シーサイド・サニーサイド
世界の終わりは、緩やかに可視化される。
渚に打ち寄せる潮騒、しとどに濡れた赤い空。
人気の消えた海岸で、イトスギだけが、やがて訪れる業火を待ちわびるように立ち尽くしている。
「春は名のみの風の寒さや」
鼻を突くような潮の香りに身を任せながら、少年は歌う。
「谷のウグイス歌は思えど」
薄汚れた空き瓶が、右手には握られている。その薬指には、装飾がくり抜かれた指輪がはめられている。
「時にあらずと声も立てず」
どこまでも続く水平線に、波の音と歌声が、同じ音を立てて揺れる。
「時にあらずと声も立てず」
*
恐ろしく風の強い日だった。
『白い波打ち際の島』に打ち寄せる荒波も、己の本懐を思い出したかのように、今日は一段と力を増している。
少年はため息を一つ付くと、ボロボロに使い古した履物の靴紐をぎゅっと絞め、西の海岸へと向かう。
波の音が強くなる。
磯特有の腐ったような香りが、吹き抜ける風に乗ってあらゆる隙間に入り込み、皮膚を撫で、通り過ぎる。外套の前をしっかり閉じ、両手をポケットに入れ背を丸めてみても、防ぎ切ることは出来ない。
もう、どうにもならないのだと思う。
どうしようもない事実として、『白い波打ち際の島』は終わりつつある。いや、例え『大きな島』だって同じだ。遅いか早いかの違いしかない。渚に打ち寄せるさざ波みたいに、緩やかな破滅を迎えるその時まで、じっと待ち続けるしかないのだ。
少年は瞼をこすりながら、世界の果てみたいな水平線を眺める。
信じられないことだが、西の海岸へ流れる漂着物は、この水平線の向こう側から現れる。それは例えば、流木や木の実や、あるいは空き瓶だったりする。空き瓶が流れ着いた際には、少年はそれを小屋に持ち帰る。そこまでが定型された毎朝の日課だった。
瓶を探して渚を歩き、少年は顔を顰める。
空き瓶が流れ着いていなかったから、ではない。その代わりに打ち寄せられた、一つの影があったからだ。
見間違いなら良かった。でも、違う。それは小さな舟だった。気を失った少女が一人、船の中に倒れている。知らない少女だ、もちろん。
一体、なんだというんだ、まったく。
少年はこめかみに手を当て、また小さく溜息を付いた。
*
全ての始まりは、世界の急速な温暖化だった。異常変動した気候は生態系に大打撃を与えると共に海水面を急上昇させ、陸地のほとんどを水の底へと包み込んだ。
残った人類は、僅かばかり残存した『島』へと移り住み、今も生存を続けている。『白い波打ち際の島』もその一つだ。
「馬鹿げた話だ」
と、少年は言う。異常気象がではなく、人類の行動が。海面上昇は今尚続いている。そう遠くない未来、残った『島』も全てが水底へ沈むだろう。今更僅かばかり生き長らえようとして、一体何になる? 全くもって、馬鹿げた話だ。
「ならどうして?」と、少女は尋ねる。「どうして、私は助けたの?」
「助けたくて助けた訳じゃない。その方が僕にとって都合が良かっただけだ」
本当に。
どこで誰が野垂れ死のうと構いやしないが、目の前で人に死なれるのはさすがに目覚めが悪い。後顧の憂いと少女を助ける労力とを秤にとって、前者を選んだだけの話だ。
「偏屈なのね」と、少女は言う。
「君ほどじゃない」と少年は答える。
少女の乗っていた小船は、いかにも手作り感の溢れたチープ極まりないもので、とても長旅に耐えられるようなものじゃなかった。こんなガラクタでこの海を渡ろうだなんて、正気の沙汰じゃない。
「命が惜しくはないの?」
「惜しいわよ、もちろん。死んだら旅も出来ないもの」
「旅?」
「ええ、船旅をしているの。途中で漂流してしまったのだけれど、人の住む『島』に辿り着けたのは幸運だったわ」
「それは良かった。ついでに今すぐ、この『島』からも旅立ってもらえると助かる」
「嫌よ」
「なんでさ」
「あら、旅の醍醐味は交流でしょう? 他の島民の方はどこにいるのかしら」
「いないよ、他なんて」
少なくとも、今はもう。
「この『島』に残ったのは僕だけだ。他はみんな余所へ行ってしまった」
「それは、どうして?」
「西の海岸に、イトスギが生えていただろう?」
「気を失っていたから覚えてないわ」
「……ともかくイトスギが生えているのだけれど、でもあれは、元々海岸沿いに生えていたものじゃなかった」
もっと内陸の、磯から離れた位置に生えていた。ほんの数か月前までは。
「つまりこの『島』は、もうダメってことだ。あと一年もしないうちに、完全に沈む。だから他の『島』を目指して、みんな出ていった」
そう少年が言うと、少女はつまらなそうな息を漏らす。
「そう、どうでも良い話ね」
「君から聞いた話だろう?」
「聞いてないわ、そんな話」
「……あのさぁ」
