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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

凶刃の化け猫、岡崎悲爪譚

作者: 鮭雑炊

凄惨なシーンが多用されます。耐性の無い方は一時退却して、耐性をつけてから戻って来てください



◇『序』



 何が起きているの?


 何でこんなことになっているの?


 見上げるその視線の先には満身創痍の若侍。刀を持つ手は震えているが、その闘志は消えていない。


 対する私はその男以上にボロボロだ。ボロボロのボロ切れのようになって地面に横たわっている。片腕は切られて千切れ飛び。顔にも全身にも深い切り傷だらけ。血が流れ、止まらない。


 さっきまで私に強い力を与えてくれていた大きな満月は、この侍との戦いの最中にいつの間にか姿を消していて、今はもっちゃりとした薄気味悪い赤色の玉になって私を見下ろしている。


 何でこんなことに?


 侍が一歩ずづ近づいてくる。慎重に、ゆっくりと。


 牙を剝き出しにして男を威嚇しながら私は考える。私は今、何でこんな所で、こんな目に?


 何で? 何で? なんで? なんで、なん、な、な、……





 何もかもが狂い始めたきっかけ、おかしくなってしまった最初の時のことはわかる、あの女の持ってきた雑炊を食べた時からだ。みんなには内緒だよと、いい匂いのする、塩がふんだんに入れられた、キノコの入った雑炊。


 あの時の私は、それを疑いもせずに食べた。おいしいおいしいと言って食べた。お礼まで言って全部、残さずに食べた。私は笑顔で、あの女も笑顔……笑って……嘲笑っていた。


 嫉妬に狂った女が、どれほど凶悪なことをやってのけれるのかを知らなかった、あの時の愚かな私は、心がぞっと冷え込むような怖い笑い顔もあるものだと、面白がってすら、いた。


 体調を崩したのは、すぐではなかったはず。一日後? 二日後? 酷い熱を出して倒れて、起き上がれるようになった時には、もう、世界は違っていた。自分の姿も……



 肌は膿を孕んだ吹き出物に覆われ、


 手指や足腰はねじり曲がり老婆のように、


 髪はひどく抜け落ちて野ざらしのしゃれこうべのように、



 私はそういうものになった。



 村で一番、いや近隣で一番、いやいやこの国で一番美しいおなごだ、そんなことを言われて育った私は、人から優しくされた記憶しかない。男衆だけじゃなく、女子たちからも。


 酷い仕打ちを受けるようになった。近づくな。恐ろしい。呪われた女……誰も私の言うことを聞いてもくれず、あの女に毒を盛られたという、私の言葉も信じてくれなかった。


 それどころか、あの女の言うことを信じている。誰が天神様へのお供えを盗み食いなどするものか。


 何でみんな変わってしまったの? 私は人に優しくされた分、人には優しくしてきたはずだ。そう教えられ、そう心がけて生きて来た。お前は心根まで美しいおなごだ、なんて言ってくれていたのは何だったのか? 心までは変わっていない、変わっていない。


 唯一の心の拠り所となった婚約者からは、近づいただけで突き飛ばされた。


 婚約者、祝言はもう間近になっていた婚約者。あの男。


「近寄るな! 婚約なんか取り消しだ! 祝言なんぞ誰が挙げるか! どこぞに行け醜女!」そう怒鳴られても、何も言い返すことができない。自慢だった私の姿は、もう、ソレだから。


 私は逃げた。


 生まれ育った土地から逃げた。


 考えがあったわけじゃない。目的があるわけじゃなく、行き先にあてがあるわけじゃなく、ただあの場所から遠のくためだけに、ただ逃げた。


 あれ以上あの土地にいたら、心まで醜くなってしまうような気がしたから。人を憎んでしまいそうだったから。家族の事が気になった。あの女の事が気になった。わけもわからないまま、全部を捨てて逃げた。


 そんな理由で始まった、体力も知識も技術も伝手もない女の一人での放浪は、



 地獄だった。



◇『人の鬼』



「あ、足が痛いの……もう歩けない……」


 やって来た道を振り返り、酷く後悔する気持ちに支配される。


 ここはどこだろう? 夜通し歩き続けて来たけれど、どれほど離れられたのだろうか? 私は今、何でこんな場所にいるのだろう? なんで私は倒れたのだろう? 倒れた原因として私が思いつくのはひとつだけ。私の妹の持ってきた雑炊を食べてしばらくしてから体調を崩した、だから妹が毒か何かを私に食べさせたんだ、と思う。キノコが怪しい。キノコが。


 本当に小さな時分、出来心でお供えを盗み食いした前科のある私の言葉を、誰も信じてくれなかったけど。


 それからあの人、私の婚約者、……元、婚約者。何も突き飛ばさくてもいいじゃないの。考えたくない。


 そもそも何で妹が私に毒を盛る必要があるのか。姉さん姉さんって慕ってくれていたじゃないの。やっぱり私の勘違いかも。じゃあ何故嘘をつかれたのか? はぁ。この世の中は単純なものだと思って生きて来たけど、本当はこの世はわからないことだらけだったのよ。


 ポツリと涙を流す。


「痛い」


 涙が顔の膿んだ出来物に触れて、痛い。足も痛い。しかし進むしかない。来た道に将来はない。行く先にも無さそうだけど。これからどうしよう? どうなるんだろう? お腹すいた。


 朝日が昇って白々と周囲を照らし始める。ふむ、朝日が昇る方向を考えると、ええと、私はどっちの方角にやって来たの? 南? もしくは東か。


 歩く。キツネにでも出会って、歩く方角を狂わされませんようにと祈って、ひたすら歩く。戻りたくないからね。ああ痛い。お腹すいた。


 歩き続けていると、道の向こうに老人の後ろ姿。老人はカゴを背にしょってえっちらおっちらと歩いている。


 どうしよう。声を掛けようか。助けてもらわないと。痛い足を無理やりにでも動かして老人に追いついて声を掛ける。


「あの、もし……」

「はい? !? ぎゃあ!!」

「わああ!?」


 老人は振り向いて私を一目見るなり大声で叫び、カゴを放り出して一目散に逃げだした。


「…………」


 今の私の姿、そんなに酷い?





 老人の放り投げていったカゴの中身を見ると、採れたてのタケノコがゴロゴロと入っていた。茹でて食べるとほんのりと独特の香りがしておいしいのよね。ちょっとお味噌をつけて食べるのが好き。


 おじいさんが戻ってきたら少し分けてもらおうと待つ。おじいさん、驚いただけで、すぐに戻ってくるよね?


 深い考えもなく生まれ故郷を飛び出したとはいえ、持っていけるだけの物と多少の銭は、住んでいた屋敷から持ち出してきている。玉のついた簪に綺麗な貝殻や小石。思い出もあって手放したくない、けど背に腹は代えられない。交換してくれるといいけど。


 これからどうしよう、と老人を待ちつつ道端に座って体を休ませる。いたた。


 どこかで働けるといいな、といっても簡単な農作業と家事くらいしか出来ないんだけど。料理も大したものはできないのだから、母様の言うことをもっと真面目に聞いておくのだった。


 ……帰りたい。


 いなくなった私の事を心配してくれているだろうか? 今帰ったら、みんなはやさしいみんなに戻っているだろうか?


 やって来た道を見やりつつ悲嘆に暮れていると、老人の消えた方向から大勢の足音。手には鎌やクワやスキを持って振り上げながら男衆たちがこちらに向かって走って来る。ひえ。怖い。すぐにたくさんの男衆に囲まれる。


「なんでい! じいさんが恐ろしい山姥の妖怪に襲われたっつうから来てみれば!」

「山姥じゃなくて小汚いババァじゃねーか!」

「おい、ババァ、その奪ったカゴを返せやい!」

「盗人が!」

「あ、あわ、ちが……ひう」


 違うの。盗んでないし、カゴに縋り付いてしまったのは怖かったからで、……いきりたつ男衆が恐ろしくて言葉が出てこない。これと交換で食べ物を恵んで欲しかっただけなの、そう思って震える手で簪や貝殻を差し出す。


「なんでいそりゃ。それで許せってか?」

「このババァ、それなりにいいもん着てるな」

「全部むしっちまえ! 人のモン盗ったら、自分も盗られるってよ!」

「あ」


 男衆は抵抗する私を無理やり立たせて着物をはぎ取る。銭や小石が散らばって落ちる。私はそれどころではなく、銭を拾うために緩んだ男衆の囲みから逃げ出す。怖い。わからない。


「やっぱ妖怪なんているもんかよ」

「ババァの顔は妖怪そのものだったけどな」

「じいさんが見間違うのも無理ねぇや」

「違いねぇ」


 男衆の笑い声を後ろにして私は走って逃げる。痛い。なんで? 何がおきたの?


