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         2  研修医一年・四月

    2 《研修医一年・四月》


             一


 四月に入り、利知未のシフトが正勤医師達と、殆ど変わりなくなった。

 五月までは、外来を見る訳でもない。 決まった曜日で、決まった時間、と言う勤務日も無く、今まで以上に、バラバラな感じだ。


 そんな中、笹原の利知未に対する態度が、少しずつ変わって来た。

 時間が合えば、夕食に誘う日も増え始めた。 なるべく断っては来たが、三度目の誘いで、食事に付き合う事になってしまった。

 何度か当日の誘いを断られた笹原は、作戦を変え、前日に誘ってみる事にした。 それで利知未も断り切れなくなってしまった。

 前日の内に、明日は会社の付き合いで遅くなると利知未から言われて、倉真は久し振りに、職場の先輩、保坂と飯を食いに行く事にした。


 最近、倉真の帰宅は、平均して夜七時半前だ。 利知未の仕事が終わるのが、通常勤務で、何事も無く終了する時は、五時から六時。 病院帰りに買い物を済ませて、帰宅して飯の準備が整うと、丁度良いタイミングで倉真の帰宅となる。

 夜勤や遅出の日は、その時々で、倉真も家事の協力をしてくれている。



 笹原が誘う店は、毎回、色々だ。 中華、フレンチ、イタリアン。 今回は和食の、今までよりも、高級そうな店へ入った。

「来週、婦長の送別会があるだろう? 幹事のナースにお勧めの店を聞かれて、ここを紹介しておいたんだ。 瀬川さんは、堅苦しい所は苦手だと言っていたからね。 一度、下見をしたいかと思ったんだよ」

