第三章:2 材料の分量には気を付けましょう
「――というわけで、各班で実験を始めてください」
実験室の少し大きめの黒板に今日の実験の手順を書き、それを逐一説明し終えた化学の中村先生はそう言うと、今日の実験で使う化学物質が置かれた机のイスに腰掛けた。
にわかに騒がしくなる教室。この先生は方針で、実験を行う際は生徒各自の自主性を重んじるため自分は何も口出ししない、という事を唱えているので、これから実験終了までは各自自由に動ける為だ。
「さてさて。ではどうするかね」
俺らの班もその崇高なんだか怠惰なんだか分からないがとりあえず実験授業を生徒に一任するなよ的な方針に従い、材料を取りに行ったりする役割分担を決めようとする。
「とりあえず役職を決めないと話にならないな。という訳で、俺が総司令な。で桐垣に参謀を命ずる」
と、場を仕切ってくれる御原。こいつは戦国歴史関係の本に精通していて、こういった場面では自らが総司令という名の班長になってくれる為、俺みたいな状況に流されタイプの人間にはありがたい存在だ。でも何故か影が薄い。この事を本人は「俺はギャルゲでセリフはあるけど立ち絵とボイスなしのキャラみたいなもんだから」と言っている。
話を戻そう。
「ふ、任せろ」
御原の言葉に乗る桐垣。
「氷室は実験器具を取りに行ってくれ。ナトリウムとアルコール類は宮野に任せる」
続いて龍鵺と宮野に指示を出す。指示を受けた二人は了解し、それぞれの役割を果たしに行く。それを見送ると、御原は自分のノートを開いて実験手順を確認しだした。
「おーい御原、俺は?」
「お前には俺から指令を出そう」
と、一人なにも指令されなかった俺の隣に桐垣。
「矢城、お前には特別な役目を与える」
「特別な……役目?」
「ああ。あそこで退屈そうに小説を読んで弱授業放棄気味な中村先生からマグネシウム二百グラムをもらって来てくれ」
「え、いや……マグネシウムなんて今日は使わないんじゃ」
確か、今日の実験はアルコールとナトリウムの反応を観察する実験だった筈だ。ならマグネシウムなんて使う余地ないんじゃ……。
「くくく……だから言っているだろう? “特別な指令”だと」
「特別って言われても……いくらあの中村先生でも実験で使わない物質なんかくれないだろ?」
俺のその言葉を聞くと桐垣はニヤリと笑った。……俺の経験上、なんだかこの笑顔を見た後ってロクな事が起こらなかった気がするんだが。
「当たり前だ。教師とは生徒の安全を責任する義務がある。それを怠れば、その生徒だけではなく自分にまで火の粉が降りかかる。故にどんな教師であろうと普通ならば行き過ぎた行動はしないだろう。だが何事にも例外はあるという事だよ。善悪の是非はないとしてもな」
「ふぅん?」
なんだか最後の方はかなり皮肉な言葉だった気がするがこの際は聞き流す。
「そこで、今回はその例外に頼ることにする。……矢城。一度要望を言い、断られたら『枝先の木の実を供える』と言え」
…………え?
「……は?」
何? 木の実?
「『枝先の木の実を供える』、だ」
「……それになんの意味があるんだ?」
「通じる者には通じる。では頼んだぞ」
「あ、ああ……」
よく分からなかったがまぁ、頼まれた事だ。断る訳にもいかないか。
俺はそう思って、退屈そうに読書中の中村先生の元に向かった。
「なぁ桐垣」
「なんだ御原」
「今の言葉って、ローライズアーミーの合言葉じゃ……」
「ああそうだ。校内三大勢力の一角、子供の味方の親衛隊の合言葉だ」
「やっぱり……」
「なぜ分かった?」
「いやだって、『枝先の木の実を供える』って、来宮梢の事だろう?」
「ああそうだ。枝先とは梢、供物は神仏にするもの。神仏がいるのは神社や社、転じて宮。そして供えるのは木の実だ」
「……あれってもともとは彼女のファンの集まりみたいなもんだったらしいし……少し考えれば分かるだろう。ここに一年も通ってる人間なら」
「ところが分からない人間もいるのだよ」
「ああ、功司ね……。あいつは少し純粋すぎないか? 俺は将来、あいつが悪い商売に騙されそうで心配だよ」
「自分でやっておいてなんだが、俺もだ」
「だよなぁ……。それにしても結構ムリがないか、この合言葉。なんで木の実だけ当て字なんだか」
「まぁこういったものの合言葉なんて訳の分からんものの方が多いだろう」
「そういうものか」
「ああ」
さて、桐垣の名に従って中村先生が陣取っている机にまでやって来たが……
(声かけづらい……)
授業そっちのけで本を読み、ページをめくる度に表情をコロコロ変えている。こんなに楽しそうに読書している人に話しかけるのって、結構勇気いるよな。
(……なに読んでんだ?)
