3 研修医一年・五月
3 《研修医一年・五月》
一
ゴールデンウイーク中は、殆ど二人の休みが重ならなかった。 それでも倉真の整備工場は、飛び石出勤予定だった六日を休みに変え、月の隔週土曜休日をずらしてくれていた。
二日しかなかった筈の二人の休日が、四日に増えた。
「来月は、また元通りに戻るからな。 月末から月頭は、隔週休みにはならない筈だよ」
「それでも、嬉しい」
晩酌時間に寄り添って、利知未が本当に嬉しそうな笑顔を見せる。
「じゃ、予定変更して、チョット遠出も出来そうだね」
「どこか、予約取れるんじゃないか?」
「泊まりで出かけるって事?」
「それも良さそうだ」
「今月は厳しいな。 先月、送別会でお金、掛かったから」
「仕方ないな。 またの機会にするか」
「その代わり、石廊崎辺りまで、足、伸ばしてみる?」
「久し振りだ、そうするか」
「倉真、明日から五連休になるのか。 あたしは、三日間は仕事だ」
「夜勤か?」
「そう。 一応、明日の夜までは時間ある事になるけど。 その代わり六日の土曜日は、夜勤明けで何処にも行けなさそうだ」
「石廊崎は、二十、二十一日の方が良いな」
「そうだね。 今月から水曜日の午後だけ、外来も担当する事になったから、水曜が絡む勤務日は、夜勤にはならない筈」
「他の医者は、どうなってるんだ?」
手元にあった病棟の医師達のシフトを確認して、利知未が答える。
「曜日で外来決まってるから、それに合わせて夜勤シフトが入る感じだよ。 あたしも外来を週二日間とかで担当するようになったら、予定も組み易くなる筈だけど。 ポケベルも持たされてるからな。 来年当り、携帯電話になる予定だって」
「携帯、ね。 俺も持った方が良いのか?」
「最近、持ってない方が珍しいって言われる。 けど、お金、掛かるからな」
「医者の稼ぎなら、平気じゃないのか」
「倉真、将来の為の貯金、してる?」
「……アンマ、溜まってネーな」
「だよね。 尻に火が付かない限り、無駄な出費は避けたい所だし」
「来年、お前が病院から持たされるようになったら、一応は考えるか?」
「そうだね、楽にはなると思うよ。 ……成るべくなら、使わない様にしたいけど」
「仕事じゃ仕方ないだろ」
「その話は、その時が来てからで良いよ。 それまでは出来る限り、例え少しでも貯金して、将来に備えないとね」
「…だな」
医師に携帯を持たせる前に、病院内の、環境を整える必要がある。
電磁波による医療事故が、ここ数年で増えていた。 その関係で、後二年で世紀を超えようとするこの時期に、利知未達は、まだポケベル生活だ。
それはそれで構わないとは、思っている。 元々、長電話をする時間も無ければ、大半の用事はパソコンで足りていた。
明日から連休の倉真と、明日は夜勤入りの利知未だ。 その夜は何時もよりも長めに、晩酌時間を取っていた。
一時を回ってから、漸く寝室へ引っ込んだ。
軽くアプローチをする倉真を宥めて、大人しく眠ってもらった。 利知未は今、月の物が来ている。 避妊薬を使い始めて、月末の周期から少しずれて月頭の周期に変わっていた。
まだ、倉真は、利知未がピルを服用している事を、知らない。
連休中は、外来は受けない。救急で患者を受け付ける。
この三日間の夜勤は、外科病棟の、臨時体制に備えての物だ。勿論、救急のヘルプも、何時も通りである。
ここまでで利知未は、簡単なオペを執刀する機会が何度かあった。
盲腸患者も運ばれてくる。 軽い内は、痛みを散らす処置で終わる。 その他、心臓は循環器科があり、脳は脳外科の担当だ。 骨折や、胆石、その他、幾つかの処置は外科の仕事になる。 事故後の処置も勿論、大半が外科だ。
食中毒や、睡眠薬の異常摂取は、内科だ。 同じ理由でのリストカットは、外科の仕事。
今も時々、利知未は救急に来ないかと誘いを受ける。 誘われても、決定権は違う所にある。
今夜の夜勤相棒は、もう一人の独身外科医、藤澤だった。 笹原は、この三日間で最後の夜に同じになるだけだ。
二日間は、それでもいくらか、安心して仕事へ勤しむ事ができる。
本の少しの空き時間に、利知未が淹れた珈琲を飲みながら、書類整理などしていた。
「瀬川さんは、初オペが早かったね」
仕事をしながら、藤澤が言う。
「そうですね。 藤澤先生は、どの位で執刀されたんですか?」
「僕は、二ヵ月後、位だったかな? 丁度、今頃だったかもしれない。 連休で、はしゃいで羽目を外す若者が、必ず居るんだよ。 この時期は」
その話の途中で、救急からのヘルプ電話が入った。
「事故だそうです。 救急」
「言ってる傍から、だ。 行くか」
「はい」
白衣を羽織って、二人で薄暗い廊下を、小走りして行った。
その事故は、乗用車の対物事故だった。 かなりのスピードで、ガードレールへ突っ込んだらしい。 男女の四人で酒気帯び運転だった。
アルコールの所為で、血が中々、止まらなかった。 運び込まれた時、助手席にいた男性は、既に危険な状態だった。
利知未は医者として、救急で始めて、助けられない命に対面した。
明け方、仕事終わりに、ロッカールームで利知未は、静かに涙を流した。
「この仕事をして行けば、避けられない経験ではあるから。 ……余り、気を落とすなよ?」
藤澤は先輩医師として、肩を落とした利知未にそう声を掛けてくれた。
帰宅して倉真の顔を見て、ホッとした。
「何か、あったのか?」
「……ニュース、見た?」
「朝のニュースか? まだ、見てネーな」
「……一人、助けられなかった」
「……そうか。 ……風呂、入ってるよ」
「うん、ありがとう」
小さく頷いて、利知未は脱衣所へ向かった。
風呂を上がり、倉真が用意してくれた朝食を少しだけ口にして、利知未は、泥のように眠ってしまった。
夜勤三日目、五日の夜、笹原と時間が同じになる。
「辛い経験を、一つしたね。 どんなに頑張っても、避けられない事もある。 気を落とさず、心を強くもつんだよ」
そう言って、その夜は可笑しなアプローチもせずに、静かに仕事をさせてもらえた。 その点だけは、有り難かった。
七日の日曜は、のんびりと過ごした。 元気の無い利知未を心配し、倉真がタンデムシートへ乗せて、連れ出してくれた。
遠出はしないで、横浜の観光スポットを回る。 丁度、山下公園では、大道芸の大会が行われていた。
ジャグラーの技を見て、驚いて、漸く利知未に笑顔が戻る。 珍しくアイスなど買って、食べ歩いてみた。
バラ園の花の蕾が徐々に色付き、膨らみ始めていた。 五月中旬から六月に掛けて、その見頃を迎える準備をしている。
「船上ビアガーデンも、今年の夏頃には、行ってみたいな」
山下公園に泊まっている、船があった。
夏にはその船上で、毎年ビアガーデンが催されている。
「それも良いな。 お前と始めてデートらしくなったのは、もう三年前の、お前の誕生日だったよな」
「あの時、大学近くのビアホールに行ったよね」
「ああ、覚えてるか?」
「忘れる訳、無いよ。 ……ほら」
シャツの中から、真珠のネックレスを手繰り寄せて見せた。
「倉真も、今も持っててくれてるね」
タバコに火を着ける、そのジッポーは。 あの年、利知未が倉真に上げた、誕生日プレゼントだ。
「大地震が起こっても、コイツだけは持って逃げるよ」
「あたしも、これだけは持って逃げないと」
「勿論、お前も抱えて逃げるぜ?」
おどけた言葉に、利知未が笑った。 元気を取り戻したその笑顔に、倉真もいくらか気分が晴れた。
「じゃ、もう少し、ダイエットしておこうか?」
「益々、胸がなくなるぞ?」
「倉真、そう思ってたんだ」
「冗談だ」
「本気でしょ?」
「冗談だよ」
「いいよ。 その内、豊胸手術でもしてくるから」
「触り心地、変わっちまいそうだから、止めてくれ」
「スケベ」
「久し振りの褒め言葉だよ」
膨れた利知未を、引き寄せた。 肩を抱いて、海と船を眺めやる。
頭を倉真の肩に預けて、利知未も漸く、気分が落ち着いた。
翌日、病院に準一が来た。 外来から、利知未にバトンタッチされた。
「また、どっか痛いのか?」
「違う違う、健康診断。 オレ、一応、就職したから」
「そうなのか? おめでとう! 何の仕事だ?」
検査の準備をしながら、雑談になる。
「カメラマンの、弟子」
「カメラマン? カメラなんて、弄ったことあったか?」
「無いよ。 別の才能を買ってくれた」
「別の才能、ね。 兎に角、良かったよ。 樹絵には、会ってるのか?」
「連休中、引っ越したんだ。 新しい住所、利知未さんにも教えるよ」
「樹絵は、その部屋へ泊まったのか?」
「そう。 ついでに引越しの手伝い、して貰った」
「ちゃっかりしてるな」
「二人の、愛の巣だから」
「言ってろ」
笑ってしまう。 昔に戻ってしまっていた自分の態度と言葉に、軽く舌を出した。 ナースがチラリと、利知未を見ていた。
「じゃ、胸部検診から、回って下さい」
「了解」
準一は、検査へ回って行った。
午前中、早いうちの来院だった。 折角だったので、昼を病院の近所の店で一緒に済ませた。そこで、里真と宏治の、その後を聞いた。
「あの二人、別れたのか」
「そうらしいね。 樹絵が言ってた」
「何時頃の話だ?」
「今年の二月だったって。 最近、里真ちゃんが秋絵ちゃんに連絡をして来たらしい。 そこから樹絵に回って、オレに回った」
「そうか。 …ま、どうなるかなんて、誰にも判らない事だからな」
「今は、新しい恋人が居るらしいよ。 その内、結婚する事になるみたいだ。 その報告ついでの連絡だったらしいから」
「結婚、ね」
呟いて、自分達の事を考えた。 笹原からも、今もアプローチは続いている。
……倉真は、その気が、有るのだろうか?