 山の方に逃げる。


 怖い。


 人が怖い。





「全部無くしたぁー!」


 木々の生い茂る山に入り、獣道をさまよう。ここどこ?


 思い出の小物たちも、なけなしの銭も、着物も取られて今は白い襦袢だけ。今から戻って話を聞いてもらって誤解を解いてから返してもらおうか?


 ……無理。


 なんであんな怖いことが出来るの? わからない。わからない。最初から喉は乾いていたけど、走ったから余計に乾いた。ひりつくような痛みが私を襲う。水が欲しい。水。


 水を求めて山の中をさまようことしばし、ちょろちょろと流れる小川を発見。助かった。


 生水は良くないって知っているけど、どうしようもない。ゴクリゴクリと飲んで喉の渇きを癒す。体に水を与えたら涙が戻ってきて頬を濡らす。痛いよ。座り込んで、泣く。


 とりあえず一息ついたことで周囲を見渡す余裕もできた。


 見ると、小川に沿うようにして、明らかに人の手が入ったと思われる物たちが植えられている。かぼちゃ、大豆、菜っ葉、いんげん……


 聞いたことがある。税から逃れるために、役人の知らない場所で農作業をする人たちもいるって。たぶん、こんな山の中に植えられているのはそういった野菜たち。


「貰ってもいいよね? すこしだけ」


 どこかの誰かさんがこっそりと育てている作物を手に取ろうとして、思い出す。あの男たちが言った言葉――盗人。


 悔しい。


 すごく悔しい。


「盗人じゃ、ないもん」


 私は、人の物を、取らない。ふん、いーのよ。まだ青いし小さいし、菜っ葉は虫食いだらけ。まったくおいしそうじゃない。これを育てたどこかの誰かさん、野菜育てるのへたくそなんじゃない? それに、ここじゃ煮るために火を熾すこともできないし、煮炊き用の食器もない……


 後ろ髪を惹かれながら、その場を去ることにした。ここにいちゃ駄目だ。





 どこかで働かせて貰わないと……


 暗くなる前に山を下りる。暗くなった山に一人で過ごす勇気はない。人目に付くのは怖いけど、人に会わないと仕事どころではないのだし。小川の隠し畑にあった獣道の坂を下りていくとすぐに人の住む集落にたどり着いた。


 足は山歩きで擦り切れて血が滲んでいる。崩れ落ちそう。もう歩けそうにない。限界なのよ。仕事よりも先に休ませてもらわないと。


 水場と思われる所には子供を連れた母親がひとりいた。他には誰もいない。ちょうどよかったの。あんなことがあったし、男衆に話しかけるのは怖いからね。


 いきなり後ろから話しかけると、きっと前のおじいさんみたいに驚かれる。さすがの私も学ぶのよ。遠くから小石を投げて向こうに気づいてもらうって塩梅よ。


 いざ、小石を母親や子供に当たらないように慎重に放る。着地点は彼女の足元。いいとこいった。振り向く子供と母親。私は手を振り笑顔で、


 ものすごい声でぎゃんぎゃんと泣き出す子供。ものすごい勢いで母親は子供を抱え連れて逃げ出した。


 そのすぐ後に幾人もの男の怒鳴り声が聞こえる。


 私は山に逆戻り。


 話くらい聞いてくれてもいいじゃないの! まったく話にならないのよ!





 夕暮れの赤色から夜の黒色に染まる山間の景色を見ながら、呆然と立ちすくむ、……立ちすくむのも疲れた、座る、呆然と座り込む。


 今の私の姿って、それほど?


 髪はほとんど抜け落ちて、貧相な枯れ柳の様。顔の出来物は腫れあがり、膿と血を流す。まぶたも重い。気が付けば両手両足はボロボロで血が滲んでいる。思い出した。痛い。白襦袢はそんな血で汚れている。


 夕暮れ時に見たら、ねぇ。


 自分でも泣き叫ぶと思う。しかたない、あの親子が逃げ出したのはしかたない。


 寒い。


 凍えるような寒さではないけれど、やたらと寒い。


 夜は怖い。


 けど人はもっと怖い。


 今夜は山の中で過ごすしかない。ゆっくりと体を休めて、話を聞いてくれそうな人に出会うまで頑張るしかない。体を丸めてうずくまる。忘れていた、そういえば何も食べていない。お腹が空いた。


 見上げるといつのまにか綺麗な月が出ていた。


 もうすぐ満月かな。今一番食べたいのは、ええと、前にお祭りで食べたお団子食べたい。お団子。あんこがかかってた。すごく甘くっておいしかったのよ。口を開けて少し欠けている月を見上げる。お月見団子食べたい。ああ、こんなこと考えたらお腹が、お腹が……


 あれ? なんか、お腹が痛くなってきたのよ。



◇『猫の生』



 何かわからないキノコ、怖くて食べられない。キノコ、食べられない。またキノコ、食べられない。


 あまりにも寒くて目が覚めた、というかほとんど寝ていないのだけど。まだ暗い山を登ったり下りたりしながら食べられそうな食材を探す。食材は見つからなかったけど綺麗な湧き水は見つけた。う、まだお腹が痛い。前に飲んだ小川の水が悪かったのかな。湧き水も怖い、けど飲むしかない。水の冷たさが朦朧としがちな意識を否応も無く叩き起こしていく。


 木々を避けて進む山歩きは、ものすごく疲れるのにまったく進んでいない気がするのよ。道を見つけて進まないと。


 すすむ? どこに?


 昨日、うつらうつらとしながら考えたのだけど、もう私に残されたのは身を売るしかないと思うの。


 私の身近にはいなかったけど、聞いたことがある、口減らしのために売られていく娘たちの話。売られていった先は江戸で、そこで娘たちは遊女になるのだとか。大層立派な遊女になれると、とんでもなく贅沢な暮らしができるとか。あー、ばったりと人買いに出会わないかな?


 山を下りていた、道に出ていた。大きな村が見える。人が沢山いる。


 人買いを探さないと、


 江戸へ行くにはどっちに行けばいいの?


 あれ?


 仕事を探すのだっけ?


 道を行く男の人の袖を握る。どうか、どうか私の話を聞いてください。


「あ……あう……あ……」

「なんだこの化け物! あっちへ行け!」


 棒で叩かれた。痛い。


 化け物? 何の事?


