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序章 第一節 月来香

 曇天に浮かぶ月が時折雲の隙間から顔を出す。


 まるで緞帳の穴から覗く子供のように覗いては草木や花に色を与えていた。

 その視線の先には地肌を枕に天を仰ぐ少女。


 喝采を一身に受け人生の絶頂を謳歌する舞台女優のように蒼白くぼんやり光っている。


 腰上まで伸びた長い髪は風に弄ばれ、その度に月明かりを反射し金色の粒で飾っていた。

 

 あどけなさの残るその美しさには似つかわしくない麻袋で拵えたような土色の衣服。いや、実際泥に塗れているのだろう。何ヵ所か乾燥した土塊が捲れて落ちているような状態だった。体には新しく小さなものから古く大きなものまで無数の傷がある。


「アルス……イーラ……見て。きれいな月」


 少女は消え入りそうな声で呟く。月の光に照らされ、穏やかに微笑む姿は神々しくさえあった。

 しかし、少女の手首に残る荒縄で縛られたような跡。左腿に巻かれたボロ布に滲む赤黒い血や、小石が突き刺さったままの皮が捲れた足裏がはっきりと血の通った生物であることを教えている。


「ああ。自慢話がまたひとつ増えたな。もうすぐ街道に出るはずだから、少し休んだら出発しよう。……大丈夫!ステラのことは僕がおぶっていくから」


 少女を風から守るように傍らに膝を付き、顔を覗き込むように少年が語りかけている。

 少女と同じ泥に塗れた布切れと傷だらけの体。サラサラと軽やかな金髪はショートボブ程の長さだが前髪だけ乱暴に切ってある。庇護欲を刺激するような目からは今にも涙が溢れそうになっていた。


 少女の足元ではもう一人の少年が自分が纏っていたであろう布切れを歯で切り破り、少女の腿に巻かれたボロ布の上から更に重ねてボロ布を巻いているところだった。


 手当てを必死に行ってはいるがそこに感情を感じさせるものは一切無く、非常に整った顔立ちと相まって無機質な美しさを作り上げている。だが、その美しさに魅入る存在を、切れ長で釣り上がった目と、口の両端から両耳にかけて猿轡をはめているような大きな火傷跡が否定していた。


「……ねぇ……月はどこに隠れたの?お願い……もう一度だけ」


 虚空を見つめる少女の目はもうこの世界の光を捕らえることができなくなっていた。


 冷たく優しい風がそっと大地を撫でる。


 木々や草達はその細枝のひとつひとつや、天に伸ばした自らの体を優雅に揺らすことでそれに応えていた。


「ステラ?……ステラ!」


 その協和音を切り裂くようにアルスが叫ぶ。もう見つめ返してはくれないステラの頬を両手でそっと包むように抱きながら。


「……アルス。奴らの匂いが近付いてくる。急いで離れよう」


 短く早くなった呼吸を整えながら抑揚の無い平淡な声でイーラが言う。その体からは既に枯れ果てたはずの水分が滲み出ていた。この世の摂理に抗おうとした証を生み出すように。


「…………」


「……アル

「僕はステラと一緒に行く。イーラは僕らに構わず全力で逃げてほしい。いざとなったら森に身を潜めながら街に向かうよ」


 イーラの呼び掛けを遮るようにアルスは言葉を続ける。未だにステラからその眼差しを外さず、その両手はステラの頬を優しく包んだまま。


 イーラは立ち上がり、友の背中とその妹の横たわる姿を目に焼き付けていた。


「……あぁ。先に行ってる」


 分かっている。その言葉は虚しさしか生まないことを。

 分かっている。二人が望む結末には決してならないことを。

 でも、その様式美のような遣り取りしか時間を繋ぎ止める方法をイーラは思い付かなかった。たとえ、滑稽な寸劇だとしても。


「…………」


 アルスは沈黙という誠実さでそれに応えた。


 イーラの鋭敏な嗅覚が奴らの匂いを色濃く捉える。もう時間は無い。自分には何を捨てても成し遂げなければいけない事がある。その決意と覚悟を握り締め、イーラは体を硬直させるように全身に力を込めた。


 その刹那、イーラの体から分厚いゴムを絞るような鈍い音が発せられる。


 同時に起こる肉体の劇的な変化。


 全身の筋肉が膨張し二回り程大きな体躯となり、表情筋を無理に押さえ込んだ結果、笑いながら怒っているような不気味な顔面へと成り果てていた。


 イーラは匂いが漂ってくる方角とは逆に踵を返すと暗闇に目を凝らす。冷たく優しい風が背中を押している。


 月がその明かりをゆっくりと消した。残された演者に退場を促すかのように。

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