それでも、研修医は終えてから、正勤医師として、せめて数年は働いていたいとも思う。
金を貯めるだけではなく、一つの悲しい経験を通して、利知未も改めて、自分の仕事に対する意識が変わり始めた所だ。
『人を助ける為の、資格はあるんだから……。 一人でも多くの人を、助けたい。 ……家族が亡くなるのは、本当に、悲しい事だから……』
裕一の事、和泉の妹・真澄の事。 そして由美と、ついこの前、目の前で息を引き取ってしまった、青年の事。
大叔母や大叔父は、確かに早めの死だったが、ある意味では、寿命を全うしての結果だ。
……人は生まれた瞬間から、死に向かって歩き始めているのだから。
けれど、若過ぎる死は、悲し過ぎる結末だと思う。
その日、壊れたバイクの修理状況を見たくて、卓也が整備工場へ顔を出す。
そこで、倉真は、知りたくなかった事実を、耳にしてしまった。
「バイクは予定通り、来週には直りますよ」
卓也は、この前、倉真が対応に出てから、何と無く話をしやすい客だ。
「そうですか、有難うございます。 修理費、引渡しの時で良いですか?」
「勿論、構いませんよ。 金額がデカイから、振込用紙も出せますけど?」
「現金、持って来ます。 ……それより、この前の話し、覚えてますか?」
「この前の話?」
「病院の、美人研修医」
「ああ。 覚えてますよ」
笑顔を見せながら、心の中では思う。
『その研修医が、俺の彼女だと知ったら、どんな顔、すんだろうな?』
一月近く経ってから、この話を引っ張り出してくるところを見ると、彼は随分、利知未に憧れているらしい。
「一寸、ショックなシーン、目撃しちゃったんですよね」
「ショックなシーン?」
「同じ病院に、三十代の外科医が居るんですけど、どうやら、深い関係みたいで」
倉真は目を丸くする。 どこからどうして、そんなガセネタを掴んで来たのだろう?
「この前の夜、デート中に二人のキスシーン、目撃しちゃって。 ……ショックだったなぁ。 彼女が居るから、本気ってつもりも無かったんだけど、少し憧れてたから」
信じられない思いで、倉真は自分の耳を疑う。
「…見間違いって事、ないっすか?」
「目の前、走って行ったの、確かに瀬川先生でしたよ。 僕、慌てて顔、隠しましたから」
「夜だったらしいし、他人の空似って事は、あるんじゃネーかな」
「あんなに背の高い美人、見間違えないと思いますよ。 相手も、同じ病院の医者だった訳だし」
倉真と利知未の関係は、勿論知らない。 この前、話していて、どうやら彼も以前、病院で見かけた美人外科医に、少しは憧れを持っていたのではないかと、勝手に想像していた。
同じファン精神を共有できる相手かも知れないと、思っていただけだ。
けれど倉真の態度を見て、少し考えてしまった。
『何か、もしかして、おれよりよっぽど彼女に憧れてたとか?』
それ位は、感じた。 倉真は、複雑な思いを抱えてしまう。
『……まさか、な』
昨日、利知未と出掛けた山下公園での、あの笑顔を思い出す。
昨夜は、月の物が終わった利知未を、思う存分、抱いてから眠った。
『在り得ネー』 そう、自分の気持ちを無理矢理、納得させて、卓也にバイクの修理状況を話して、見送った。
倉真と利知未の、連休までの間にも、笹原は、アプローチを続ける。
そろそろ、勘の良いナースの一部では、可笑しな噂が流れ出している。
卓也から、要らない情報を齎されてからの倉真は、少し様子が変り始めてしまった。
何時もと代わらない会話の中で、ふと何かを言いかけて、話を摩り替える。 今までの倉真には、無かった事だ。
笹原からのアプローチで疲れ始めた利知未の心に、倉真の態度が影を落とす。 気分が落ち込んで、どうしようも無くなった頃。
どうしても避けられないタイミングが、再びやって来てしまった。
仕事中は成るべく、二人きりになる事を避けていたのだが、やはり、それには限度があった。
二人は、同じ病院の外科医だ。
その時、利知未は、カルテの整理をしていた。 ここまでで自分が担当して処置を済ませ、無事、退院の運びとなった患者も、十人は超えた。
今後の勉強も兼ねて、患者のカルテを見ながら、症例や症状によって違う、回復までの経緯や、投薬の種類等、復習しなければならない事が多い。
少し前までは、他の医者が同じ部屋で、作業をしていた。 入れ違うように、笹原が部屋へ入った。 作業の途中で慌てて席を立つ事も出来なかった。
利知未は笹原に頼まれ、珈琲を淹れて出した。 その手を、笹原が確りと掴んで、離さない。
「この前の話し、どうだろう? 僕は、本気だ」
行き成り核心を突いて、切り出されてしまった。
「……手を、離して頂けませんか?」
「今の返事を、聞かせて貰えるかい?」
答えない限りこの手は離さないと、その表情が言っている。
「済みません。 時間を戴いても、私の気持ちは変わりません」
YESでも、NOでも。 取り敢えず、返事を聞けたら、良いだろうと考えていた。 その時の利知未の態度を見て、今後の対応を検討するつもりだ。
笹原は素直に、その手を開放した。
利知未は慌てて、その手を引っ込める。
「そうか。 もう少し、待つ必要がありそうだ。 済まなかったね」
怒りに似た感情が、利知未の心に沸き起こった。
声も出さずに向きを変え、早足で医局を出て行った。
二
医局を出て、喫煙所のある中庭へ向かった。 白衣の下、シャツのポケットには、一応タバコを常備している。 仕事中は忙しくて、吸う暇も余り無かった。
廊下で、薬局勤務の片岡 香と擦れ違った。 利知未の、病院での数少ない友人だ。
「瀬川先生、何時もの薬、出てます」
「有難うございます」
「手が空いたら、取りにいらして下さいね」
「…それなら、今から行きます」
用事を済ませて、薬局へ戻る途中だった香と、話しながら歩き出す。
「香さん、チョイ、時間ある?」
「今からなら、少しくらいは平気よ。 相談事?」
「…まぁ、そんな所」
「この書類、持って行ったら、利知未さんの薬出して、休憩ついでに少し付き合えるわよ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
業務連絡以外なら、小声で、何時も通りの会話になる。
病院で香と話す時は、何時も同じだ。 インターン時代からの友人である。 偶には仕事の後、居酒屋へ気楽な酒を飲みに出掛けていた、唯一の存在だ。
利知未よりも二歳年上の、お姉さんである。
薬局に着き、何時も通りに処方された避妊薬を受け取り、二人で中庭の喫煙所へ向かった。 病院内は喫煙所以外、医局でさえ禁煙だ。
近くに症状の軽い患者も数人居たが、中庭のベンチの、あちらこちらに散らばっている。 利知未は缶ジュースを二本買って、一本を香へ渡した。 空いているベンチへ腰を下ろし、タバコを取り出した。
利知未が話を切り出す前に、香が聞く。
「もしかして、笹原先生?」
「…どうして?」
図星をつかれて、目を丸くする。
「一部では、最近、噂の的になってる」
「一部?」
「彼を狙っていたナースや、興味は持っていたって言う、薬局、会計など等の、女性従業員達」
「……そー言うのって、判っちゃうもの?」
笹原も、周りの目は気にしていたと思う。 自分も勿論、気を付けていた。
「貴女より、彼の態度が問題ね。 ちょっとした仕草や会話で、耳ざといコや鋭いコは、直感するもの。 後は、視線? この前、貴女のことを彼が熱い眼差しで見つめていた、何て、誰かの一言が、火を着けちゃったみたい」
「……参ったな。 噂になる程とは、思っていなかった。 断ってるんだけどね」