 男から逃げる。


 ふらふらとした足取りで辿り着いたのは、木々の隙間に小さなお堂が寂しげにぽつんと建っている、お寺だった。





 お寺なら、お坊さんなら、私の話を聞いてくれるかもしれない。手を差し伸べてくれるかもしれない。仏さまは見てる。だから、きっと。


 人を探して、広さだけは立派なお寺の境内を歩いていく、木々が多くて見晴らしが悪い。お墓にはお供え物もない、あっても手を出すつもりは無いけれど……


 …………みぃー……


 どこかから、なにかが、助けを呼んでいる。それは微かな呼び声。誰を呼んでいるの? 足を引きずるようにして、声のする方へ。


 小さなお堂の近くにそれはあった。


 鼠捕りの罠。それに掛かってしまった子猫。


 真っ黒な猫だ。小さい。まだ子猫。鼠捕りの罠に猫が引っかかるなんて、なんて間の悪い猫ちゃんなの。今助けてあげるからね。近づくと、どこに隠れていたのか、親猫と思われる、子猫と同じような黒い猫が現れて私をシャー、シャーと威嚇してくる。


 何もしない、何もしないよー。


 私は、何を、やっているんだろう。


 私は、子猫を、助けようとしている。


 朦朧とする意識の中、鼠捕りの罠から救出された子猫が、親猫とともに逃げていくのが見えた。


 よかった……ね……


 人を……探さなきゃ……





 月だ。綺麗な満月。


 私は仰向けになって倒れているらしい。そして今は夜で、空を見上げている。手を上げる。ボロボロの手だ。白魚のような手とか言われていたのにな。悲しい……はて、倒れた時のことを思い出せない。体が痛すぎて起き上がれないし、あとひもじい。もう手も上げていられない。ぱたん。お腹すいた。大きな月、綺麗なの。お月様が食べれられたらいいのに。あんなに大きいのだから、さぞ食べがいがあるはずなのよ。口を開けてぱくぱくしてみる。お腹は膨れない。


 ふと何かの気配を感じる。それもすぐ近くに。何かがいて、こちらを見ている。


 よっこらせと首を動かして横を見て、驚く。ぎょへって声が漏れた。


 私のすぐ横で、黒猫が倒れている私を見下ろしている。真っ黒な猫。瞳は金色で綺麗。その口には何かを咥えている。月夜にもわかる綺麗な毛並みの黒猫だ。


 だんだんと思い出してきたのよ。この綺麗な黒猫はあの罠に引っかかった子猫の親猫ね。子猫ちゃんは無事? 黒猫は何も言わない、というか口が塞がっている。彼女の口に咥えられているものは……うぎゃ!? 鼠っ!?


 黒猫は私の口元へと鼠を押し付ける。え!? やめて!? 何で!? 嫌がらせなの!?


 黒猫は首をかしげ、困ったように私を見る。いや、困っているのは私だからね?


 ひょっとして、子猫を助けたことへのお礼なの? お腹を空かせている私に? 鼠を? 賢い猫だねぇ、じゃなくて、困るんですけど!


 確かにお腹は空いている、今なら何だって食べられそう、けど鼠かー。鼠を食べるのは人としてどーよ? せめて焼いてから頂戴、いや焼いてもつらいけど。


 黒猫は諦めない、ぐいぐいと私に鼠を押し付けてくる。


 あー、もう。なんとか体を動かして上半身だけ起き上がる。思い返せば人は雀だって食べるのだし、鼠だって食べることは出来るよね。飛ぶか走るかだけで似たようなものだもの。わかった、わかったから。食べる、食べるから。ありがとうね。そこに置いて、は? まだ生きているの?


 まだ生きてた。


 黒猫は私が受け取ることを伝えると鼠を口から離す。地面に落ちる死体と思われた生きた鼠。地面に降り立つや勢いよく逃げ出す。それを前足で踏みつけて逃がさない黒猫。さあ召し上がれ、じゃないのよ。


 難易度が上がったわ。


 これを殺して生で食べるの? 助けてお月様。もう頭が働かない。倒れそう。私が石の様に固まっているのを見るや黒猫は踏みつけていた鼠に顔を近づけ、


 ごきゅり。


 なんとも言えない音を出して鼠の息の根を止める。鼠さぁん! そして踏みつけたままバリッと皮を剥く黒猫。


「…………きゅう」


 ふらりと倒れて再び地面に伸びた私を見て、慌てて血の滴る鼠を口に持ってきてくれる親切な黒猫さん。地獄かな?


 あばばば、暖かくて生臭い生き血が口から喉に……あれ? 生臭くない?


 想像していたよりずっと抵抗が無い。シメたてだからだろか。むしろ美味いまである。起き上がり、両手で受け取り、皮と骨だけ残して鼠さんのすべてを頂く。


 命を、頂いた。


 近くの石にもたれかかって息をつく。生涯感じた事のないくらいの実感を伴って、感謝の気持ちが沸き上がる。気が付けば自然と手を合わせていた。


 頂きました。





 立ち上がってわかったのだけど、血が止まっている。相変わらず肌はカサカサでボロボロ、腰だって曲がって真っ直ぐには立てない。だけど、膿も血も止まっていた。痛くもない。それほど。


 ああああ。何だろう、とっても叫びたい。何の感情かわからない、ただ満月は綺麗。この世は不思議な事だらけ。私は何も知らないのよ。


 黒猫は私が立ち上がったのを見て満足したのか、どこかに歩いていく。私はそんな黒猫についていく。


 静かな夜。風で葉の揺れる音と、虫の声以外存在しない。


 お墓を抜けて、お堂に辿り着く。このお寺、なんで人がいないのかしらね。黒猫がニャァと鳴いて呼ぶと、子猫がミュウと鳴いて応える。子猫がお堂の茂みから現れて母猫に甘える。母猫はコテンと横たわる。まちかねたとばかりに子猫は母猫の乳に吸い付く。


 月明かりの下、母猫が子猫にお乳をあげているのを見て涙を流す。嗚咽が零れる。何でだろう。


 ふと気になった。猫っていうのは大体、一度に何匹も生んで育てるのよね? ねぇ黒猫さん。あなたの子猫ちゃんは一匹だけなの? 聞いても答えはない。


 葉の揺れる音、虫の声。


 私は月を見上げ、呆けている。刻がただただ過ぎていく。気が付けば母猫も月を見上げていた。





 人が来たら隠れ、息をひそめ、


 昼間は寝て、


 夜に動く。



 私はそういうものになった。



 母猫は鼠捕りの名人で、一日に何匹も捕まえてくる。私はといえば、気配を消して隠れるのだけは上手くなって鼠捕りの方はさっぱりだ。鼠はたくさん見かけるんだけどね、なんせ彼らはすばしこい。そのすばしこい鼠を捕まえられるほど猫は素早い。猫凄い。猫になりたい。


 母猫のおこぼれに預かり鼠を頂く。猫に養われる私、ここまで落ちたか。でも鼠は食べる。手についた血の一滴も無駄にせず舐め取る。感謝。鼠にも感謝、猫にも感謝。


 日が昇り始めると、ねぐらを探し、猫の親子とともに眠り、日暮れとともに起きて、鼠を食べ、池の水を飲んで喉を潤し、月を見上げて、呆ける。


 気が付けば人の事はどうでもよくなっていた。誰かに助けてもらって仕事も見つけようとしてた気もするけど、今は鼠を自力で捕れるようになる事の方が重要。頑張るの。


 さあ、今日こそ鼠を捕るぞい、と意気込んでいたある晩。男が二人やってきた。もともと何故か人の寄り付かないお寺だけど、日が暮れてから人がやってくるのは初めてだろう。とっさに身を隠し緊張しながら男たちの会話に耳をすます。


「……おい、罠が壊れちまってるぜ」


 ごめんなさい。その鼠捕りの罠を壊したのはたぶん私なの。子猫を逃がす時に壊れてしまったのよ。わざとじゃないから許して。


「もう一匹いたんだけどなぁ、黒い子猫。捕れてねぇか」


 は?


「しゃあねぇや」

「いい毛並みの黒猫は高く売れんだけどな、もったいねぇ」

「いいさ、今年は3匹も捕まえて売れたんだ、十分じゃねぇか、もうここに来たくねぇしよ……」

「幽霊の出る寺ってか、住職が裸足で逃げ出すくらい怖え寺ってよ。けけ、幽霊なんぞ見た事ねぇや」

「幽霊が出んなら退治すんのが坊主の仕事だろうに」

「うけけ、幽霊捕まえた方が銭になるかね」


 なんで……


「母猫の方も毛並みが良かった。あれもきっと高く売れたはずだぜ」


 何で……


「母猫の方は三味線だな。野良で育っちまったら人にゃ懐かねぇ」


 何でお前らは奪うの?