「勘違いをしているわ。つまり私が聞きたかったのは、どうしてあなたはここに残ったのかということよ。一緒に他の『島』へ移ろうとは思わなかったの?」
「……さてね、考えもしなかったな」
「何かこの『島』に思い入れでも?」
「そんものはないよ。でも、この島にも一つくらいは良い所もある」
「それは、何?」
「西の海岸に、たまに空き瓶が流れ着く」
今も瓶を生産してる『島』なんてないだろうから、きっと、旧時代に投棄されたものだろう。それが悠久の時を経て、この『島』に流れ着いている。泣ける話だ。
*
聞くところによれば、少女は『青い鳥の島』から旅を続けているらしい。
「ロマンスよ」
と、少女は言う。
「旅は良い物よ。死地を乗り越える度に、生きているってことを実感するの。いずれ終わる命だもの、有意義に過ごしたいわ」
分からなくもない。でも、呑み込めない点もある。
「例えばもし、その過程で命を落とすことになったら? それでも本当に良いの?」
「良くはないわ。でも、本望よ。私は浪漫の果てに死ぬ。なんて素敵なのでしょう」
半分は同感だ。けれど、もう半分は理解が出来ない。
どうせ終わる命なら、というのは分かる。何も為せずに死ぬくらいなら何かの価値を刻みたい。結構なことだ。でもそれなら、どうしてわざわざ死に急ぐようなことをする? 命に意義を求めるのなら、どう死ぬかより、どう生きるべきかを考えるべきだろ。
「こんな辺境で死ぬことが、あなたの言う命の意義なの?」
決まってる。
「僕にとっては、当てのない放浪を続けるよりずっと価値のあることだ」
少女は、柔らかく口角を吊り上げる。
「ねぇあなた、私と友達になりましょう?」
本当に、意味が分からない。
「今の会話のどこに、そんな要素があったのかな」
「ふふ。だって私達、とっても似た者同士なんですもの。きっと一番の親友になれるわ」
「……どこが?」
「分からない? 私達は同類よ。向いている方向が違うだけで、同じ立ち位置に立っているの」
共に同じ疑問を、つまりは命の意義を求めて、でも、正反対の答えを出した。目指す場所は違ったけれど、考え方の、根本の部分は等しい。確かにある一点においては、似た者同士と言えるのかもしれない。
「でも、きっと君とは仲良くなれないよ。始点が同じでも、向かう先が違う。意見が合うとは思えない」
「だから良いんじゃない。イエスマンなんてつまらないわ」
「僕は、君の名前すら知らない」
その程度の仲だ。何かを分かったつもりになられても困る。
「そんなもの、これから知っていけば良いわ」
カナリアみたいな美しい声で、少女は名前を口にする。ありきたりな、でも彼女に似合った良い名前だった。
*
旅の果てに死ぬことが、少女の命の意義なのだろう。
納得は出来るが、共感は出来ない。そんな刹那的な享楽に、価値を見出すことなんで出来ない。
少年の思う命の意義は、もっと全く別のものだ。波打ち際の渚で空き瓶を集め、潮騒に合わせ歌を歌う。それが少年の生きる意味だ。
「氷解け去り葦は角ぐむ」
歌が好きなの? と少女は問いかける。少年は頷く。人類が滅んでも、世界が終わっても、その事実だけは欠片も否定されない。
「されど時ぞと思うあやにく」
モース硬度、という概念がある。物体の、傷付きやすさを示す指標だ。ガラスのモース硬度は五。ダイヤモンドは十。世界最硬の宝石は、規格化された空き瓶など容易く削り取ってしまう。
「今日も昨日も雪の空」
回転盤の上にくり抜いた瓶の底を載せ、指輪からくり抜いたダイヤモンドをあてがう。元々は祖母の結婚指輪だったものだ。十年ほど前、今際の際に譲ってもらった。
「今日も昨日も雪の空」
旧時代の遺物。メンロパークの魔術師の偉大なる発明。トーマス・エジソンの時代、当時は蠟管を用いていたのだという。
「これは?」
「――旧時代の人々は、これをレコードと呼んでいたらしい」
押し付けたダイヤモンドを取り外す。
現物を見たことはなかった。でも作り方だけは知っていた。旧時代を知る祖父が、幼い頃に教えてくれた。
「聞いてみる?」
録音の手間に比べれば、再生する側は楽なものだ。彫り上げた溝に沿って、鋭利な針を滑らせるだけで良い。再生に用いる回転盤は、録音に使用したものを流用できる。
「酷い音」
少女は笑う。
お手製の蓄音機なんてこんなものだ。ノイズだらけの不格好な酷い音。それはきっと人生とよく似ている。
「ZYPRESSEN、春のいちれつ」
少女は詩う。
「くろぐろと光素を吸ひ、その暗い脚並からは、天雪の稜さへひかるのに」
世界の終わりを告げる黙示録のラッパ吹きみたいに、高らかに、高らかに。
「――ねぇ、私、世界なんて滅んでも良いって思ってたの」
不意に、そう少女は告げる。
沈みかけの夕陽が、影を作りながら少女の横顔を照らす。