「でしょうね。 私は、あなたの事情を知ってるから。 偶に噂してるところへ文句を言ってやりたい心境に駆られて、イライラしてるわよ」
産婦人科の滝川医師も、利知未の事情を知っている。 彼女も、その噂を聞く度に、眉を潜めているらしい。
「この前、若いナースが滝川先生に『他人の噂に振り回されないで、貴方達は貴方達の仕事に、集中しなさい』って、叱られた見たいよ」
「香さんの耳は、噂話の宝庫みたいだな」
「私も、そろそろお局様の部類ですから。 院内での細かい噂話は、入り易い位置に居るのよ。 ……詳しい話、夜にでも聞きましょうか?」
「佐助? そうだな。 今日、何時上がり?」
「何時も通りよ。 利知未さんは?」
「特に何も無ければ、遅くても六時には上がれると思うけど」
「じゃ、七時過ぎに佐助。 彼氏に連絡しておいてね?」
「そうする」
「笹原先生、昔からその手の噂、多い人なのよね。 気をつけた方が、いいと思うわよ」
「……気を付ける」
今まで以上に、注意しなければ、ならないかもしれない。
缶ジュースを飲みきり、利知未がタバコを吸い終わってから、ベンチから立ち上がる。 そのまま、其々の仕事へ戻って行った。
利知未は、長めの残業になってしまった。 仕事を終えてから自宅へ電話を掛けて、ふと思う。
『やっぱり携帯電話、お互いに持った方が、便利かもしれない』
今の状態では、留守番電話を聞いた倉真が、夕食の準備を自分でしてくれるか、どこかで済ませる事になる。
帰宅前に倉真が電話をすれば留守電メッセージも聞けるだろうが、帰宅してから聞いて、それから夕食の事を考えるのでは遅過ぎるだろう。
少し考えて、倉真の職場にも連絡を入れて見る事にした。
七時前の事で、倉真はギリギリまだ職場に居た。
「館川、電話だ」
「どーも」
「彼女か?」
保坂に言われて、相手が女である事を知る。
利知未は倉真の声を聞いて、始めに謝った。
「仕事場に連絡して、ごめん。 急に、香さんと飲みに行く事になったから。 夕飯、自分でやってくれるかな?」
一瞬、本当に香が相手かと、疑ってしまう。 それでも、職場である。
「判った。 ンじゃ、もうチョイ仕事してから、飯食って帰る」
「そうしてくれる? じゃ、邪魔してごめん。 仕事、頑張って」
利知未からの電話を切って、香が誰か思い出した。
『薬局のネーちゃんか? そー言や、利知未のダチだったな』
以前、あの病院に掛かった後で、利知未が言っていたのを思い出した。
本当に彼女が相手ならいいけどな。 そうも思った。
少し遅刻して、利知未が約束の居酒屋、佐助へ現れた。
詫びながら、カウンター席に座っている香の隣へ掛ける。 問われて直ぐに飲み物を注文した。 席に落ち着いてから、香が聞いた。
「本当に、ここで良かった?」
「これだけ賑やかなら、あたし達の話しに注目する人も、居ないんじゃないかな」
「それもそうね。 明日は、仕事?」
「明日は休み。 久し振りに倉真と、連休で同じに成ったよ」
「良かったじゃない」
「……うん、良かったのか、悪かったのか」
「彼氏との事でも、何かあるの?」
笹原の事だけかと思ったら、飛んだ副産物が付いて来た。 今夜は、じっくりと話を聞いてやろうと、香は思った。
早速、出された中生で軽く乾杯をして、口を付ける。 それから利知未がおもむろに言い出した。
「倉真、最近、ヘンなんだよね」
「ヘンって、どういう風に?」
「……なんか、今までのアイツらしくない感じが、偶にね」
何かを言いかけて、止めて、話を摩り替える。 倉真との会話の中で、そんなタイミングが増えている。
「今までのアイツは、言いたくない事、全く触れなかったから。 頭から外して話をする癖があるんだ。 それで真意が判らなかった事も、時々はあったんだけど。 何か、半端な隠し事、持たれてるみたいだ」
「隠し事、ね。 隠し事の一つや二つ、あるのは当たり前だとは思うけど」
「だから、半端な、隠し事。 隠すのなら徹底的に隠すよ、倉真は」
「そうなの?」
「うん。 前、誕生日の時もそうだった」
去年の、誕生日プレゼントを貰った時の事を話した。
「カッコイイ事、してくれるじゃない。 と言うより、可愛い?」
「……うん、あたしも、そう思った」
あの時の事は、いい思い出だ。 心から嬉しいと感じたのも、本当だ。
「だから、隠す事は徹底的。 それだから、まだアイツの家族の事も、殆ど知らないんだよね。 父親と折り合いが悪くて、中学時代から家出ばかりしていたのは知ってるけど。 その喧嘩の原因も聞いたこと無い。 家を飛び出した理由だって、詳しい事は知らない」
「そろそろ、知り合って何年?」
「そろそろ、十年近くなるのかな?」
「それは、中々、堂が往ってるわね」
「そう思う。 だから、ヘンなんだよ。 最近のアイツ」
「浮気、とか?」
「……それは、感じないな。 それよりも何か、あたしの事について思っている事が、あるのかも知れない」
話しながら、最近の不安も、ついでに聞いてもらった。
「それについては、倉真君が何も言い出さない限り、どうにもしようが無さそうね」
「だよね。 で、笹原先生の問題もあって、流石に疲れ始めた」
「その話だけど。 あの人、今までにも、お見合いの話や、恋人が居た事は勿論あるんだけど。 何故か、相手が結婚を本格的に言い出した途端、振っちゃってるのよ。 で、ナースの間では、高嶺の花と化してしまった」
その情報については、利知未は納得だ。 自分の将来にプラスにならない相手なら、始めから結婚するつもりなど、持ち合わせていなかったのだろう。
「それが、どうして最近、医者になったばかりの瀬川先生に、アタックし始めているのか? ちょっと、嫌なこと言ってる子も居るのよね」
「……何と無く、判る気がする。 あたしから彼を誘っているのではないか? とかじゃないのかな」
「当り。 事は、もっと深刻。 ……身体の関係、先行してるんじゃないか、とか」
そんな目で、見られ始めているのかと思う。
以前から仲の良いナース以外の目が、キツイ感じに見え始めていたのは、どうやら気の所為ではなかったらしい。
「つまり、あたしから彼を誘って、……狙ってるって事?」
「そう言うことかしら? だから、私はイライラするのよ」
「……避妊薬の話に、尾ひれが付いたかもね」
「それも実際、あると思うわ。 あなたがインターン時代から処方して貰ってるって話が、何処からとも無く、噂話として流れ始めちゃった見たいなのよね」
「つまり、実習医時代から、あたしは彼を狙っていて、身体の関係も有るのでは無いか? と言う事か」
「噂は噂として、それを広めているのが他でもない、彼の態度による物なのだから。 やっぱり、そこを何とかするのが、先決な気もするのよね」
「バカバカしい。 大体、いい大人が身体の関係持ったからって、結婚へ直結すると考えるのは、早計だよ」
「でも、今までアプローチし続けても、見向きもして貰えなかった子達からすると、その事自体がヘンな嫉妬の的になっても、不思議じゃないのは確かよね」
「言っておくけど、そんな事実は、全く無いよ」
「判ってるわよ。 利知未さんが、一人の人を想い始めたらかなり一途だって事も、貴女が面白半分に男を誘うタイプじゃないって事も」
「……だよね」
香には、倉真と同棲を始める前から、恋愛の悩みを聞き続けて来て貰っている。 判り切っている事だ。
「で、解決策何だけど」
「何か、いい案でもあるの?」
「貴女が、婚約までしている恋人が居るとしたら、噂を流している子達も、笹原先生も、何とか出来ないかしら?」
「そんな、簡単に行くかな」
「噂の面は、そこから誤解である事を流し直すことも可能よね」
「笹原先生は?」