「ん? 今、なんか鳴かなかったか? 子猫、まだこの辺にいるんじゃねぇか?」


 悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。


 …く…し…く………


 しく……しく……


「え!? あ、あ、あ、で、で、出ぇたぁっ!?」

「お、おい、どこに!? あわっ!? 幽霊ぇ!? 許してぇ! なんまんだぶなんまんだぶあああああ……」


 気がついたら、私は男たちの前に姿を出していた。私に何かが出来るわけじゃないけど、話があったわけでも、考えがあったわけでもない、ただ悔しかったから。


 男たちは私の姿を見るや素っ頓狂な悲鳴をあげて逃げ出していった。


 良かったぁ。遅まきながら、あの男たちに向かってこられたらどうしてたのか。ちゃんと考えて行動しないと駄目だ。私の悪い癖なの。けど間違っていなかった。向かってこられたら、そうね、爪で引っ掻いてやったのよ。鋭い爪が欲しい。猫のように鋭い爪が。


 どこかに隠れていた黒猫の親子が寄り添ってこちらを見ている。


 私は猫の親子に近づいて、抱きしめる。抱きしめて毛を撫でる。母猫への慰めの言葉が出ない。かける言葉が見つからない。代わりに出た言葉は、


「お前は美しいね。綺麗な瞳なのよ、金色の大きな満月が二つ、夜に浮かんでいるよう……」


 甘えてくる母猫と子猫を撫でながら空を見上げる。


 いくらか欠けた月が私たちを見下ろしていた。



◇『天の月』



 岡崎の城下町には化け猫が出る。


 それは醜悪な老婆の姿に化けて人を脅したり、若い美しい女に化けて男をたぶらかす奴だとか、いやいや人の言葉を喋る、いかにも恐ろしい巨大な猫であるとか、いやまて、愛嬌のある二本の足で立つ尻尾の分かれた猫又だ、行燈の油を舐めているのを俺は実際に見たぞとか、そいつは手ぬぐいを被って踊っていただの、


 東海道の宿場町のある岡崎を今一番賑わしている噂話だ。


 それ、たぶん、私のことだ。心当たりがいくつかあるし、……まさか行燈の油ってあんなにおいしかったなんて知らなかったのよ。お魚のいい匂いがするのよね。踊っていたというのは何だろう? 初めて自力で鼠を捕まえることが出来たときは小躍りして喜んだけど、それは見られてないと思うし。


 人の噂になってしまっているのも、売られたという黒い親猫の子供たちが見つからないかしらと思って、ちょいちょい寺を抜け出して町の賑わっている所までやってきているからなわけで。今の私の姿というのはやっぱり人には驚かれるみたいで、泣く、叫ぶ、逃げ出す、中には棒や刃物を持って追いかけて来る奴もいて……


 おかげで逃げたり隠れたりと気配を消すのがますます上手くなっていくのよ。


 落ちていた手ぬぐいで顔を隠して話しかけると若い女だと近づかれ、顔を見せると老婆だと間違われ、走って逃げると化け猫だと叫ばれる。


 私は山姥でも幽霊でも化け物でもないのよ。失礼なの。……老婆でもないのよ。あまり残っていない髪の毛をひと房、手に乗せる。自慢だった艶々の黒髪は今や老婆のような白髪になってしまっている。私は……醜いだけの……普通の……女……駄目だ、泣きたくなる、考えるのは止め。


 二つに別れた尻尾というのは汚れきった白襦袢の……元、白い色をしていたぼろぼろの帯のことを見間違えたのだろうか、とにかく日の下であろうが月明かりの下であろうが姿を見せるのは不味いということで、物陰に潜んで宿場を利用する人たちの噂話に聞き耳を立てる。


 売られた子猫たちに繋がる噂話っていうのは無かった。かろうじて岡崎城の城主が猫好きだって話くらいか。それだけでお城に忍び込むのはねぇ……


 岡崎城、岡崎。ここは岡崎だった。私の生まれ故郷とはそんなに離れていないのよ。ものすごく歩いたと思っていたのだけど、女の足じゃ大した距離も進めなかったようで、悲しい。



 どこそこの飯炊き娘が可愛いだの、どこぞの美人の奥方が俺に色目を使って困るだの、どこかのんびりとした雰囲気を持つ宿場町が俄かにバタバタと騒々しくなる。何事かおきたのだろうか? より注意深く身を潜め、一言一句も漏らすまいと構えて話を聞き取る。


 ――頭の上の耳(・・・・・)をピンと立てて。


 男が騒いでいる。焦っている。とにかく焦った声が伝わってくるけど、焦る男から出て来る言葉は要領を得ない。


 どんな状況?


 人に見つからないように慎重に覗くと、宿場のひとつに乗り込んだ長物を腰に挿した年老いたお侍が血相を変えて誰構わず質問をしている。怪しい人物を見なかったか? かどわかされた娘を知らないか? 何でもいいからおかしな事などはなかったか? 最近、ここらに化け猫がでる? どうでもええわ……


 その宿にいる者からは何も聞けないと判じた老侍はこの事を口にするなよと念を押して足早に去って次の宿へ。


 侍の姿が見えなくなると、宿場の客たちは当然のように騒ぎ出してあれやこれやと勝手にしゃべり出す。口をつぐむ者はいない。中にはいそいそと宿を飛び出す者もいる。あれはきっと誰かに喋るぞ。人の口に戸を立てられぬどころじゃない、立てた戸が吹っ飛ぶ勢いなのよ。


 口々に上る話を聞いても、どこかの誰かがかどわかされたらしいということしかわからない。


 もう宿場町ではその話しか出てこないようだ。今日も子猫たちの行方についての収穫は無し。そろそろ日が暮れる。お寺に、猫たちの所に帰ろう。


 夕飯のための煮炊きを始めて、湯気や煙が立ち昇り始めた宿場町を後にする。お腹すいたー。今日は鼠を何匹捕れるだろうか?





 寺へ帰る道中、奇妙な一団を見た。


 籠を担いだ二人と、その周りにいる3人の侍。奇妙なのは籠を担いでいる二人の方。上半身ははだけているけど、腰に刀を差している。うん、普通の駕籠かきじゃないよね。怪しい。籠も立派。重そう。


 どうにも気になったので後をつけていくことにした。


 時々、後ろを振り返る侍たちに見つからないように、離れて、慎重に、四つん這いになって草をかき分けて進む。まるで獣にでもなったよう。けど曲がってしまった腰じゃ、立って歩くよりこっちの姿勢の方が楽だったりするのよね。


 刻々と、夕暮れから夜へと変わっていく。今夜は新月。お月様はお休みなの。気の早い星がいくつかキラキラと空を飾る。綺麗なの。


 えっさほいさと進んでいた籠と侍が道を外れる。そっちに道は無いよ?


 どうやら男たちは籠を持つ人を交代するようだ。籠を草むらに下ろして提灯の準備を始める。地面に置かれた籠の中から、十二単を着た少女が零れ落ちる。


 !?


 女の子!?


 少女は両手を紐で縛られ、口もさるぐつわを嚙まされて喋れなくされている。


 屈強な侍たちは、籠から逃げ出した少女に余裕で追いつき抱えて放り投げる。草むらに転がされ、うめき声を上げる少女。


 間違いない! かどわかされたっていう子だ! 十二単! お姫様!


 どうしよう!? 誰かに助けを求める? 周りには侍たち以外に人はいない! 宿場町まで戻って? 誰に? 誰も私の話を聞いてくれない!



「そんな着物、脱がしてしまえ。それだけでも重いのだ」

「籠も捨ててゆくか?」

「ああ、そうだな。あとは肩に担いでゆけばよいだろう」


 侍たちが話をしている。


「ふぅ、ようやっと駕籠かきの真似なんぞせんですむ。肩の荷が下りたわ」


 叫ぼうにも叫べない少女の着物がはぎ取られていく。……少女の姿が自分と重なる。


「なかなかの器量の娘よな。いなくなれば城主も悲しむだろうて」


 侍たちが笑っている。……宿場町で必死に探し回っていた老侍の姿を思い出す。


「――――――――」


 侍たちが何かを話している。何を言っているのかわからない。笑っているのだけはわかる。……我が子に乳をやる黒猫の姿が思い浮かぶ。


 何で? 何で? 何で?


 親が子と引き裂かれて良いはずがない! 何で! お前らはっ! 何で!



