ウロボロスの物語(亡国の異邦人) 第1章ー7
今回が初投稿作品になります。読みづらい文章になっているかも知れませんが、誤字脱字等あればご指摘のほどお願いします。
本作品では人が亡くなる描写もあるため、苦手な方はご遠慮頂きますようお願いします。
「これは、君の職業適応カードだ」
ウィリアムは何の説明も無しにそう言った。それが何か分からなかった俺は、ただ茫然とカードを眺めていた。カードにはいつ撮られたのか身に覚えの無い俺の顔写真と、ICチップが埋め込まれていた。
「このカードの説明は受けたかね?」
ガードを眺める俺に、ウィリアムは尋ねた。
「いえ、その説明を受ける前にこちらに来るようにと言われたので」
「そうか…。では、私の方から説明しないといけないな」
ウィリアムはそう言うと、職業適応カードについて話し始めた。
「これは、簡単に言うとこの国における身分証明書だ。病院、美容室、飲食店、役所…、この国ではあらゆる施設で職業適応カードの提示を求められる。ガードのICチップ内には職業適応検査の結果、出生地、職業といった個人情報が入っている。私たちの社会はそれらを提示することで、個人と集団の安全性を確立している」
「このカードが無ければ、どの施設も利用できないというわけですか…」
「その通りだ」
なぜ、ウィリアムが俺の選んだ職業や職業適応検査の結果を知っていたのか理解できた。そもそも、そういった個人情報は公共のリソースとして常に開示されている。ウィリアムは俺の職業適応カードの情報を読み取ったに過ぎない。
本来であれば秘匿するべき個人の情報を開示することで、社会全体の安全性を保つ。俺はそういった世界の物語を読んだことがあった。
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『ある自由を放棄して、ある自由を得る』
(虐殺器官:伊藤計劃)
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物語の中で人々は平穏に暮らしていた。だが、それは飽くまで何かの犠牲の上に成り立つ平穏だった。この国では、何を犠牲にして社会が成り立っているのか…。俺にはまだそれが分からなかった。
「カードを提示しても入ることができない場所はありますか?」ふと疑問に思い、ウィリアムに尋ねた。
「公共の施設なら問題は無いだろう。ただ、国家公安局、官僚議会場といった、いわゆる政府関係機関に入ることは通常できない。だが、それは…。また、後で話すことにしよう」
ウィリアムの言葉はどこか歯切れが悪かった。だが、俺はそれ以上詳しく尋ねることはしなかった。
「話を続けよう。さっきは身分証明と言ったが、職業適応カードには他にも機能が備わっている。このカードに埋め込まれたICチップは、政府が管理している個人の口座と直接リンクしている。この国には口座というものが、そもそも政府が運営しているもの以外存在しない。金融機関の機能を政府の一部が担っているからだ。そして、現金通貨による取引も存在しない。それらは全てデータとして管理されている」
「キャッシュレスですか…。現金通貨による取引きが無くなったのはいつ頃からですか?」
「アジア社会主義連邦共和国が発足した当初から、現金通貨による取引きは無くなりつつあった。そして、職業適応検査による選択的職業制度の発足と同時に、現金通貨による取引きは完全に撤廃された」
「現金通貨による取引きが完全に撤廃された理由は?」
ウィリアムはこの問いに、直ぐには答えなかった。下を向いて腕を組み、眉根を寄せて考え込んだ。
「まず1つは、通貨の価値を均一化するためだ。君も知っての通り、この国はいくつかの軍事同盟を結んでいた国が併合してできた。だから、各国に独自の通貨があった。その価値は国によって異なっていたが、この国が成立した時、それらを統一する必要に迫られた。国ごとの通貨価値の差異による、人口の一極集中や治安の悪化を防ぐためだ。だが、流通している通貨を1つに統一するとなると、莫大な時間と資金が必要となる。当時の政府にはそのどちらも無かった。世界的な不況が、かつての紛争の終結要因として挙げられるのだから当然だ。一刻も早く通貨の価値を均一化し共通化するためには、現金通貨を廃止する他、手段は無かった」ウィリアムは堰を切ったかのように、突然話し始めた。
「もう1つは、経済を安定化させるためだ。アジア社会主義連邦共和国が発足した当初は、どの地区も経済が破綻していた。早急に経済を安定化させる必要があったが、各地区の経済状況が不透明な状態にあった。国が併合したばかりで、全体を見通すことが困難だったからだ。全体の経済状況を把握し、どの地区にどれだけの経済支援がを行うの必要があるのか…。それを決定するには、既存の通貨体制では限界があった。そこで、当時の政府はデータにより通貨を一括管理し、地区全体の通貨の流れを鮮明にしようと考えた。その結果、現在の通貨システムが構築されていった」
「通貨を全てデータ化することによる弊害は無かったのですか?」
日本においても、通貨をデータとして管理するシステムは存在している。だが、未だに現金で通貨を管理したいと考える者は多い。俺自身も、データのみによる通貨の取引きは経験が無い。デメリットを知っておいて損は無いだろう。
「無いとは言えない。データでの通貨の管理は、常に情報漏洩のリスクをはらんでいる。だから、政府は通貨を管理する口座を1つに限局することで、リスクの分散化を予防した」
「通貨を全てデータで管理することに対して、国民から不満の声は出なかったのですか?」