「それ、いったい、いつからそんな大変な状況に陥っちゃったの?」
「……先月の、中頃から」
利知未は、あの夜の事を、始めて人に話した。
話を聞いて、香も今までの彼の事を納得した。
「随分、目を掛けられてる物ね。 でも、確かに、今年の研修医の中では、一番の注目株みたいよ? 貴女は」
「その元は?」
「初オペが早かった事と、その後の、塚田先生の処置。 それと、それ以降の、オペの経験数。任されてる患者の数」
「まだ、二十人居ないよ?」
「研修医、二ヵ月半でしょう? かなり、大事に育てられてると思うわよ」
「……そうなのか」
まだ、執刀は4、5回という所だ。 その他に先輩医師から預かっている患者を含めて、3月からここまでで、十六、七人という所だろうか。 無事、退院までの運びとなったのは、初めから自分が担当している患者では、四人。
後は、退院までの様子を見させて貰った、十人。 その十人は、一人で診ていた訳ではない。 先輩から支持を受けて、勉強をさせて貰っただけだ。
どれも、それ程、大変な症例という事は無かった。
「けど、どっち道、早計過ぎるのは変わらないよな。 あたしの何を見て、そう言うつもりに成ったんだ……?」
つい、ぼやいてしまう。 香が言った。
「光源氏計画?」
「じゃ、笹原先生が光源氏で、あたしが紫の上って事になるのか?」
「利知未さん、読んだことあった?」
「高校時代に、少し読まされた」
「学校で?」
「そんな所。 って、それは置いといて。 取り敢えず、恋人が居る事は言ってるんだから、知っているんだけどな」
「それくらいじゃ、効き目無いでしょう?」
「みたいだけど。 だからって、倉真の事、そう言う相手だって言うのも……」
「プロポーズは、されてないんだ」
「まだ、やっと大学、卒業したばかりだし。 ……その気、あるのかな?」
「現状が、どうだって言うのは、この際、無視。 その事、突っ込まれたんでしょう? 送別会の夜に」
「……そうだけど」
「じゃ、取り敢えず、やってみましょうよ。 小道具は、私が用意してあげる」
「小道具?」
「エンゲージリングくらい在った方が、信憑性あると思うわよ」
「貸してくれるの?」
「丁度良さそうなの、あったと思うのよね。 利知未さん、サイズいくつ?」
「右の薬指は、9号か10号で入るんだけど。 左は、買ったことない」
「じゃ、これ、してみて」
そう言って、自分の右の薬指から、リングを抜いて、利知未へ渡した。
「これは?」
「8号。 丁度、薬指サイズみたいね。 じゃ、病院にして来た事の無い指輪、月曜に持って来るわよ。 病院で受け渡すのは、危ないか」
「遅出だから、香さんの昼休みに合わせて、何時もの店に行こうか?」
「そうしましょう」
指輪を返して、もう暫く相談をした。
「早めに蹴りつけた方が、良さそうね」
「…来週、誘われてる」
「どーしても駄目なら、やっぱり投げ飛ばしちゃいなさいよ」
二人の酒は、焼酎の水割りに変わっていた。 香は、グラスの2/3ほど残っていた酒を、くいっと飲み干す。
「過激だね」
「そう? あんな女ったらし、それ位で丁度良いと思うわよ」
その言葉と雰囲気に、昔、何かあったのかも知れないと、何と無く思った。
明日は、早めに出掛ける予定だ。 時間を見て、十時には店を出た。
利知未からの電話の後、倉真は七時半まで残業をした。 それから偶に行くラーメン屋で、何時も通りの夕飯を済ませた。
店を出てバイクに跨って、気持ちが疼き始める。
卓也のバイクは修理を終えて、今週頭に引き取られていた。
『……あの話は』 本当に、本当の話なのか?
あれから、卓也が利知未と笹原を見かけた日を聞いて、倉真は、どきりとした。
『あの日は。 ……利知未が、送別会で遅くなった日だ』
その一週間前、何時も以上に積極的な利知未の様子に、少し驚いた夜。
卓也が目撃したと言う、送別会の夜の利知未は、沈み込みがちだった。 心配になり翌日、少し無理矢理、利知未を連れ出した。
『アン時は、元気を取り戻したよな。 次の日だ。 あの話を聞いたのは』
それから十日間。 倉真は何度か利知未に、あの夜の事を聞いてみようかと考えた。 …けれど、どうしても聞き切れなかった。
『疑ってるって訳じゃ、無いつもりなんだけどな』
それでも、不安はある。
ここ数ヶ月、利知未の様子が以前に比べて格段に女っぽく、可愛らしくなって来た。 それは、自分の事を愛していると、改めて言われたあの時。
利知未をタンデムシートへ乗せて、海の公園へ出掛けた、今年の三月。
翌日から利知未が、研修医として働き始めると言う十二日の言葉。
『あれが、今の利知未の様子に繋がる、出来事、だよな……?』
そう思う気持ちもある。 同時に、もしかしたら、自分よりも別に好い男が出来た所為かも知れないと、疑う気持ちも膨れ始めた。
今、倉真は、あの三月に出掛けたコースを、無意識に辿っていた。
利知未の帰宅は十時半頃だった。 その頃、倉真はまだ、海の公園に居る。
利知未が夜勤で、昼間眠っている時。 倉真の行動パターンは大体、決まっている。 外でバイクの整備に興じているか、バイクを走らせて、近場を走らせているかだ。 その場合は利知未が起きて見ると、まだ倉真は戻って居ない事も偶にはあった。
今夜、倉真がまだ帰宅していない事を知り、少しだけ不安を感じたが、何時もの事だと言えないことも無いかも知れない。
余り深く考えるのは止めにした。 今朝も早くに起きていた。 眠さも感じている。 利知未はシャワーを浴びて、取り敢えず寝室へ引っ込んだ。
眠い筈なのに、眠れなくて、何度か寝返りを打った。
利知未が、眠れない夜を過ごしている時間。 倉真は気持ちを落ち着けて、改めて帰路についていた。
夜の海を眺めて、あの日を思い出し、利知未の事を、信じようと決めた。
それでも一度沸き起こった疑惑は、中々、消える物ではない。 まだ、複雑な思いも残っている。 その部分を、心の隅へ押し込めた。
明日は、休みだ。 利知未と二人、思い出の石廊崎まで、出掛ける約束だ。
十二時を回る頃、漸く倉真が帰宅した。
眠れないで居た利知未は、玄関の物音を聞いて、ベッドを抜け出した。
三
利知未は、倉真の帰宅を迎えて、キッチンへ出る。
「お帰り」
「悪い、起こしたか?」
「ううん、眠れなかったから。 今日は、ごめんね」
「謝ることか? 偶には、息抜きも必要だろ」
言いながら、冷蔵庫からビールを取り出して、立ったままプルトップを引き上げた。 そのまま、ごくごくと美味そうに咽を鳴らす。
「何処まで行ってたの?」
「海の公園」
「あっちまで行ってたんだ。 ご飯は?」
「途中で、食って行ったよ」
答えながら、ダイニングチェアを引き出して腰掛け、タバコを取り出して火を着けた。 その様子は、何時もと変らないようにも見える。
「あたしも、もう少し飲み直そうかな」
利知未が言いながら、棚の中からウイスキーを取り出した。 ロックを用意し、倉真にも声を掛ける。
「倉真も、こっち飲む?」
「ロックで」
「了解」
二人分のロックを出す頃に、ビールは飲み切っていた。
「350ミリ缶とは言え、一気に行ったな」
利知未が、感心したように言う。 乾き物も少し用意した。 向かいに腰掛けて、グラスを軽く打ち合わせて乾杯をした。
「水と、大して変わらネーだろ」
「ま、倉真の肝臓じゃ、そうだろうね」
「人のこと、言えるか?」
「あたしも、言えないけど」
顔だけで、倉真が笑顔を見せる。 ……何かを、感じる。
『けど、倉真から言い出すまでは、何も言わない方が、イイよね……?』
そう思う事にして、不安を無理矢理、押し込めた。