「な゛ん゛て゛ぇお゛ま゛え゛ら゛は」



 提灯を持っていた男の手が提灯ごと燃え上がる。宵闇に響き上がった私の声と、草むらから立ち上がった私の姿を見て動きを止める侍たち。


「な゛あ”あ”~~~っ!」


 腕を振り上げて侍たちに迫る。


 遅い。悪夢の中にいるように体が遅い。自分の体が遅い。それでも一番近くにいた侍の顔に届く。


 掴みかかるように振るった私の腕は、私の指は、私の爪は、ゆっくりと男の額に沈み、目玉を裂き、鼻を割り、唇を歯ごと、骨ごと、頭蓋ごと切り裂いて通り抜ける。そのまま私の体は、顔を切り裂かれた男の体と、もつれるようにして倒れ込む。


 回転する視界の中で、腕に火が付いた男が地面に転がるのを見る。


「ひやぁああ! ひゃ! ひやあぁ!」


 叫びをあげて草むらを転がる男を見て、思う。私はいま何をした? 何をしているの? 侍を殺した。人を殺した。どうやって?


 混乱する状況の中、立ち直ったのは侍たちだった。3人の侍は腰の刀を抜いて鬼の形相をして倒れている私を見やる。


 怖い。違うの。待って。違うの。


「―――っ!」


 侍の一人が私に切りかかる。怖い。動けない。刀が迫る。え? 何? 何もできず、左腕を上げるだけの私。刀が私の腕の毛皮(・・)で滑って、逸れる。尚も叫びつつ刀を振り上げる侍。


「化――がっ! ―け―がっ! 化 け 猫 が ぁ っ !!!」



 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。



 ああ、化け猫なんだ。


 私。


 なんだ……


 ああ、腑に落ちた。


 すとんと。何かが、あるべき場所へ。落ちて。はまった。



 ようやく。目が、冷めた。生まれて初めて目を見開いて世界を見たように感じる。今までが寝てたのよ。寝る子。寝子。猫。ふふ。


 男は今にも泣き出しそうだ。鬼の形相、なんかじゃないのよ。この、男の人は、



 鬼に、出会ってしまった人の、顔だ。



「あ?」


 男が刀を振り下ろした場所にはもう私はいない。


 私は二本の足で立ち上がっている。3人の刀を構えた侍の真ん中にいる。男たちに囲まれている。けど怖くないの。


 侍たちは私に切りかかる。あなたたち、勇気、あるね。


 けど、侍の人、あなたたち、あの素早い鼠より、ずっと遅い。ずっとずっと遅いのよ。


 右の後ろ、私の体に一番最初に届く刀の、空気を切り裂く音が聞こえる。避けるようにして体をひねる。独楽のように回転して腕を伸ばして振るう。右手、左手、右手。左手。刀を持った腕を切られ、腹を裂かれ、全身を切り刻まれて、右後ろにいた侍の体はバラバラになって散った。


 体をどう動かせばいいのかを、誰かが教えてくれる。誰が? たぶん天の神様が。人に教えられずとも猫が鼠を捕るように、お前はそうであれと。そういうものなのよ。


「な゛~~」


 良かった。


 侍の前に飛び込んで、空へと伸び上がるように腕を振るう。逃げ出そうと背を向けた侍が下から上に裂かれて死ぬ。


 良かった。


 刀を構えたまま、ガタガタと震える、私の前に立つ男は、最初に飛びかかかってきた侍。ごめんね。


 けど良かった。こんなに酷い私の姿、綺麗なお月様には見られたくなかったから。良かった。今日は、お月様が出ていなくて。


 優しく喉を裂いてあげて、心の臓を突き破る。男はすぐに動かなくなる。ごめんね。痛くなかった?


「ひぃああ、ほああ」


 終わったと思ったけど、もう一人いた。最初に手を焼かれていた侍。ひあひあと言いながらこの場所から這いずって逃げ出す。ちょっと、やめて欲しいのよ。その動き。気がついたら男の背中に乗っていた。


 ああああ。どうしようもないよね。そんな動きされちゃあ。乗るよね? 普通。


 ごきゅりという、なんとも言えない音を出して、男は果てる。


 ああ悲しい。空を見上げて天にお月様が居ないのを確認する。ああ、悲しい。今の私の姿をお月様に見て欲しかった気持ちも少しあるから、悲しい。


「にゃーん」


 猫の鳴き声を真似してみる。……ちょっと違う。にゃーんはないのよ。にゃーんは。



 さるぐつわと手を縛っている紐をとってあげようとして草むらに転がる少女に近づく。


 少女は薄目を開けて私が近づくのを知るや起き上がって逃げ出す。侍に器量がいいなんて言われていた美しい顔は涙と鼻水と涎でべとべとだけど、なんだか元気ね。あ、転んだ。


 近づく。逃げる。近づく。逃げる。転ぶ。立ち上がる。逃げる。


 楽しくなってきた。


 ……じゃなくて、元気そうだし、あのままでもいいか。一本道だし、宿場町まで辿り着ければあの老侍にも会えるでしょう。あの子はもういいの。いつまでも追いかけっこをやっていたいけど、それは可哀そうだし。


 少女を追いかけたくなる衝動を振り切り、私は後ろを振り返る。侍たちの死骸が草むらに転がっている。殺してしまった。命を奪ってしまった。けれど、殺したことより、地面に流れ染みゆく血を見て「もったいない」と思ってしまう。


 どうやら私はそういうものになってしまった。


 手についた血を綺麗に舐め取り、手で顔を洗う。血を浴びた全身がかゆい。爪で掻くとポロポロと皮膚が剥がれ落ちる。剥がれた皮膚の下からは老婆のごとき白い毛が。どうせ化け猫になるのなら黒猫の化け猫が良かったのよ。あの夜をまとったような綺麗な黒色。


 自分の体を身ぎれいにするのはいつ以来だろう。生きた心地がした。なんだかとっても良い気分。



◇『血の刃』



 岡崎の城下町では、あの日から酷い騒ぎがずっと続いているけど、私には一切合切関係ない、っと。


 ひょいと鼠を捕まえる。


 もう慣れたものなのよ。鼠の動き、見切ったり。黒い毛並みの親猫に獲物を見せびらかす。ふん、と、ひとつ鼻を鳴らしてそっぽを向く黒猫。どうやら私の方が鼠を捕まえるのが上手くなったから拗ねているようだ。とはいえ親猫も鼠捕りの腕は落ちていない。伏せた状態から飛び上がり爪に掛けて鼠を捕らえる。親猫は自分では食べずに子猫に与えている。こちらも親譲りの黒い美しい毛並みの子猫は、たどたどしく鼠を食べはじめる。


 あの鼠にも子供がいるのかな? つい考えてしまう。


 もう何も奪われたくない私は、鼠の命を奪って生きている。私が駄目で、鼠が駄目じゃない道理は何だろう。何で何でと考えても答えは出ない。この世はわからないことだらけ。黒猫に問いかけても無視されるだけ。何も答えてはくれないのよ。


「猫は十年生きると猫又になって喋れるようになるって言うよ? あなたは喋れないの?」


 返答は無言。いつものこと。


 親猫と言ってもまだまだ若い猫だからね、猫の年齢なんてわからないけど10年も生きていないのはわかる。腕の中の鼠をパクリと一口で飲み込む。皮ごと、骨ごと。ばりばりと噛んでごくりと飲み込む。頂きました。



 何も変わっていない。人の寄り付かない寺で寝て、起きて、鼠を捕って食べて、月を見あげて呆けて、時々人に見つからないように宿場町に行っては噂話に耳を傾ける。変わったのは子猫が乳だけじゃなく鼠を食べる様になったくらいのものだ。みるみる成長していく。すごいね。


 私もちょっとだけ変わったかも。四肢を駆って走るのは楽しい。猫は楽しい。生きるのは楽しい。


 そう思えるようになった。





 人は執念深い生き物だけど、猫だって執念深いのよ、それが化け猫ならいっそう。


 ある日、ふと気になってしまったのよ。今の私が全力で走ったら、私の生まれ故郷までどれくらいで着くのだろうって。集落の中にまで入るつもりは無い、無かった。醜くなったどころじゃない、人ですらなくなった私を親に知られたくないし、見せる顔もない。


