろそろ日の本全てを、思いつく限りの天変地異が襲いそうだ。
「飽きたそうでございます」
「何に・・・、日の本の加護にか!? なら起こるのは・・・」
御奉行の脳裏の田畑を暗雲が覆い始める。
それは見たこともない蝗の群れとなって聞いたことの無い笛のねと共に・・・。
「いえ! 飽きたのは油揚げにございます!」
「何? 油揚げとな?」
「はい」
「油揚げ、油揚げ。油揚げでどう国が滅ぶ?」
「滅びません! そこから一旦お離れ下され」
「そうか・・・。滅ばぬか・・・」
しばらく目を閉じて考え込んだ様子の御奉行だったが、さすがに油揚げで国を滅ぼす手段は考えつかなかったようだ。
「こう重ねて、ぎゅっと押し潰して干して研げば刃物の代わりに・・・」
「なりませぬ!」
「さよか」
はぁはぁはぁ。
息を切らす二人が。
正確にはそのうち一人が。
何しにきたのか思い出すまで後少し・・・。