「先月の話し、覚えてるか?」
「先月?」
「バイク事故。 酷く壊れてたバイクを、持ってきた客」
「そんな話、してたね」
「週頭に引き渡したよ。 かなり掛かったな。 中古一台買い直した方が、安いくらいだ」
「そこまで掛けて、直したい程のバイクだったんだ」
「ボディペイントが特殊でさ。 結構、格好良かったぜ。 美大の彼女の手製ペイントなんだと」
「それで、大切だったんだね」
「ああ。 けど、ペイント部分もかなり剥げてたからな。 これから、また彼女に描き直して貰うんだとか、言っていたな」
「成る程、そう言う愛着の持ち方も、ある訳だ」
「人それぞれって、事だな」
「だね」
ここまで話して、また、最近の悪い癖が、頭を擡げる。
「……面白いヤツでさ、お前、やっぱ、その人の検査、してる見たいだぞ」
「何か、言ってた?」
「外科の背の高い美人研修医、瀬川先生、って、名前まで覚えてた」
利知未が声を上げて笑う。 照れ臭そうな表情だった。
「美人研修医と、言ってくれてたんだ」
「ああ。 俺の彼女だって、言ってやろうかと一瞬思った」
「言わなかったの?」
「言える訳…、…無いよな」
また、違う言葉が出て来たと、利知未は内心では思う。 それでも気付かない振りをして、楽しそうに会話を続けた。
「そうか。 仕事中だもんね、言える訳、無いか」
「……そう言う事だ」
何かを思う雰囲気で、残りのロックを煽り飲む。 利知未は一瞬、心配そうな表情になる。
「明日、早くに出るんだよな」
「八時半には、出たい所だね」
「ンじゃ、シャワー浴びて、寝るか」
「…うん。 着替え、出しとくよ」
「頼む。 アンマ、飲み過ぎンなよ?」
「判ってる。 あたしも、もう一杯飲んだら、寝るよ」
「そうしろよ」
グラスを流しに出して、倉真が浴室へ向かった。 それを見送り、利知未は着替えを準備しに、リビングへ入った。
『……倉真の世話、焼いてる時間が、幸せなんだけどな』
出来れば、一生。 ……彼の世話を焼きながら、彼の子供を育てて。
そうして生きていければ、どれだけ、幸せだろうと考える。
『笹原先生は、あたしのパートナーじゃ、無い』
確信として、そう感じる。 彼の世話を焼きたいとも、彼の子供が欲しいとも、思える訳も無い。 ましてや、同じ夢を見て行くのなら……。
『病院で伸し上がる手伝いをするよりも、倉真の整備工場を、あたしも一緒に立ち上げて、育てて。 ……彼の城を守る夢を、倉真と見ていたい』
その為なら、医者も資金を稼ぐ手段として、利用する事だって出来ると思う。 確かに利知未のもう一つの思い。 一人でも多くの人を助けたいという考えも、利知未の夢だと言えるのかも知れない。
それでも、今の一番の夢は、……最愛の人と、幸せな家庭を。
ただ、その思いは、倉真が利知未を必要としてくれていると言って貰えなければ、ただの押し付けだ。 それが重くなってしまうのなら。
辛い、悲しい事だけど。 倉真の夢の、邪魔には成りたくは無い。
『……倉真。……貴方は、どう考えているの?』
着替えを、用意する手が止まる。
倉真の準備を終えて、再び、グラスに酒を注いだ。
倉真の、思い遣り深い所が好きだと思う。 感謝しているのかも知れない。 私自身の心が、解き解れるまで。 ……長い、長い年月を、優しい瞳で見つめ続けてくれて来た、彼。
『あたしの、弱さ、寂しさ、悲しみ……。 それらの物を見つけ、そっと取り出して、包み込んでくれた、あの温かさ……。 そして、心の強さ……』
倉真でなければ、きっと心底、信頼する事は、出来なかっただろう。 そう、感じている。
『だから、私は、倉真を愛している。 ……愛する事が出来る、唯一の存在』
利知未は、倉真には甘えてばかりいると、思っている。 そして倉真にも、時には女として、甘えて貰いたいと思っている。
『女として。 ……そう感じられるのは、やっぱり、倉真だけ』
それでも、不安はある。
『倉真は、あたしが男みたいにしていた頃からを見続けていて、多分、その中の女としての私を認めてくれた、数少ない存在。 だから……』
こうして、彼の前で、どんどん女に成って行く自分の事は、嫌いになって、しまわないだろうか……?
『以前のあたしには、思いも寄らなかった、不安……』
心が、グズグズに溶けてしまいそうになる。
利知未の目から、涙が零れ落ちた。
「……イヤだな。 こんな顔、倉真には、見せられないよ……」
涙を、手の甲で拭いながら、呟いていた。
シャワーを終え、脱衣所からキッチンへ出た倉真は、利知未の涙を、見つけてしまった。
「利知未、どうした? ……泣いているのか?」
その、涙を慌てて拭っている右手を、自分の左手で包み込んだ。 右手で利知未の右手のグラスを掴み上げ、そっとテーブルへ置いた。
正面から肩を優しく抱く様にしながら、利知未を立ち上がらせて、抱しめた。
「……何か、あったのか?」
「……何でも、ないよ。 本当に、何でもないの」
……貴方の事を想って、涙が零れ落ちたなんて、言えない。
「本当に?」
無言で、頷いた。
「そうか」
倉真はそう呟いて、そのまま、利知未の涙を受け止めてくれた。
涙を止めようと頑張っても、その涙は中々、止まってはくれなかった。
……自分に、戸惑った。
倉真を求める気持ちが、涙と同じで、止まらない。 少しは、少なくなって来てくれた涙をそのままに、唇を求めた。
倉真は応えた。 優しくキスをして、再び抱きつく、その先の求めにも……。
ベッドで、倉真の存在を強く感じて、利知未の不安が、瞬間だけ消えた。
身体を離すと、また不安が襲って来てしまった。
それでも利知未は、倉真の体温を感じて、波立つ心を抑え付け、束の間の眠りについた。
翌朝、早くに目を覚まして、朝食の準備を整えた。
利知未自身は、食欲がある訳も無い。 それでも倉真の腹は鳴っている筈だ。 朝から三杯飯を腹に収める倉真である。
準備を整えてから顔を洗い、気分を変えて倉真を起こした。
その日、予定通り出掛けた思い出の灯台で、肩を寄せ合い、静かな時を過ごした。
この前、ここへきた日は。 まだ、二人の関係は、微妙だった。
愛するという気持ちにも、初心は、あるのかも知れない。
あの時の利知未の仕草。 今日の、利知未の仕草。
あの時の、利知未の表情。 今日の、利知未の表情。
二人を包んでいる、雰囲気の違い。
それは、何より雄弁に、今の倉真の思いをも、語っている。
あの頃よりも、二人は大人になった。 利知未は、女らしく、また、綺麗になっている。
倉真は逞しく、その強さにも磨きが掛かり、いい男らしさも備えて来た。
心の中は、お互いの小さな疑惑と、倉真の誤解に、複雑な様相を見せている。
……それでも、初夏を迎える海は、さわやかな色彩と、涼やかな波の音を響かせている。
「海は、いいね。 ……大きくて、自分の悩みも、どんどん小さくなって行くみたいだよ」
頭を、倉真の肩へ凭れさせて、利知未が呟いた。
利知未の悩み。
それが何なのか、倉真には見えない。 昨夜の利知未の涙を、それを流させてしまった出来事が、自分に関する事だとは、思いも寄っていなかった。
「……そうだな」
短い倉真の返事を聞いて、利知未の心は、また少し、不安に捕らわれた。
四
翌日、日曜日は、何時もの二人の休日だった。
倉真は朝から、バイクを弄り始めてしまった。
『……俺も、駄目なヤツだな』
利知未を信じようと、決めた筈だった。
けれど、昨日のツーリングは、以前、同じ所へ出掛けた日に比べて、何と無く寂しい印象だけが、残ってしまっている。
二人、肩を寄せ合い、海を眺めながら、会話は余り無かった。