 空を見上げると、ほんの少し欠けたお月様。満月まであと少し。


 薄っすらと残る記憶を頼りに野を駆け、山を駆け、道を駆けていく。月の光を浴びながら全力で走る私はご満悦。道中に出会った旅人たちを驚かせつつ進む。駄目だよ、日が暮れてから出歩いちゃ。怖い怖い妖怪に出会ってしまうのよ。


 途中、覚えのある場所に到着する。故郷から逃げ出した私が夜通し歩いて辿り着いた集落、タケノコ、おじいさん、タケノコ、怖い男衆、はぎ取られた着物、タケノコ、タケノコ……


 にゃおん、恨み、はらさでおくべきか。予定変更。復讐のために集落に立ち寄る。


 夕食を終えて、良い子は寝るぞという時刻。家々を覗き、首尾よくタケノコ取りのおじいさんを見つける。天井から逆さにぶら下がって脅かす。よくよく思い返してみれば、タケノコ取りのおじいさん、そんなに悪くないよね? 驚いただけだしね。なにぶんタケノコの印象が強すぎた。だが時すでに遅し、手遅れ。


 盛大にわめいて家から飛び出したおじいさんに驚いて家々から男衆が出て来る。中には妖怪なんかいないと言っていた見覚えのある男。都合がよろしいとばかりに派手に暴れる。どうぞ、妖怪ですよ、山姥でなく化け猫ですけど。猫又よろしく、尻尾を二本生やして頭の上に乗せて男衆をおちょくる。ばーかばーか。


 いったん逃げ出してまた戻る。化け猫はしつこいのよ。大きな家に集まった男衆の話を盗み聞き。


 気配を消しての盗み聞きにも磨きがかかっている。闇に溶ける様にして柱の陰から盗み聞く。


 ……聞かなきゃよかったのよ。


 ここから足で半日ほどの集落の話。天神様に呪われ醜くなった娘の話。醜くなった娘というのは、じいさんが前に山姥と間違えた娘のことじゃないのか。そういえば顔は老婆みたいだったが体は若かった気がする。娘の祟りがこの集落にやってくるんじゃないのか。さっきのふざけた猫の妖怪はその先ぶれに違いない。それから、


 その呪われた娘の元婚約者と、娘の妹が祝言を上げたこと。


 どこかで雷鳴が轟いた。





 怯える男衆のいた家を静かに後にして、私は疾走していく。知りたい。知らなくちゃいけない。何も知らない私は、せめて知るべきなんだろう。自分が故郷から逃げるように出て行った原因が何であったかを、それくらいは、せめて。


 故郷に辿り着いた。懐かしい、という思いは無い。


 化け猫の目で見る月明かりに照らされた故郷は、まったく見た事のない景色に感じられた。 


 それでも自分の住んでいた家を見た時は心の中から溢れるものがあった。瞳が潤む。化け猫だって泣けるのか。父様、母様、それから……


 両親の姿を一目だけ、一目見るだけのつもりで屋敷に忍び込む、そして息をのむ。妹がいた。妹と男、元婚約者の男、妹と祝言をあげたという男。妹と男は私が暮らしていた部屋にいた。一瞬で混乱する頭。


 何で、いるの? 夫婦だから一緒にいていい。そうじゃない。ああ、次男だったから婿入りか。それにしても何で私の部屋? 屋敷には妹の部屋だってあるのに。


 妹と男は寝息をたてて寝ている。私はゆらりと彼らの枕元に立ち、そして、そして、


 どうしよう?


 考えあぐねる。妹から話を聞きたい。男の方は、いいかな別に。起こす? 起こしてあの日のことを聞く? 何で嘘ついたのって。化け猫になってから妖術はいくつか使えるのだけれど、記憶を覗いたり、聞けば正直に話をしてくれる、なんて妖術は知らない。だけど逆に深く眠らせることは出来るのよ? ……意味ない。


 うんうんと唸っていると、妹が目を覚ました。目が合う。


「…………」

「…………」


 あ、いけない。妹以外の屋敷にいる人たちを深い眠りに落とす。呆然から驚愕、驚愕から自失へと変わっていった妹が絶叫する。間に合った。


「姉さん!? ああああああ!?」

「よくわかったのよ。我がことながら変わり果てた姿だと思っていたけど、さすがは姉妹……」

「夢だ! こんなの夢だ! さめろさめろさめろ……」


 起き上がり、両手をこめかみに当て、私を凝視しながらひたすら「さめろ」と言い続ける妹。もの凄い形相なのよ。どうせなら夢だと言う妹の意見に乗っかる。幻覚の術で昔の私の姿を見せる。妹の目には美しいと言われていた頃の私が見えているはず。ふわりと浮き上がり、妹に笑いかける。


「ええ、夢よ、これは夢。あなたと話を、」

「ああああ、さめろさめろ、おきて、さめろ、おきろぉああああ!?」


 狂乱の妹は、叫びながら隣で寝ている男をゆすり、叩き、蹴っ飛ばしながら後ずさっていく。器用。部屋の外に出られたくないので襖は開かないようにする。


「あなた、すごい隈……」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいころしてごめんなさい」

「ちょっと話を……え……」


 両手で頭を抱える妹は、私ほどじゃないけど変わり果てていた。それなりに肉付きの良かった妹の顔の頬はごっそりと削げ落ち、目の下には酷い隈ができていた、その彼女の口から聞こえた「殺してごめんなさい」という言葉。うまく理解が、出来ないのよ。私は、頭が悪いから。


「どっこい、私は生きているのよ」

「死んでるっ! 岡崎の、宿場町のっ、近くの寺でっ、姉さんの死体が見つかったって!」

「は?」


 岡崎の宿場町の近くの寺って、あの寺のことだよね。あそこで自分の死体なんて見てないのよ。


「鼠に食い荒らされてっ! 骨だけになった姉さんがっ! なんで今頃っ、化けて出て来るのよおっ!」


 わからない。わからない。わからないことだらけだ。


「一年待ってっ! ようやく彼と結ばれたのにっ、ああっ、消えろ消えろ消え、ひ、」


 妹に近づいて彼女の手を握る。細い……、一か月かそこらじゃここまでやつれないのよ。一年? 一年たっているの? だって猫の親子は……


 猫は一年たてば子を孕む。


 あの時の罠にかかっていた子猫は、乳飲み子というには少し成長しすぎていただろうか。罠は? 今年は3匹? ああ、毎年やっているのか。タケノコのおじいさんは? 子猫と違って、大人の人間は一年じゃそれほど変わらない。じゃあ私は、何? 死んだ? 殺した?


「教えて、何故? 私を、殺したの?」


 妹の顔に近づいて、ささやくように、聞く。


「姉さんが悪いっ! 姉さんが全部持っていたからっ! 美貌もっ、彼もっ! 憎い! 憎い憎い! 全部持っていた姉さんが憎い!」

「……それで、毒を?」


 ……頭が働かないのよ。もともと大して働かないけど。


「毒! そうよ! 毒で姉さんの全部を奪ってやったっ! 彼を奪ってやった! 日当たりのいい部屋も! ぜんぶ! ぜんぶ!! ぜんぶ!!! あは、あははは、あ、」


 あ、


 意図せず、妹の手首を、握りつぶしていた。血が、部屋中に、弾けて、飛び散る。


 絶叫。


「あぐあああ、許してぇ、違うの、許してよお、皮膚がただれるだけの毒だって、出ていくなんて、死ぬなんて知らなかったの、違うの、違うの、許して、姉さん」

「姉さん、じゃないのよ、私は、お前の、姉さんじゃない。お前とは関係のない、ただの、化け猫、なのよ」


 妹、かつて妹であった女から離れる。この世には、知る必要のないことって、あるんだな。


 知らなきゃ良かった。聞かなきゃ良かった。来なきゃよかった。そうしていたら、ただの一匹の化け猫として、在れたのに。ただ笑って、いられたのに。


 疲れた。出て行こう。もう関係ない。忘れよう。出来る限り。


「……助けて、お腹に子供がいるの、助けて」


 は?