少し気になったが、先生が読んでいる文庫本にはカバーがかかっていて、どんな内容の本を読んでいるかは分からなかった。
「あの、中村先生?」
こんなところで時間を浪費している訳にもいかないので、意を決して話しかける。
「……ん、なんだ矢城」
俺の発声から二秒弱のタイムラグを要して反応する中村先生。しかし本から目は離さない。
「先生は見ての通り、なかなか忙しいんだが」
「いや本読んでるだけじゃん……」
と、思わず素でツッコミを入れてしまう。
「そんな事言うな。先生はなぁ、実は小説家になりたかったんだ」
「いや知りませんって」
なおも本から目を離さず、そんな昔の夢を語られてしまった。
「……本題に入ります。えーと、マグネシウム二百グラムを下さい」
俺は溜め息を一つ吐くと、単刀直入にそう頼んだ。
「はぁ? マグネシウム? 何に使うんだそんなもん」
「さぁ……」
そんな事は桐垣に聞いてくれ。俺はマグネシウムを貰ってくるよう頼まれただけなんだから。
「今日の実験で使わないし、用途も分からないのにそんな物渡せるか。いくら俺でも、そんな事すると上がうっさいから断る」
……まぁ、予想通りの正論が返ってくるわな。こんな怠惰な人でも、教師は教師だし。
(という事は、あの謎の言葉を使わないといけないのか……)
若干の抵抗はあったが、とりあえずその言葉を使ってみる事に。
「……『枝先の木の実を供える』……」
「!」
ガバッ、と。今までずっと本から目を離さなかった中村先生が顔を上げ、俺の顔を見る。
「矢城、お前……」
「…………」
いきなりの反応の変化に着いていけない俺は黙ったまま、先生の顔を見返した。
「……そうか、天命か……」
(……天命?)
「ならば持っていくといい。少し待っててくれ」
中村先生はそう言うと、本に栞を挟み、実験準備室の方へ。
「…………」
未だにこの豹変ぶりに着いていけない俺。ていうか何があの人を変えたんだ? 『枝先の木の実を供える』って一体……。
その謎について考えていると、準備室から中村先生が戻ってきた。
「ほい、これが約束のブツだ」
そう言って俺の手に渡されるマグネシウム二百グラム相当。
「あ、ありがとうございます」
「いやいや。お役目ご苦労さん」
「は、はぁ……」
中村先生はそう言うと、また読書に耽っていった。
「桐垣」
「おお戻ったか、矢城。どうやら任務も無事に果たせたようだな」
今しがた中村先生から受け取ったマグネシウムを手に、自分の班まで戻ると、既に実験は開始されていた。
「なぁ、さっきの言葉の意味って……」
マグネシウムを桐垣に渡しつつ、その事を尋ねると、
「世の中には色々あるのさ」
「色々って……」
とはぐらかされ
――スボォン!
いきなり爆発音。それもすぐ近くで。
「…………」
「…………」
驚きの余り開いた口がふさがらないまま音のした方を見る俺と、冷静に状況把握をしようと音のした方を見る桐垣。視線の先には――
「あー、やっべぇメタノールの量間違えちゃった」
「すまん、ナトリウムもかなり量が多かったようだ」
試験管を逆さまに持った龍鵺とマッチを持った御原。そして驚いて硬直中の宮野。
シーンとした教室の中、中村先生がページをめくる音だけがやけに大きく聞こえた。