自分の情けなさを、痛感した。 気分がクサクサして、バイクに没頭して、忘れる事にした。
仕事中や、こうしてバイクを弄っている時には、利知未の事も、思い出さないで居られる。 仕事後、ふと気が抜けた瞬間に、また、考えてしまう。
一昨日も、そうだった。 それで、海の公園まで、バイクを走らせた。
嫌な思いを打ち消すように、一日、バイク整備へ没頭していた。
利知未は、倉真と遅めの朝食を取り、家事をこなしていた。
『……倉真の気持ちも、気になるけど』 それよりも、笹原だ。
借りに、倉真に結婚の意志がなかったとしても、だからと言って、笹原を愛する事は出来ないだろうと思う。
倉真との関係。 一緒に過ごしてきた年月。 彼の深い思い遣りと、優しさ。
……何よりも、心の反応。
今の利知未にとって、倉真以上の存在は、在り得ない。 唯一、対抗できる相手は、心の中にだけ生きる、兄・裕一かもしれない。
『笹原先生とは、あたしが休みの日の、昼間に会う事にしよう』
夜は、危険だ。 例え、食事に誘われても、この状況で、のこのこ出掛けて行く事は出来ない。 と言うよりは、したくない。
先ずは、一つ一つ、解決して行こうと思う。
翌日、月曜。
朝、倉真を送り出して、夕飯の準備を整えた。 冷蔵庫へ入れて、帰宅して、電子レンジを活用する。 利知未の遅出の時は、何時もそうしていた。
何時もよりも、一時間早くアパートを出て、香と約束の店へ向かった。 指輪を受け取り、一緒に昼食を済ませた。
夜、夜勤で出勤してきた笹原と、今週の約束をした。 笹原から、声を掛けて来た。
「瀬川さんは、二十五、二十六日が、休みだね」
「そうですね」
「食事の約束を、取り付けて置きたいと思ったんだが。 最近の君は、当日の誘いは受けてくれないからな」
やや、皮肉めいた言葉ではある。 倉真と同棲を始める前、インターン一年の頃には、当日の誘いでも、比較的、簡単に取れていた事を言っているのだろうと感じる。
「笹原先生は、通常出勤になっていますね。 ……昼食では、いけませんか?」
「君から、日時を指定してもらえるとは思えなかったよ。 この前の返事を、聞かせて貰いたいだけだ。 君の都合に合わせよう」
「では、二十五日、よろしいですか?」
頷く笹原に、店を指定して、挨拶をして帰宅した。
香から借りた指輪は、まだ見せては居ない。
その週、倉真の帰宅は遅かった。 利知未も遅出だ。 早く帰宅しても意味が無い。 ……それに、今は。
出来るだけ、余計なことに心を囚われる時間を、減らそうと努力している。 仕事は、好きな仕事だ。 一生の生業にする信念で、取り組んでいる事だ。
そこに意識を集中して、今まで以上に、仕事へ励む。 そうしている内に、時間が解決してくれる部分も、あるかも知れない。
社長は、来年三月で、倉真が入社して、二年になる事を思い出した。
『そろそろ、頃合か?』
来年、先ずは自動車整備士資格・三級に、挑戦させて見ようと考え始めた。 約一年の時間があれば、少しは勉強を進める事も、出来るだろうと考える。
休憩時間、倉真に声を掛けた。
「館川、そろそろ、勉強始めて置けよ」
「勉強?」
「整備士資格の勉強以外に、何があるんだ」
「受けさせて、貰えるっすか?」
「これからの、お前の勉強具合によるな」
「判りました! 有難うございます」
それなら、そこに集中する力に、精神力を注ぎ込むことが出来る。 渡りに船だ。 良いタイミングかも知れない。
早速、遅くまでやっている本屋に立ち寄り、テキストを購入して帰宅した。
利知未は今月に入ってから、毎週水曜日の午後だけ、外来を担当していた。 それに伴い、自分の担当患者も、増え始めた。
塚田医師に相談しながら、症例によっては、笹原や藤澤の担当日に回して、塚田に任せ切る程の難しい患者以外は、相談しながら、治療、処置を進める。 これからが、本格的な勉強と言えるかもしれない。
他科からオペの必要によって外科へ回される患者は、利知未へは基本的に、殆ど回って来ない。 その中でも軽い者だけは、担当に組み込まれるが、その場合、オペ後、症状が落ち着けば、元々の担当科へ治療が戻る。
暫らくは、この状態が続いて行くのだろうと思った。
水曜の仕事を終え、医局で、翌日の笹原との約束に、軽く溜息を付いた。
『……騙す事に、なるんだよな』
その後も笹原とは同じ病院の同じ科で、仕事仲間として付き合って行くことに成る。 何かの拍子に、ばれないとも限らない。
『あたしの人生、嘘や誤魔化しばっかりだ……』
……FOX時代から、ずっと。
お陰さまで、人を欺く為の度胸は、身に付いて来たかも知れない。
『あんまり、イイ事じゃないのは、確かだけど』
そう思って、また、溜息だ。 ゆっくりと業務を終え、医局を出た。
倉真は週頭から、夜、勉強時間を取るようになった。
毎日、遅くても七時半には帰宅し、利知未が用意してくれていた飯を食い、九時頃から先に、シャワーを済ませる。 今週に入ってから、のんびり湯船に浸かっていた試しは無い。
遅出の利知未が帰宅する頃には、テキストを開いていた。
とは言え、元々、教科書の類とは相性が悪い。 つい、ウトウトと居眠りをしてしまう。 はたと目を覚まして、少し涎が付いてしまっているテキストに、再び目を落とす。
利知未の働く病院は、夜勤で勤務に入る時間が九時だ。 一時間ほど遅出の医師と、顔を合わせる。預かり患者の症状などは、その一時間で交換する。
遅出の就業時間は、一応、十時になる。 必ず時間通りに帰宅できる保障も無い。 何か突発的な事が起これば、その時間に業務を終了する事は、出来なくなってしまう。
今夜も十一時過ぎに帰宅した利知未は、テキストに涎を垂らして、居眠りする倉真を、リビングに見つけた。
『……寝ちゃってる』
荷物を足元に置いて、一人掛けのソファに腰掛けて、テーブルに頬杖を突き、暫く倉真の寝顔を眺めてしまう。
『子供みたいな顔、してる』 つい、小さく笑みが漏れる。
ソファから下りて、床に腰を下ろして、頭をテーブルに置いた手の上に乗せ直して、静かに見つめていた。
『……どうして、倉真だったんだろう……?』
これほど愛する事が出来た相手が、昔はどうしようもなかった、不良少年だった事を思い返す。
『……あの頃は、本当に、思っても見なかった』
FOXの、少年ボーカリスト・セガワとして知り合って、十年。
あの、苦しかった日々も、あの頃、初めての恋人を得た、幸せな気持ちも。
『敬太とは、全然、似てないよな』
けれど、優しさは同じかも知れない。 ただ、その出し方が、二人は全然、違っている。
柔らかい綿花で、何時もそっと包み込んでくれていた様な、敬太の優しさ。 その眼差しだけで、感じる事が出来ていた。
空気のように、自分の周りに何時も必ず在ってくれる。 けれど、目には見えない倉真の優しさ。
100mを全力疾走して、酸素を求めた時に、始めて感じる有り難さ。
……普段は、そこにあるのが、当たり前過ぎて。
利知未の視線を感じて、倉真が目を覚ます。
「……あ? ああ、お疲れ」
「ただいま。 テキスト、涎だらけに成ってる」
「ヤベ、また、やっちまった」
手の甲で、涎を拭く。 その仕草に、利知未が小さく笑う。
「勉強、少しは進んだの?」
「進むと思うか? ……どうも、文字ってのは駄目だな」
「けど、それやら無いと、駄目なんでしょ?」
「そうなんだけどな。 結構、覚えることが多いよ。 社長は、良く見てるよ」
「来年の試験の為に、倉真にどれくらい勉強時間が必要か、考えてくれてたって事だね。 頑張って」
「おお。 飯、冷蔵庫だ」
「うん。 倉真、晩酌はまだしない?」
「もうチョイ、やってからな」