「そうなんですか? 確かに、行き成りここへ来たら、ビックリしてしまったと思います。 有難うございます」

 全ての席が、大小、様々な個室で仕切られた、料理屋だった。 一番狭い部屋でも八畳はある。 最高で、十二畳の部屋を二部屋繋げて、二十四畳の和室になるらしい。

 料理も、豪華な懐石料理と言う感じだ。

『会費、高そうだな』 そう考えて、利知未は少々、構えてしまう。

来週の送別会は、その大部屋でやる事になるらしい。 一人、一万円以上は取られそうだ。  宴会料金は別で、少しは安くなっていると思いたい。


 その夜は、二人で約三万円のコースを、奢ってくれた。

「本当に、ご馳走になってしまって、宜しいのですか?」

「僕が誘ったんだ。 これでも研修医よりは稼いでいる。 家庭を持っている訳でもないんだから、小遣いには困っていないよ」

「済みません」

「それに、今日は、今まで君に断られた、三回分を一度に使うだけだよ」

日本酒も出てくる。 その酒も、随分と美味い酒だった。


 食事をしながらの会話で、今までと、笹原の様子が少し、違っている事に気付いた。

 何気なく自分の家族の話をしながら、利知未の生い立ちや家族の話を、上手に水を向けながら、少しずつ聞いていく。

「君のお母さんは、今もニューヨークに居るのか」

「はい。 数年に一度ほどしか、連絡もしていません」

「もしも、君が結婚をする事になっても、日本には戻っては来なさそうだね」

「そう思います」

「そうか」

 何か、考えている。 ふと笑顔を見せて、言い出した。

「僕も、家を継ぐつもりも無いんだけどね」

「ご長男ですか?」

「実家には弟夫婦が居るから、帰る家も無い。 それよりも、病院で上り詰めたいと思っている」

「…、野心家なんですね」

「ただ、そろそろ、パートナーを見つけないと、その夢を果たすのも、難しくなりそうだ」

「笹原先生なら、直ぐに見付かるんじゃないですか? ナースの間では一番人気だと、この前、入院していた友人が言っていましたよ」

「彼女達の人柄を言うつもりは無いが、先を考えた時、院内の力関係にも、影響を与えられる程の女性が必要だ」

「そうすると、院内有力者のお嬢さんが、良いのじゃないですか?」

「それでなければ、実力のある者が好ましい。 ……今、直ぐにどうと言う訳ではなくても、これから先、そう成り得るだけの、器の持ち主」

「それじゃ、中々、見付からなさそうですね」

「一人、注目をしている、医者の雛は居るんだけどな」

「私の同期か、一つ先輩ですか。 何方でしょうね」

 笑顔を見せて、誤魔化した。 雰囲気が、余り宜しくない。

「交わすのが、上手いな。 自分の事は、候補者には数えていないと言う事かい?」

「私が、ですか? …それは、無理が在り過ぎると思います」

「どうして」

「まだまだ、ひよっこです。 オペも一度しか経験しておりません。 実力を推し量るには、情報が少な過ぎると思います」

「けれど、インターン時代からの、君の成長振りは、この目で見て来ている」

「それだけです」

「それで十分だ。 僕はこれでも、情報分析能力には自信がある」

「尊敬します」

「尊敬は、愛情へ変る可能性が無いだろうか?」

「……人に、寄ります」

「そうか。 ゆっくり、時間を掛けさせて貰うとしよう」


 それ以上、突っ込んだ話しは出なかった。 最近、悩み事や判らない事は無いかと問われ、仕事の話をして、二時間の会見を終え、帰宅した。


 倉真は、今日も一時間半の残業だ。 それから、保坂を誘って、飯を食って帰った。 帰宅したのは、八時半頃だ。

 利知未が、まだ戻っていないのを見て、風呂を洗って湯を張った。

 準備を終え、時間を見る。九時になる所だ。

『先に風呂、入っちまうか』

つい、何時も通りに、タオルだけ持って浴室へ入る。

 入浴を終え、脱衣所へ出てから、着替えを出しておくのを、忘れていた事を知る。 失敗した。

「何時も、利知未が準備してくれてたからな」

 ぼやいて、タオルで水分を拭き取り、そのままリビングへ向かった。


 箪笥の中身さえ、何処に何があるのか判然としない。 上から順番に開けて行って、下から二段目に、自分の下着が整頓されているのを見つけた。

 タオル、バスタオル類は、また別の小さな引き出しに入っている。 それ位は分かっていたので、入浴前に、タオルだけは出す事が出来ていた。

『下から二段目って事は、一番下は……?』

 つい、興味が勝って、引き出しに手を掛ける。 恐らく、其処には。


「ただいま」

 玄関から利知未の声がして、慌てて、手を引っ込めた。

「おう、お疲れ」

 倉真の声がして、利知未が真っ直ぐにリビングへ入る。

「倉真? …って、風呂上り?」

「ああ、先に入っちまった。 これから、洗うよ」

「それは良いから、早くパンツ、履いてよね」

「悪い。 何時も、お前が出して置いてくれるからな。 うっかり、忘れちまったんだ」

目の前でパンツを履く倉真を見て、笑ってしまった。

「何処に入っているか、判ったんだ。 …もしかして、下の段、見た?」

「見てない、見てない! 上から順番に開けて行ったんだ」

「…本当?」

「本当だ、本当」

 慌てる倉真が面白かった。 ジトリと、意味ありげな視線を向けて見た。

「…ま、信じてあげるとしよう。 部屋着は、判った?」

「これで、良いんだろ?」

「上の二段が、倉真の部屋着と仕事着と、私服。 真ん中の三段が、あたしの」

「みたいだな。 で、クローゼットに一張羅な訳だ」

「そう言う事。 クローゼットの中の引き出しは、殆どあたしのが占めてるけど。 二人とも、服のサイズ大きいから。 チョット小さくなって来たよ。 最近着てないのとか、ボロボロなのは、今度の休みに整理しよう?」

