第一回 稲荷杯争奪 大江戸料理大会 (上)
日本橋近くの大店、その主人である上に、近辺の肝煎=今で言う町内会長さんも勤めるの嘉平の枕元に、ぼう、とした光が現れたのは、草木も眠る丑三つ時、では無く、虎の刻もそろそろ終わって、兎へとたすきが渡されるか、という時分であった。
「だって、丑三つ時だとお化けと間違われそうだし、迷惑でしょ?」
とは、枕元に立った彼女の談ではあるが、正直、後一時間は寝られる、なんて時間に強制的に覚醒させられるのも、どっこいどっこいの迷惑ぶりではある。
とはいえ、立ってしまったからには仕方がない
ので話に戻ろう。
「嘉平、起きるのです。嘉平! かへいったら!」
「はいはい。なんですか、もう」
白髪混じりのちょんまげは、それなりに歳を重ねた証。
様々な経験をし、ちょっとはそっとでは驚く事も少なくなった嘉平の目が大きく見開かれ、口から叫び声が飛び出すか飛び出さないかのところで───
「っ! ひぇぇぇ!」
───なんとか、こらえるのに失敗したのだった。
それもそのはず。
枕元に立ったのは
人身狐面。
真っ白な狐の顔をした人? であった。
「あっ、あっ、貴方様は?」
かろうじて敬語になったのはその存在がただならぬ気配を放っていたからであった。
さらに落ち着いて見てみれば。
白い毛並みに金色の目は縦に瞳孔が開き、時折まばたきや、つん! と伸びたひげが揺れる。
首からしたは巫女装束と呼べば良いのだろうか?
胸元が膨らんでいるのを見れば、どうやら女人であるようだ。
微かに、どころか盛大、とまではいかないが後光がさしているのを目の当たりにすれば、なるほど、どうやら悪いモノではなさそうである。
・・・ちなみに「まぶしっ!」とならないよう、後光の調節が難しい、とは後に彼女が語ったところだ。
「稲荷神、・・・の使いである」
点から先はこそこそっと。
お稲荷さん、と言えばキツネが思い浮かぶが、実はキツネは神様では無く、そのお使いである。
祀られている神様はあくまで宇迦之御魂神であるが───たとえ、こそこそっと語られた部分が全部聞こえていても───そのお使いを粗略に扱ったりはできない。
「ははーっ!」
とるものもとりあえず、嘉平は跳ね起きて平伏するのであった。
「あ、そこまでせんくてもいい。楽に楽に。面をあげい」
「はい」
あっさりと身を起こす嘉平。
起こすんかい、と思わずツッコミを入れたくなるが、設定上、江戸時代。
たぶんボケにツッコむのは成立していない。
「・・・」
「・・・」×三。
「それで、ご用件は?」
ドキドキドキドキ、ドキドキ、ドキ。
何を言われるのか?
早鐘のように脈打つ心臓が落ち着いても、御キツネ様が口を開かないので、思いきって嘉平は切り出した。
「それがなー。これなんじゃが」
スッと差し出した御キツネ様の手のひらに肉球、などと思う間もなく現れたのは白い皿、の上に乗った油揚げ。
「これは、・・・今朝供えたものですな」
主人である嘉平こそ御天道様が登ってから起き出すが、奉公人はそうもいかない。
掃除、洗濯、は、まだ早いし、うるさいのでまだだが、もう朝食の支度には取りかかっており、火の用心の神様である厨の神棚にも、新しいお供え物が捧げられていた。
「これが何か・・・。まさか!」
「違う違う、そうじゃ無い!」
嘉平の店では毎日新しい物を供えているが、そうで無いところも多い。
一旦供えたら、イヤな臭いを発するギリギリ───腐っちゃうとお下がりが食べられないからその直前───までそのままなんて話を聞いていれば、嘉平の顔色変わるのも無理は無い。
たとえ小遣いぐらいの誤魔化ししかできないとしても、小さな買い物に遣えるぐらいは手元に残るのだ。
「ああっ! これは気がつきませんで」
「・・・それも、外れじゃ」
ぴしゃり! と嘉平が額を打ったのは目の前の存在がお使いだと名乗ったのを思い出したからだ。
そう。お使い。
捧げ先が神様である以上、お使いの分も必要なはずだ。
「さっそく、もう一枚、と言わず、何枚か追加しましょう」
「だから違うと言っておろうに!」
今度は御キツネ様がぴしゃり! と言い放つ。
「ご主神様の分はちゃんと神社で捧げられているので、そっちは我らで食べてよいと言われておる。だいたい小さな祠も合わせれば、一日何枚油揚げが捧げられていると思う?」
「それは、・・・ですな」
江戸時代の江戸は世界一人口が多い都市だったとも言われる。
その上、司っているのは農、漁、養蚕、に火の用心と加護を必要とされるものばかりだ。
ぺち、ぺち、ぺちぺちぺちぺちぺち。
嘉平の頭の中で、宇迦之御魂神が降り注ぐ油揚げに埋もれていく。
「・・・なんぞ、不遜な想像をしておらんかえ?」
「いえいえ、決して!」
顔の前で振った手で、浮かんだ想像をかき消す。
「と、なると。何が問題で」
「それなんじゃが・・・」
肝心な本題に近づくと歯切れが悪くなる。
立っているからやっていないだけで、座っていると、“の” の字の形を畳に刻まれそうだ。
「あーほら、こう! この油揚げじゃが!」
「はぁ」
「毎日毎日休まず、供えてくれているじゃろ?」
「はい」
「ほら、そうじゃと、こう」
「はぁ」
「はぁ、じゃなくて!」
ほら、さぁ、こい! と言うかのように、手招くように。踊るかのように、何かを求められているが答えがわからない。
「・・・」
「あー、もう!」
長考に入りかけた嘉平を大声で呼び戻すのは一人? 一柱? しかいない。
「油揚げもいいが、他の物も食べたいのじゃ! だいたいなんで油揚げなのじゃ! こちとら雑食とはいえ肉食よりじゃぞ? いつから誰が油揚げが好物とか言い出したんじゃ! いや、不味くはない。不味くはないのじゃがせめて味つけ! 煮込めとは言わんがせめて醤油ぐらい塗らんか! 高血圧? 塩分? 江戸時代にそんな概念無いわ! そもそも蕎麦やら饂飩やらにキツネなる品目があるのに一向に供えてくれんのはなぜじゃ?」
「麺が伸びるからでしょうね」
「ちゃんと湯切りして別盛りにすればいいじゃろう! 手間隙を惜しむな! というか、他にも手軽に捧げられる物があるだろう? なぁ?」
「まあ、そうですね」
言われて見れば、目から鱗、だ。
いくら好物でも毎日毎日の食事が同じ献立と言うのはどうだろう?
世の中には好きで好きで、毎日これしか食べない、なんて人もいるかもしれない。
毎日食べるといえば米だが、それはおかずが変化してこそだ。
なんで自分に? ともおもうが江戸に店を構えて代々、ン十、ン百年。
毎日毎日何も考えず油揚げを捧げてきたとなれば責任の一端は確かに、ある。
「委細承知致しました」
スッと。嘉平の頭が下がった。
「おお! わかってくれたか!」
「はい。この嘉平、全身全霊をもってふさわしいお食事を!」
「ん? いや、そこまで・・・」
「おまかせ下さいませ!」
「えーと?」
「是非に!」
「・・・はい」
これが、江戸中、どころか。
日本中を騒がす騒動の始まりであった・・・。