「眠っちゃわないでね。 ご飯食べて、お風呂入っちゃうよ」
「のんびり浸って来いよ」
「そーする」
荷物を何時もの場所へ片付けて、キッチンへ出て行った。
湯船に浸かって、色々な事を思っていた。
明日の会見に挑むための、心の準備が必要だ。
『……けど、兎に角』 笹原の事は、これで蹴りを着けてしまわないとならない。 心が、そろそろ悲鳴を上げ始めている。
『……上手く、いきます様に』
今だけ、神の存在を、信じていたいと思った。
翌日、笹原の昼休みに合わせて、病院から、本の少しだけ遠い店へ入る。
食事だけは、付き合った。 笹原の昼休み時間もある。 食後の珈琲を飲みながら、利知未から言い出した。
「あのお話ですが……」
指輪は、左手の薬指に、既に嵌めてある。 それを、そっと右手で撫でる。
「……余り、いい返事は、聞け無さそうだね」
利知未の左手には、注目していた。 それでも、何気ない様子を見せる。
「はい。 …お申し出は、やはり、お受けできません」
「どうしても、駄目だろうか?」
「彼が、プロポーズをしてくれました」
チラリと、偽のエンゲージリングを、笹原に見せた。
「……そうか。 失敗したな。 もう少し前に、僕から渡して置けば良かったよ」
「申し訳、ありません」
余計な言葉は、言わない方がいい。 嘘は、言葉を重ねる度に、真実の姿を曝け出すモノだ。
「……出会うのが、遅過ぎたようだ。 仕方が無い。 ……何時から、付き合っていたんだい?」
「一昨年、実習医として、病院に、お世話になる前には」
「飛んだ、独り相撲だった訳だね。 それでも直ぐには、君を諦めるのは難しいかもしれないな」
笹原は、珈琲に口をつけて、溜息をついた。
「僕を振ったのは、君が始めてだな……。 僕の気が変わらない内に、君がフリーになる様な事があれば、その時は遠慮しないでアタックさせて貰うよ」
心の中で、謝っていた。 ……それでも、倉真以外の人は、愛せない。
「そんな心配は無いと思いますが……。 心に、留めておきましょう」
「また、仕事では宜しく頼むよ」
「こちらこそ、ご指導、お願い致します」
キッチリと頭を下げる利知未を、少し恨めしい気分で、見詰めてしまった。
「……失礼するよ」
腕時計を見て、呟いた。 伝票を持って、先に席を立って行った。
笹原の姿が見えなくなるまで、利知未は静かに、珈琲を飲んでいた。
彼の姿が消えてから、そっと、指輪を外した。
『……本物の、エンゲージリング、欲しいな』
倉真からの。 ……それが今の、利知未の気持ちだ。
本音を言えば、物ではなくても構わない。 ただ、言葉が欲しいと思う。
もしも倉真が、先の結婚を匂わすような言葉を言ってくれたなら……。
『……自分から、プロポーズしちゃうのに』
安堵と、新しい嘘を作り出してしまった事実に、利知未は深い溜息を漏らした。
指輪を箱に仕舞い、ゆっくりと珈琲を飲み干した。
タバコを出し、一本だけ吸ってから、店を重い足取りで後にした。
五
残り僅かな五月は、特に何事もなく、平穏に過ぎて行った。
倉真の態度は少しだけ、元に戻った。 慣れない勉強に手を焼いている。 それが気を逸らわすのに、役立ってくれている。
五月最後の利知未の休日は、三十日・火曜日だった。 その前日、夜勤明けの月曜日。 その夜、倉真の勉強が終わるのを待って、晩酌時間を取った。
「今日は、摘みも豪華だな」
「昼間、暇だったからね。 色々、作ってみた」
「懐かしいな。 バッカスで、お前が作った摘みが多い」
「あれも、もう二年以上前か。 ……私達も、それ位だね」
二人が、特別な存在に、なってからの月日。
「始めの一年は、中々、会えなかったから」
「そうだったな」
「それでも、あの誕生日までは、我慢、出来てたんだよ」
「……俺は、正直、我慢するのも辛かったな」
飲みながら、あの頃からの思い出話を、二人で語り合った。
「…ごめんね」
「今更」
「そーだけど。 ……今は?」
「今は……」
ここ暫く忘れていた、あの疑惑が頭に掠めた。
「今は、こうして居られて、良かったと思ってるよ」
「……私も、一緒に住み始めて、良かったと思ってる」
倉真の雰囲気の変化を、敏感に察知した。
倉真が話を摩り替える前に、利知未は自分から、話を切り替えた。
「誕生日前の、五月。 丁度、今頃だったかな? 久し振りに、バッカスで倉真と会ったよね」
「そうだったな」
「あの時、宏治の手前、普通にしていたけど……。 カウンターの下で、倉真が手を握ってくれたでしょ?」
「そんな事も、あったな」
「……あの瞬間、凄く、幸せを感じたんだよ」
今、あの時の事を思い出して、どうなるものか? 最近の少しの擦れ違いが、埋まってくれるのだろうか……?
「宏治は、知らんふりしてたよな」
「して、くれてたんだよ。 宏治は、そう言うヤツ」
「だな」
利知未の、あのメンバー始めての弟分で、倉真の親友だ。 最近、その宏治にもお目に掛かっていない。
「今度、バッカス行こうか?」
「そうだな。 もうチョイ、俺の勉強癖が、ついてからにしてくれ」
「その方が、いいかもね」
倉真の言葉に、小さく笑う。 倉真は、本当に勉強、嫌いらしい。
「あの誕生日に倉真がくれた物、覚えてるよ。 それまで、色々な人達から貰ってきたプレゼントの中で、一番、嬉しかったプレゼント」
「アン時は、見つけられなかったんだよな」
「CD。 ……倉真に会いたくて、どうしようもない時には、良く聴いてた」
「そうだったのか」
「うん」
「あんな物で、そんなに喜んで貰えるとは、思わなかったよ」
「……数年分の想いが篭もった、最高のプレゼントだった。 ……あの夜の、倉真との時間も」
今日も身に着けていたネックレスを、無意識に弄る。
「…それも、俺からのプレゼントだな」
「そうだよ。 倉真から貰ったものは、どんな物でも、最高の贈り物。 モノでも、時間でも、言葉でも。 ……倉真のお陰で、今、私は頑張っていられる」
利知未に、綺麗な笑顔で見つめられて、倉真の気持ちが疼いた。
『……疑う気持ちは、まだ、晴れてはくれない』 自分に、嫌気が差す。
それでも、ここ数ヶ月の利知未の変化は、倉真にそれ程の不安を抱かせるのには、十分なモノだった。
利知未が、以前よりも女らしい雰囲気を見せてくれるようになった頃から、化粧らしき事も、し始めている。 それまで口紅も殆ど塗らなかった女が、眉を整え、口紅を塗り、髪も綺麗に整え始めた変化は、不安を感じるには十分だと思う。
倉真を意識するようになってから、彼の前では、少しは身嗜みにも気を使うようになって来ていた。
そうなるまでは、異性としての倉真を想い始めた気持ちを隠していたのだから、それまでの男っぽい仕草や雰囲気を、なるべく保ち続けようと努力もしていたのだ。
……心には逆らえなくて、その頃から、服装は変っていた。
今夜の利知未も、ワンピース姿だ。 化粧は流石にしていなかったが、髪を綺麗に整えて、仕草も、言葉も、飲み方も。 今まで以上に、女らしい。
「あの誕生日から、私の溜息が、増えちゃったんだよね」
「溜息?」
利知未の声で、物思いから気が逸れた。
「そう。 薬局の香さんと、お昼食べてて、言われちゃった事がある。 私の悩みは、恋愛の事が殆どでしょうって」
小首を傾げて、倉真の表情を見る。 ……何か、考えてたみたい。
「……倉真に会えない時間が、苦しくて、寂しくて、悲しかった頃」
口を開きかけて、何も言わない倉真の様子に、悲しげに目を伏せた。
「あの頃、倉真と行ったツーリングにも、思い出が一杯あるよ。 小田原城で、キリン見つけたでしょう? ビックリしたよね」
「そうだったな。 象も居たな」