「判った。 何時、一緒になるんだ?」

「明後日は、倉真、仕事だね。 明々後日の日曜かな」

「了解」

「今月は、その一日だけだな。 倉真、今日、ご飯どうしたの?」

 服を着ながら、倉真が答える。

「先輩と、食って来た」

「何、食べたの?」

「チャーハンと餃子と、ラーメン」

「じゃ、早く歯、磨いて来て……?」

軽くその腕を掴んで、服を着終わった倉真の頬にキスをする。

「晩酌、止めるか?」

「倉真は、晩酌したいよね? その間に、あたしはお風呂、入って来ちゃうよ」


 笹原からの初アプローチに、何と無く疲れていた。

 今直ぐに、倉真に抱いて貰いたいと思ってしまう。


 利知未の色っぽい雰囲気に、その気が有る事を見て取る。 言われた通り、利知未が風呂へ入っている内に、晩酌を済ませることにした。

 寝室には、十時前には、引っ込んだ。



 利知未から積極的だった。 倉真は、その求めに答えてくれた。

 二度、抱き合い、三度目を利知未が誘う。

「……何か、あったのか?」

「何にも、無いよ」

 問い掛ける倉真の唇を、自分の唇で塞いだ。

「……ただ、今夜は、凄く、倉真に、」

 もう一度、唇を重ねて、離す。

「……会いたかったの」

「帰ってくれば、必ず顔、合わせるだろ?」

「その時間が、凄く、長かったから……。 ね?」

「俺は、マダマダ足りないくらいだよ」


 自分の身体の上にあった、利知未の身体を支えて、向きを変えてしまう。

 その首筋に、利知未の腕が絡まる。 もう一度キスをして、囁いた。


「……今夜は、一杯、……抱いて」

「明日、起きれなくなっても知らネーぞ?」

「いいよ。 ……そしたら、バイクで行くから」


 それから、長い時間、抱き合った。

 漸く身体を離し、眠りについた時間は、深夜を回っていた。



 利知未は翌朝、それでも何時も通りに目が覚める。

 昨夜は、倉真に思う存分抱いて貰って、疲れに紛らせて、眠ってしまった。 それでも、良く眠れたのは二時間程度だ。

 倉真が少し、寝坊してしまった。


 利知未に起こされて、七時半に目を覚ます。

「悪い、寝過ごした」

「いいよ、今日はバイクで行くから。 ちゃんと、倉真の顔を見ながら、ご飯、食べたかったから」

「お前。 本当に、何にも無かったのか?」

「無いよ。 食事して、仕事の話して、帰って来た」

「そうか?」

「日本酒、飲んだけど」

笑顔を作って、話を変える。

「後、来週の土曜日、外科病棟の、婦長の送別会に参加しないとならないから、また、遅くなっちゃうよ」

「仕方ネーな。 久し振りに、アダムの飯でも食って来るか」

「そうして。 マスターに、よろしく」

「ああ」

 二人で朝食を済ませて、利知未は一足先に、バイクで病院へ向かった。

 何時もよりも、出掛けのキスが長くなってしまった。



 その日、倉真の働く整備工場へ、かなり酷く傷ついたバイクが持ち込まれた。 事故車両だ。 運転していた本人は、大した怪我もしていなかった。

 バイクを運んで来てから、精密検査だけして貰うからと言って、路線バスを利用して病院へ直行した。 軽く足を引き摺っていた。


 そのライダーが向かったのは、西横浜医科大学第二病院だった。 外来から利知未へバトンタッチされて、検査を引き受けた。

「外傷は大した事が無かった見たいですね。 一応、レントゲンだけ取ってみましょう。 あと、事故ですので、二、三の検査をして下さいね。 結果は来週、火曜日にはお知らせできます」


 若いライダーは、バトンタッチされてラッキーだったと思った。

 研修医らしいが、中々、美人な医者である。 背が高いのも、印象に残った。

『加奈子に、怒られるよな』  検査中も見惚れて、検査後、バスを待ちながら思う。

 彼の恋人は、少し焼き餅焼きだった。 美術大学の学生で、事故ったバイクのペイントは、彼女の手に成る物だ。 仲間内でも評判が良かった。

 思い出して、気になって、もう一度、バイクを預けた整備工場へ向かった。



 足に包帯を巻いて、昼頃に来たライダーが再び姿を現したのは、夕方六時過ぎだ。 工場自体は、夜八時頃まで客を受け入れる。 従業員が帰った後は、社長とその娘婿と二人だけで、急な客の対応は出来る。