 屋敷を出て行こうとした私は、流れる血とともに、徐々に小さくなっていく、かつて妹であった女の声で引き戻される。


 女の命はどうでもいい、この女はもう死ぬ、けど、子供は助けないと!


 死んだ女の腹にいては子供も死ぬ。焦って、女に再び近づいて、爪で腹を裂く。子供はどこ!? どこにもいない、子供ってお腹にいるんじゃないの!? 女の腹のどこを探しても子供らしきものは見つからない。


「なん? 血? は? おま、あひゃああああっ!?」


 いつのまにか術が解けて、男が目を覚まして絶叫を放つ。けど、それどころじゃない。女の腹から子供を探す。どこにもいない。胸のあたりも探す、どれも違う。子供ってどこにいるの? ああ、知らない。私は何も知らない。何で私はこんなんなんだろう。どこ? どこにいるの? 答えて!


「どうしたっ? 何事……っ!?」


 襖が開き、見覚えのある懐かしい顔が覗く。父様、母様……


 私は全身血にまみれ、床には女であったものが散らばり、腕には、その首。


 ……違うの。


 重なる絶叫を背にして、私は逃げた。ただ逃げた。





「な゛~~~」


 あの女の頭、つい持ってきちゃった。もう、何を聞いても答えない。


「な゛~~~」


 道を行く。かつての日を辿るように。空は曇天に覆われて、月は見えない。ぽつぽつと雨が降り出した。


「な゛~~~」


 考えてみれば、これって復讐を果たしたってことよね? 不遇に殺された女が、恨んで化けて出て、殺した相手を殺した。よくあるお話なのよ。めでたしめでたしで終わり。


 女の頭を空に放る。くるくると回って私の手に戻る。


「な゛~~~」


 そう思うとなんだか笑えて来た。放る。取る。放る。取る。ああ楽しい。楽しいのよ。だったら何で、


「な゛~~~」


 何で、私は泣いているんだろう。


 雨は激しくなり私の体を打ち据える。それでも体に染みついてしまったあの女の血は流れていかない、そんな気がした。私は道を行く。私は今、どういうものになっているんだろう?


 お寺に戻ろう。変わって、変わって、変わり果てた私を、あの猫の親子は私だって気づいてくれるだろうか? 雨は嫌い。明日はせっかくの満月だから、晴れてくれないと困る。



◇『結び』



「遅れてすまない」


 私に向かって頭を下げる侍。頭を下げつつも、手は腰の刀にそえられている。若い精悍な男だ。


「……お侍様に頭を下げられる理由は私には無いのよ」


 ふらりとお寺にやって来て、お堂の影に隠れている私を見つけて「どうか出てきて、姿を見せてはくれないだろうか?」と丁寧にお願いされた。何事かと恐る恐る出て行った私に頭を下げる若侍。下げられた私は困惑するばかり。



 変わり果てた私を、変わらぬ態度で出迎えてくれた猫たちとゴロゴロ過ごし、今日は待望の満月の夜。うまいこと晴れてくれた。綺麗で大きなお月様は木々の上から顔を覗かせている。


 だというのに心が楽しくない。


 気持ちが昂らないし、野原を駆け回る気も起きないし、鼠を捕えて食べる気も起きない。


 そんな、ないないづくしの私に若侍は言葉を続ける。


「いや、あるのだ。拙者の悪い所が出た。そなたの事が知りたくて、時間を掛けすぎてしまった。それがゆえ、また一人の命を、そなたの手に掛けさせてしまった」


 ……この若侍は昨日の夜の事を知っているようだ。しかし、手に掛けたのは一人じゃないのよ。救えなかった腹の子を入れて二人。何も言わない私に侍は続ける。


「言い訳にもならぬ述懐である。救えたはずなのだ、そなたの妹君も、そなたも」

「すくう……お侍様は、どちら様でございましょう?」

「この世の人に仇なす妖怪を斬ることをなりわいとする者である。名乗りをせぬ無礼を許して欲しい」


 人に仇なす妖怪……そうか、私はそういうものになっていたのか。


「聞いていい? 私は悪霊なの?」

「……そなたを悪と呼ぶものからすれば、そうであろうな」


 含みを持たせた言い方をする。別に悪霊と断じてくれていいのよ? 何でこんなことになったのかなあ……


「もう一つ、聞いていい? 昔、子供の頃、天神様へのお供えを盗んで食べたことがあるの。それで私は天神様から罰を受けたの?」

「流石にそれは、そこまで天神様もお暇ではござらんゆえ」

「そう、安心した」


 私が今こうなのは、私がこうだから。天の神様のいうとおり。


「神仏に祈り、以後、殺生をせぬと誓うのならば、妖とて我ら人と共にあることもできたのだ。しかし今は手遅れ。そなたには必滅の令が出ておる。時間を掛けすぎた、重ねてすまぬ。どうか滅んでくれ」

「滅んでくれって……」


 空を見上げる。お月様。綺麗。私は? 醜い私は消えた方がいい? お月様は答えてくれない。


 黒猫の親子の姿を探す。剣呑な雰囲気を読んでか、どこかに消えている。本当に賢い猫だ。私も見習いたいのよ。


 この期に及んで、ふつふつと沸き立つものが生まれる。私は自分の毛が逆立ち、瞳孔が開き、爪が鋭く伸びていくのを自覚する。言葉には出来ない感情。戦え? 敵を殺せ? 獲物を屠れ? ふつふつ、ふつふつ。


「……これほどか!?」


 若侍が腰の刀を抜く、構えた時には若侍の前には誰もいない。後ろにいるのよ。侍は即座に体をひねり、気合を放って下から上へと刀を振り上げてくる。どうしようかな? いつぞやの5人の侍たちとは比べることが出来ないほど高い技量。よくわからないけど刀もすごそう。綺麗だもの。受けたら毛皮ごと斬られそう。爪で刀の腹を打ち据え、払い除ける。金属が軋む音を出して刀とともに侍が吹き飛ぶ。いや、自分で飛んだのね。手入れのされていないお寺の境内の土をずしゃりと削って、再び刀を構える若侍。刀を構えるお侍様の顔、必死。


 楽しい。楽しくなってきた。


「にゃーん」


 鳴き声を一つ残して前に進む。止まる。顔の前を刀の切っ先が通り抜ける。進む。若侍の額と私の額が触れるほど近づいてみる。目が合った。目が合う。凄く合う。肩に手を乗せる。下から白刃が迫ってきた。逃げろー。逃げるついでに肩を爪で軽く引っ掻いてきた。若侍の肩から鮮血が舞う。結構深くやっちゃった。大丈夫?


 若侍は逃げ出した。


 ………………は?


 若侍の態度から、逃げるとか、そういうのとは縁が無さそうな感じな人だったので、対応できなかった。一目散に逃げ出した侍の背中を見て、うずうずする気持ちを止められない。いいの? 追ってもいい? 誘っているのよね?


 あっはぁ! 飛び上がり、飛び跳ね、突き進む。走る侍の右の後ろ側に位置取り、侍の左の肩を叩く。侍は走りながら器用に左に刀を振るう。当然何もない。右を向いて並走する私と目が合うと絶句する。刀を振ってきたので足を引っかけて転ばせる。頭から突っ込むような形になったのに、きちんと受け身をとってゴロンゴロンと回りながら、即座に立ち上がり刀を構える若侍。器用なの。


 後ずさり、なおも逃げようとする若侍、前に進む私。刀を振ってきたので避けて爪で引っ掻く。また刀を振ってきたので避けて爪で引っ掻く。見る間にお侍様は傷だらけの血まみれになっていく。


 楽しい。猫が鼠をいたぶる気持ちがわかっちゃった。これが楽しいと思うなんて、さすがは悪霊の私。化け猫の本領発揮なのよ。


 お侍さんは逃げ出す。追いかけっこ再開。



 満身創痍になりつつも、大きな石の前で立ち止まる若侍。追いかけっこはもう終わり?


「この石に見覚えは無いかぁ!?」


 石? 大きな石を指して私に問いかける若侍。石ねえ、石に見覚えがと言われましても。首をひねる私を見て侍は大きな声で怒鳴るようにして続ける。


「猫石という! 猫のような形をしておるだろう!」


 そう言われれば、そう見えなくもない、いや無理がある。どうひねくれて見ればいいの?