「ね。 ……男に間違えられて、オカシな目で見られた事も、一杯あった」
「観光客の反応は、笑えたよな」
「笑うしか、なかったよね。 ……少しは、ショックだったんだけど」
「そうだったのか? 気にしてないかと思っていた」
少し意地悪におどけて、倉真が言った。 軽く剥れて、利知未が返す。
「酷いな。 ……温泉で、牛乳の匂い、買ったばかりの手拭につけて来たよね」
倉真も、その時の事を思い出した。
そう言えば、自分の浮気を疑われ始めたのは、あの時からだったと、初の大喧嘩の翌朝、利知未が言っていた。
「あの兄弟、今頃、二人とも小学生だな」
「その前のデートは、横浜の観光地巡りか。 あの女子大生も、すっかり、私のこと男だと思ってくれてたみたいだったよね」
「お前が、そう仕向けたんだろ? あの時は」
「そうだった。 ……ホームシック、掛かってた頃だと思う」
「ホームシック?」
「下宿の賑やかさが、懐かしくなってしまった頃。 倉真ともっと、豆に会う事が出来てたら、少しは、癒されてたかも知れない」
「あの頃は、お前も忙しかったからな」
「うん。 始めて病院で、実習医として働き始めた頃だったから。 色々、悩みもあったんだよ」
今思えば、あの頃から笹原は、自分を吟味していたらしい。
再び、軽く目を伏せた利知未の変化を、今度は倉真も気付いた。
「……その後のこと、覚えてるよ。 ……初めて、お前の部屋へ、上がった夜」
抱きながら、利知未が流していた、涙。
「…今日の服も、裕兄のお古だね」
「ああ。 丁度いいよ。 これ着てたら、勉強を助けてもらえるんじゃないかと、思ったんだよ。裕一さん、秀才だっただろう?」
倉真の言葉に、利知未が小さく笑ってくれた。
「弦担ぎって、事? そんな都合よく、行くかな」
「涎で、べとべとだな」
今日もテキストを開いたまま、少し居眠りをしてしまっていた。
「洗うしか、ないな。 本番も、お古、着て行く?」
「それまでに、着潰しちまいそうだな」
「一着、避けて置こうか?」
利知未の冗談に、倉真も小さく、笑ってくれた。
「……やっと、笑ってくれた」
「お前もな」
少しだけ、二人の距離が戻って、それから、思い出話を続けた。
「その後で、私は始めて、倉真の作ったご飯を食べさせて貰ったよ」
「居酒屋メニューな」
「魚、焼けるんだって、実は内心、感心してた。 酢の物も、樹絵が作るよりも上手だったよね」
「あと、冷凍コーンの、バターコーンか」
「味噌汁もあったでしょう。 倉真の実家は、これ位の味付けだったんだって、始めて知ったよ」
「……実家の事は、余り話して来なかったからな」
「……いいよ。 その内、話したくなったら、色々、聞かせてね?」
「ああ」
「サラダ。 私の好みに、合わせてくれたのかなって、思った」
「お前、ベジタリアンもどき、だったんだよな。 思い出して、慌てて作り足したんだよ」
「あの夜は、遅くなっちゃったんだよね」
「そうだったな」
その次の約束が、果たされなくなるとは、あの時には思っても見なかった。
「次の約束が、果たせなくて、二ヶ月振りに会った時、……倉真、玄関で行き成り、抱しめてくれたでしょう?」
「……今、思い出すと、チョイ恥ずかしいな」
「私は、嬉しかったよ」
その後の事も、思い出した。
「……まさか、あんな大喧嘩になるとは、思わなかったけど」
「あれが、ここへ越してくる、切っ掛けだったな」
「…うん。 だから、…偶には、浮気して貰っても、イイのかも知れない」
呟いてから、付け足した。
「言葉だけだからね? …本当は、凄く、イヤだよ」
「……判ってる」 ……お前は、最近、どうなんだ?
出掛かった言葉を、喉で止めて、押し込んだ。
翌年、二年参りへ行った時の事。 それから、部屋を探し始めた頃。
不動産の、気の良い青年との出会い。
越して来てからの、一年二ヶ月。
「今年、記念日に何もしなかったな」
利知未が思い出して、言い出した。
「記念日? 何のだ」
「二人で住み始めた日の、記念日」
「四月三日か。 今年は、月曜だったな」
「来年は、ちゃんとやろうね? 私の仕事が、夜勤明けか休みなら、いいんだけどな。 そうだったら、ご馳走、作ってあげるよ」
「来年の話か。 ……今から、楽しみにしておくよ」
答えながら、来年のその日、二人の関係が、どうなっているのか? 不安も覚えてしまった。
『……まただ。 ……倉真、最近、どうしたの?』
利知未も、不安を感じる。
「また、温泉にでも、泊りがけで行くことが出来ればいいな」
質問は、心の奥へ仕舞って、話を明るい方向へと、向け直した。
「そうだな」
今夜は、利知未から誘った。
「……ね、明日、早いよね? もう、寝ようか」
十一時半を回っている。 飲む時は、一時頃まで飲んでいる時もある。
早めに寝室へ引っ込んで。 倉真に抱かれて、少しだけ、不安を忘れた。
夜中、もう、明け方近い頃。
利知未はふと目を覚まして、隣の倉真の寝顔を見つめた。
身体の向きを変えて、うつ伏せになって、自分の腕の上へ頬を預けた。
『……やっぱり、倉真、昔の儘のあたしの方が、好いのかな……?』
最近の倉真。
勉強が大変で、態度は、前の倉真に戻って来てはいる。 その分、今夜のような、のんびりと酒を飲みながらゆっくりと話せる機会があると、隠れていたぎこちなさが、再び現れる。
倉真に嫌われないためなら、あの頃の自分に、戻る事も容易い。 ……少しは、心の葛藤が、あるかも知れないけれど。
ただ、今の利知未も、飾っていたり、偽りの姿を見せているつもりは、全くない。 昔から、恋人の前での利知未は、こんな感じだった。
「……ちゃんと、受け止めてくれるって、言ってくれたよね……?」
少しだけ、悲しい気分になって、呟いていた。
「……倉真の気持ち、信じて居たいよ……」
じっと、彼の寝顔を、見つめていた。
倉真は、良く眠っている。 何か、夢を見ているみたいだった。
「……利知未」
寝言を言って、利知未の体温を、探している。
「……ここに、居るよ?」
囁いて、その手を、そっと握り締めた。
夢の中で倉真は、一寸先も良く見えないような、濃い霧の中。
利知未の姿を探して、彷徨っていた。
遠くで、別の誰かと囁き交わしている、声だけが聞こえてくる。
「どこにいる? 利知未? 利知未……!」
そう、叫んでいた彼女の名前が、寝言となって、現れていた。
温かいぬくもりを左手に感じて、その手を、確りと握り締めた。
夢の中の倉真は、その手を引き寄せて、利知未の身体を、強く抱しめた。
「……何処にも、行くな。…この手を、離さないでくれ」
微かに頷く利知未の頭の動きを感じて、漸く、気持ちが落ち着いた。
夢の中でなら、素直に言える、倉真の本音。
夢の外の利知未には、その声は聞こえない。
「……倉真。 ずっと、傍に居てね……?」
囁く言葉は偶然にも、夢の中の彼の言葉に、答えていた。
二〇〇六年 九月七日(2008.4.5改定) 利知未シリーズ・番外1
研修医一年・三月から五月 貴方のために 了
お付き合い、ありがとうございます。 そしてお待たせ致しました。 続きのタイトルは、「二人で見る未来」 近日中に、アップ予定です。
個人的に仕事が変わってしまったり、色々な変化がありまして、自分の休日に更新をしていければと思いますが……。 早くに直して、出来れば週一くらいのペースで上げられればと思いますので、また宜しくお願い致します。
なお、文字数の関係で、連載扱いでの投稿となってしまいます。 後4作品も、この様な投稿形態となるかと思いますので、中篇くらいのつもりでご覧いただければ、幸いです。それでは、また。<(__)>