「初めのうちはもちろんあった。だが、人というのは打算的な生き物だ。経済が安定化し、データでの通貨の取引きの利便性に気づくと、誰も文句は言わなくなった」
データによる通貨の取引きは、利便性という点において確かに優れているかもしれない。だが、個人が持つ通貨の管理を全て政府に委ねなければならないという、ある種の監視下に置かれた状態が果たして幸福であるかと問われると、疑問が残る。
「さて、他に質問はないかね?」
ウィリアムの問いに俺は頷いた。
「そうか…。なら、職業適応カードについて補足の説明をしよう」ウィリアムは声を低くして言った。ウィリアムは重要な話をする時、声色が低くなる。
「君は先ほど、アジア人民解放同盟による反政府運動が行われた場所について私に尋ねた。その時は、私から教えることはできないと君に言ったが、実はそれらの情報を閲覧する方法が存在する。簡単に言えば、自分で直接調べる方法だ」
「政府関係者でもない僕が、そんなことをして問題はないのですか?」
「それこそが、職業適応カードの補足の説明に関わる部分だ」
ウィリアムが何を伝えたいのが分からず、俺は首を傾げた。
「君の質問に対して、私は職業適応カードを提示しても政府関係機関に入ることは通常できないと言ったが、それは正確ではない。職業適応カードによる身分証明で重要な情報は主に2つ。その者の職業と職業適応検査の結果だ。職業により政府関係機関への立ち入りが禁止されている場所は勿論ある。だが、職業適応検査の結果次第で入ることが許されている場所も存在する」
「つまり、政府が管理している情報を閲覧する機関は、職業適応検査の結果次第で立ち入ることが許されているということですね?」
「君の職業適応検査の結果であれば、問題はないだろう。ただし、閲覧できる情報には制限がある。国家機密に関わることは、情報閲覧できないだろう」
どこまでの情報が俺に閲覧できるかは、実際に調べてみなければ分からないだろう。だが、現時点で知りたいのはアジア人民解放同盟による反政府運動が行われた場所だけだ。
「どこに行けば情報を閲覧することができるのですか?」
「モスク自治区の国家公安局本部にある情報局で閲覧できる。情報局の受付で、君の職業適応カードを提示するだけで良い」
「そうですか。教えて頂きありがとうございます」
ウィリアムとの会話はこれで終わりだと思っていた。実際、2人の間にはこれ以上に語るべきことは無いという空気が流れていた。
「それと、これは噂の域を出ない話ではあるが、アジア人民解放同盟のトカゲは国家公安局員と関連がある人物ではないかと言われている」そんな空気の中、俺たち2人以外には誰もいないこの空間で、ウィリアムは声を落として突然そう言った。
「それは…、僕に話しても良い話なのですか?」
「飽くまで、国家公安局員内での何の確証もない噂話だ。君に話してしまっても構わないだろう」
気になる情報ではあるが、それがどれほど信憑性があるものか現状では判断できなかった。
「どうしてそのような噂話が出たのですか?」
「トカゲの逃亡の手際があまりにも巧妙だからだ。ただ、自分の分身を囮にするだけでは無く、どのタイミングで分身を切り離すのが効果的なのか、トカゲはそれをよく心得ている。我々の捜査のやり方を熟知していなければできない芸当だ」
「国家公安局員の中に内通者がいる可能性は?」
俺の言葉にウィリアムは首を横に振った。
「その可能性も考慮し内部捜査も行なったが、結果は全くの空振りだった。第一、そのようなことを行う者が出るようであれば、職業適応検査による選択的職業制度は存在意義を失ってしまう。それは、ある意味ではこの国の根幹をなす制度そのものを否定することに等しい」
国家公安局員がこの国の根幹とも言える制度を否定することは許されないのだろう。だが、このパラドクスは、職業適応検査による選択的職業制度の欠陥から生じた問題であるように思われた。
「今までに職業適応検査で選ばれたにも関わらず、不正を行なった国家公安局員は居なかったのですか?」
「職業適応検査による選択的職業制度が発足した当初は、制度も完璧とは言えなかった。不正を行なった国家公安局員も存在ていたと聞いたことはある。だが、そういった者たちは残らず粛清された。だから、現在在籍している国家公安局員の中で不正を行う者は存在しない」
「そうですか…」
ウィリアムの話でこの問題に対する解決の糸口は、現時点では存在しないということが分かった。だが、別にそれで構わなかった。よく考えれば、俺には関係の無い話だ。これから、この国の僻地で農業に携わる者ができることなど、せいぜい反政府運動に巻き込まれないように気つけることくらいだ。
その後のウィリアムとの会話は事務的なもので、これまでのような重要な話は何1つ無かった。ようやく肩の荷が降り、俺はどこか安堵していた。
だが、この時既に大きな歯車の一部に俺は組み込まれていた。随分先の話ではあるが、俺はそのことを知ることとなる。
ウィリアムとの長々しい会話が続く回であり、内容もなかなかややこしくなっていたと思います。正直、僕自身も書いててよく分からなくなっていました(笑)。ただ、後の物語に関わってくる大事な回でもあるので、そういった気持ちで読んでいただけるとありがたいです。
もうそろそろ、第1章が終わりそうですが果たして何人の人間がこの物語を読んでいるのか、どう思ったのか気になるところではあります…。
夏の暑さにも負けず、次回も頑張って更新していきたいと思います。
※次回投稿予定 2023年 8月12日(土)