「そなたの亡骸はここにあった! いとも無残な様子で果てておった! 亡骸は丁寧に埋葬され、弔われた!」

「へぇ、そうなの。……迷い出てるけど」


 お経も効果無いんじゃない? 思い出してきた。前の満月の夜、目が覚めて、初めて鼠を食べた時に、もたれかかったような、そうでないような。


「猫石に蓄えられていた精と、恨みを残して死した霊が合わさって生まれたのが今のそなただ!」

「なるほど。そうなのね。誰かを恨んでいた記憶は無いのだけれど」


 タケノコ取りのおじいさん……いや、なんでもない。今度タケノコ食べよう。


「気がついておるか? 今、この寺の周りを囲むように結界が張られていることを!」

「結界? 多くの人の気配はするけど」

「今日しかなかったのだ。今晩、この時しか!」

「ええと?」

「本当のことを言うぞ! 拙者はこんな夜に、月夜の晩に、そなたほどの大怨霊と戦いたくなかったのだ!」

「それは、……ご愁傷様? 山姥、幽霊、化け猫、悪霊、ついに大怨霊になってしまったのよ」

「岡崎の城主から! 化け猫を見つけてくれと頼まれた! 成敗の為ではないぞ! 娘を助けてくれた礼がしたいからと! しかーし、そなたとは会えなんだ! 本気で逃げ隠れするそなたを見つけることが出来なんだのだ!」

「…………」

「そうこうしているうちに必滅の令が下ってしまった! あと一日! そなたよ! あと一日が待てなんだのか?」

「待つも何もないのよ、……お話をしたいだけなら付き合ってもいいのだけど」

「戦わねばならん! 未熟な者を連れてこれば、無意味に骸を増やし兼ねんと置いて来たのはよかった! そこは良かった!」

「会話がしたいのよ……」

「月の力を得たそなたは強い。正直そなたを侮っておった。とても勝てぬ。ゆえに、我は天に乞い願った!」


 満身創痍の若侍は片腕を上げて空を指す。


「天を見よ! 天はそなたを見放したぞ! そなたは力を失ったぞ!」


 釣られて、空を見る。



 は?



 空に煌々と輝いていた満月は、その半分以上が欠けていた。


 口を開けて、呆ける、私。


 白刃が迫る。とっさに右手を曲げて防ぐ。腕を裂き、二の腕を裂き、胸の毛皮を裂いて、止まる。


 !? 何が、起きたの?


 混乱して思考を止める私に、烈火のように刀を振るう侍の刃が幾筋もの傷をつける。残った左腕の爪で受け、打ち、払い、侍の前からかろうじて逃げ出す。痛い。痛い。何が起きているの?


「仕留めきれなんだ!?」


 空を見る。見間違いじゃない。月がごっそりと欠けている。何で!? お月様ってそんな一晩で姿を変えたりしないよ? 何? 天、見放された、力、失う? は? 私はお月様にも見放されたの? そんなのは、そんなのは、そんなのは、……そうなのか。さっき、私は、自分で、お月様に問いかけたじゃないの。醜い私は消えるべきか? って。


 これがその返答。



 お前はこの世にいりません。



 あはは。


 あはは。


 血が流れる。力が消えていく。疲れた。消えたい。体が重い。


 侍の刀が迫る。もういいか。ゆっくりだ。早くして。まだ届かない。遅いのよ。思い出す。あの女のこと。腹の子のこと。黒猫の親子のこと。


 体をひねって躱していた。何で? 躱した? 次の刃が迫る。若侍の顔、必死。躱す。


 ……意味がわからない。ここにきて極めつけなのよ。何でまだ生きようとしているの?


 鬼を交代しての追いかけっこが始まった。私は重い身体を引きずるようにして逃げる、若侍は苦悶の表情を浮かべながら追いかける。わからない。何もかもがわからない。気がついたら猫石の前に戻ってきていた。堂々巡り。お寺だから。ふふ。今、私は何をしているのだっけ? 何でこんなことになっているの? たしかあの女に毒を盛られて……


 倒れ込んで見上げた月は今や輝きのすべてを消して、不気味な赤色となって私を見下ろしていた。


 そんなに嫌わなくてもいいじゃないの、おつきさま。


 追いつき、近づく男に歯を剥いて威嚇する。シャー。体が勝手に動くのよ。ごめんなの。何でこんなことになっているんだっけ? たしかあの女に毒を盛られて……


 遠くに雷鳴を聞いた。





 男は慎重だ。もう立ち上がる気も力も無いというのに。


 あと一歩、あと一歩なのよ。それで終わる。ようやく。その一歩を若侍が踏み越えた時、


「フギャーーッ!」


 黒猫が草むらから出てきて若侍に飛び掛かる。若侍は顔を引きつらせて黒猫を――


 世界はわからないことだらけだ。何で何でと問いかけていても、まず答えてくれない。それどころか酷い返答を受けることもある。だから「何で」はもうやめるのよ。何で若侍の振るう刀に黒猫が切られそうな状態で世界は止まっているの、とか。どうすれば黒猫を助けることが出来るのか、それを自然にわかってしまうのは何で、とか、きりが無いの。


 出来ることをやる。やるべきことをやる。頭の出来のよろしくない私にできるのはそれで精一杯。


 若侍の足元、斬られ、散らばる私の腕を見る。倒れたまま、そうあれかしと命ずる。切られた腕から鼠たちが生まれる。私を食べて、私が食べた鼠たち。鼠はすばしっこいからね。こんな世界でも動けるのよ。私の思うまま鼠たちは侍に取りつき纏いつく。侍は足をとられて浮き上がる。――ゆっくりと世界は動き出す。


「!? がはっ!」


 私は立ち上がり、起き上がろうとする若侍の上に乗る。化け猫ってしつこいのよ。首に左手の爪を当てる。爪の先が少し入っちゃった。ごめんなさい。


「あれ、本当?」

「…………あれ、とは?」

「あれよ、あれ。神仏に祈って殺生をしないと誓うと救われるとかなんとか。私が今から誓っても遅くない?」

「…………」

「そうね、遅いよね、知ってた」


 嘘も吐けない正直者のお侍さんから離れる。猫石の所まで歩いて行って、もたれかかって座る。空を見るとお月様が光を取り戻しつつある。はー、知らなかった。お月様って猫以上に気まぐれなのよ。


 黒猫の母猫が寄り添ってくれる。片腕でやさしく撫でつけながら侍に言葉を掛ける。


「猫は斬っちゃ駄目」

「っ! 先ほどのは、とっさのこと故。人に仇なす妖怪以外、拙者斬り申さぬ」

「約束よ? 約束を破ったら」



 化けて出てやる。



「!?」


 若侍がおののいている。立派な風体してどこか抜けてる。体が崩れていく。人も猫も鼠も、生きている間は死にたくても生きていく。けど化け猫は? 妖怪は? 死を受け入れると滅びる、きっとそういうものだ。知らないことだらけで何で何でと言ってた私は、何で何でと言ってないと滅びる、何で何で妖怪だったんだ。たぶん。知らないけど。黒猫の顎の下を撫でる。ゴロゴロという音に癒される。親子で仲良くね。


「そなたの魂が救われるよう、拙者、神仏にお祈り申す」


 空を見上げる。徐々に光が大きくなって満月の姿を取り戻そうとするお月様を隠すようにして、雷雲が空に立ち込める。ああ、もう。嫌い。ゴロゴロ言っていいのは猫だけなのよ。降り出した雨が私の体を溶かしていく。


 ざあざあ。ざあざあ。


 体の血が洗い流される。あの女の血も全部。


 お天道様が、


 もう休んでいいよと、言ってくれている気がした。





 東海道の宿場町のひとつには化け猫の伝説が残っている。


 愛嬌があって、恐ろしくて、悲しい、化け猫の伝説が。







読んでいただいてありがとうございました。

この作品を読んだせいで胃のあたりが疲れて癒されたい方には「マル@猫又検定苦戦中」を処方します。

シレットナ(-"-)

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