その表情は笑顔のように見えた。でも、本当の所は分からない。光の角度でそう見えただけなのかもしれない。
「過去形だ」
「ええ。私、あなたの歌声が好きよ」
それはまるで、告白みたいな。
「歌声も聞こえない世界なんて、当たり前に不幸だわ」
「僕もそう思うよ。でも、そうはならない」
ガラスは丈夫だ。適切に保管をすれば、何万年もの耐用年数を誇る。人類が滅ぼうと、世界が終わろうと、少年の生きた証は、いつまでも残り続ける。
「ZYPRESSEN、しづかにゆすれ、鳥はまた青空を截る」
少女の詩に合わせて、空は紅蓮に燃え盛る。天へと捧げた供物にように、イトスギの葉が妖しく揺れる。
「ZYPRESSEN、いよいよ黒く、雲の火花は降りそそぐ」
断絶された世界で、少女の声だけが、永久を告げるようにいつまでも鳴り響く。
*
少女が『白い波打ち際の島』を発ったのは、それから一月も経ってからのことだった。
その間に少年と少女は、たくさんの話をした。取るに足らないような話だ。例えば最良の歌声について。例えば理想的な夕陽の見え方について。他にも、たくさん。大抵はどこかで意見が割れて、その度に一日のため息の総量が一つ増えた。
「本当は、あなたにも着いて来て欲しかったのだけれど」
東の海岸へと舟を奔らせ、少女は笑いかける。
「でも、無理ね。あなたったら、私以上に強情なんですもの」
「大海へと漕ぎ出すより、ここで空き瓶を拾う方が、僕の性に合ってる。そういうことだ」
結局の所、そういうことなのだろう。
少年には少年の、少女には少女の領分があって、それらは軽々には交わることはない。少女の存在は純粋に好ましく思うが、それとこれとはまた別の話だ。
「なんだか、意外ね」
滑らかな笑顔で、少女は微笑む。
「何がさ」
なんて、本当は分かっていたけれど。
「だって柄じゃないでしょう? こんな湿っぽい見送りなんて、あなたらしくないわ」
やっぱり。だから、聞きたくなかったんだ。
「最後の送別くらい、柄じゃなくても良いだろ。折りの合わない友人だろうと、いなくなれば当たり前に寂しい」
こんな歯の浮いたセリフなんて、もう二度と言いたくもない。
「ふふ。それじゃあ、そろそろ行くことにするわ」
渚には、別れの気配が満ち溢れていた。
それは打ち寄せる白波のように寄せては引き、少年と少女を包み込む。
見送りなんて柄じゃないけれど、この空気だけはきっとここでしか味わえない。
「一つだけ、言い忘れていたことがあるの」
「何?」
「助けてくれてありがとうって。今までずっと言いそびれていたわ」
「僕の好きでやったことだ。礼に及ぶようなことじゃない」
「可愛い人。最後まで素直じゃないのね」
「本心だよ」
少女を助けたのは、最初から、少年自身の意志だ。
「僕は好きで君を助けて、君も好きでここに残った。それだけだろ」
「そうね。なら私も、最後まで好きにさせてもらうことにするわ」
そう言うと、少女は少年の頬を引き寄せて。
不意に、唐突に、キスをした。
「知ってた? 私、わりかし初めから、あなたのことが好きだったのよ」
じっと、汗が噴き出る。頬が紅潮しているのは、きっと太陽のせいだけじゃない。
「ねぇ、こういうのを一目惚れっていうのかしら?」
また一つ、ため息を付く。少女がこの『島』に来てから、もう何回目かも分からない。
「違うよ。一目惚れっていうのは、そういうんじゃない。必死になって助ける理由を探してみたり、別れの時まで素直な態度が取れなかったり、そういう不条理な感情を、一目惚れっていうんだ」
少年の方が少しだけ、その感情には詳しい。最後まで意地を張り通すことになっても、その一線だけは譲れない。
「変わらないのね」と、少女は言う。
「いや、変わったよ」と、少年は答える。素直ではなくても、出来る限り真摯な言葉で。
「少しだけ、生きることに前向きになった」
綺麗に死ねないのならば、せめて胸を張って生きたい。とても自然に、そう思う。
「さようなら。それから……えっと、元気で」
少年は何かを言いかけて、それから、思ったこととは別のことを口にする。この言葉はきっと、伝える必要のないものだ。
「さようなら。あなたも――」
それから少女が口にしたのは、少年と同じような、ありきたりな別れの言葉だった。
少年はずきりと痛む鼓動の音を聞き、そして、それがさして厭なものではないことに気付く。
それはダイヤモンドより一層輝く、胸に秘めた宝物だ。
「春と聞かねば知らでありしを」
水平線の彼方まで消えていく小舟を眺めながら、少年は歌う。
「聞けば急かるる胸の思いを」
波の音と歌声が、同じ音を立てて揺れる。
「いかにせよとのこの頃か」
少年はそっと、薬指の指輪を撫でた。
「いかにせよとのこの頃か」