 今日も、まだ従業員が居る時間帯だ。


「済みません、昼間のバイク、何とかなりそうですか?」

 ライダーの対応に出たのは、倉真だった。

「チョイ、酷いな。 新しくした方が、安いくらいだと思いますよ」

「修理、いくら掛かってもお願いします。 あれ、彼女がペイントしてくれたバイクで、大事なんです」

「部品、幾つか取り寄せになりますけど?」

「構いません」

「…そーだな、何とか頑張って見るか。 病院、どうでした?」

「美人外科医を見つけました」

 ポヤンとした表情を見て、その答えを聞いて、倉真はやや呆れ顔で、眉を上げる。

「怪我、大丈夫でしたか?」

 もう一度問い掛けて、ライダーが慌てて首を縦に振る。

「打撲と、捻挫だけで済みました。 貰い事故だったから、治療費は貰えるし。 一応、検査もやりましたけど、来週の火曜には結果、判るって」

「そりゃ、良かった。 何処の病院、行ったんすか?」

「西区の、医科大学第二病院です。 バス、あそこまで出てるから」

「で、美人外科医を見つけた訳だ」

 軽く吹き出しながら突っ込まれて、照れてしまった。

「済みません。 そんな事、聞かれてなかったですよね」

「いや。 もしかして、研修医かと思ったモンで」

「美人外科医ですか?」

 繋ぎの、左胸の名前の縫い取りを読んで、ライダーが続ける。

「館川さん、ご存知ですか?」

「チョイ、この前、風邪引いて行った病院が、そこだったんだ」

「背の高い、美人研修医、瀬川先生って言ったかな?」

名前を聞いて、利知未だと納得した。

女の話題で、気を許し合ってしまった。 つい、雑談が始まりそうになり、先輩から呼ばれてしまう。

「バイク、下手したら一ヶ月くらい掛かると思うけど、いいっすか?」

「良いです。 バイト料、入らないと、貯金じゃ足りなそうだし」

「来週頭に、見積もり出して置きます。 電話連絡で、構いませんか?」

「ファックス、送って下さい。 電話番号と同じです」

「判りました。 んじゃ、お大事に」

「はい。 修理、お願いします」

 ライダーに頷いて、倉真は仕事へ戻って行った。


 それから仕事に集中して、あの話題は頭の端に、追いやられてしまった。



 利知未は一日、笹原と顔を合わせないように、或いは、二人きりにならないように、気をつけて過ごした。 笹原が利知未を誘うのは、何時も、二人になったタイミングだ。

 余計な気を使って何時も以上に疲れて、夕方六時過ぎに帰宅した。


『倉真、昨日はラーメンだったって、言うからな』 今日は、サッパリした物の方が、良いかもしれないと思う。

 一品は、冷奴にしてしまった。 他に、鳥の手羽先を、酢を使って野菜と共に煮込んだ。

 味付けまで終わらせとろ火にして、ついダイニングチェアに掛けて、テーブルに突っ伏し、本の少し眠ってしまった。

 良い匂いに目が覚める。

「やば! 焦がした?!」

慌てて火を止め、煮物の蓋を開けて、中身を確かめた。

「焦げては、いないみたいだけど……。 煮汁、殆どなくなってる」

危ない所だったと、息を付いた。 顔を洗ってこようと、洗面所へ向かった。


『頬っぺたに、服の皺跡が着いてる』

 もう一度、溜息が出て来た。 顔を洗って、水が滴ったまま、鏡を見た。

『……今日は、特に何も無かったけど。 笹原先生、そう言う意味では、少し苦手なんだよな』

 視線は、何度も感じた。 それでも彼は、仕事中は周りの目を気にしており、積極的に目立った行動を起こすことも、無かった。

 暫く呆然としている内に、倉真が帰宅した音がする。

「お帰り」

水滴をタオルで拭き取り、洗面所から声を掛けながら、キッチンへと出た。


「ただいま。 珍しいな」

 まだ皿に盛られる前の料理を見て、倉真が少し驚く。

「今日は、遅かったのか?」

「そう言う訳じゃ、無いけど。 チョット疲れて、うたた寝しちゃったんだ。 煮物、焦がしちゃう所だったよ」

 微かな笑顔を作って、夕食準備の続きを始めた。

「手、洗ってきなよ?」

「ああ」

少し心配そうな顔を見せて、倉真が洗面所へと消えた。

 炊飯ジャーを開いて、飯が炊き上がっているのを確認した。 軽く切り混ぜて、二人分の食事をテーブルへ並べた。

「チョット、手抜きしちゃった。 ごめん」

「疲れた時まで、無理すんな。 惣菜、買って来ちまっても構わネーぜ?」

「倉真のご飯は、成るべく自分で作ってあげたいから」

「サンキュ」

 利知未の性格は分かっているつもりだ。 優しい笑顔を見せてくれた。

「食べよう?」 合掌して、夕食が始まった。


 お互いに食事中は、仕事の内容的な話しは余りしない。 職場仲間とくだらないお喋りをした事や、昼に何を食ったか? 次の休みは、どうしようか? そんな話をする。

「今月の休日は、箪笥の整理に当てちゃうから、来月だな。 ついでに、冬物と夏物、少し入れ替えちゃおう」

「そうだな」

「今年の倉真の誕生日は、夜勤の入り何だよね。 家出るのは八時半頃だから、ご飯だけは一緒に食べられるな。 それだけでも、良かった」

「再来週の水曜か。 成るべく残業、早くに上がってくるよ」

「うん。 本当は、一日ゆっくり、一緒に過ごしたい所だけど」

「仕方ないだろ、お互いに仕事じゃ」

「ごめんね」

「謝る事か?」

 倉真と話しながら、こうして食事を取る時間は、利知未にとって気持ちの休まる瞬間だ。 一日、大変だったことも忘れていられる。

「明日は、あたしが休みだ」

「ゆっくり身体、休めろよ? 朝飯、自分で食ってくから、のんびり寝ていて良いぞ」

「駄目。 ちゃんと、一緒に朝ご飯、食べるんだから」

「そうか」

「うん」


 雰囲気も言葉も声も、以前より随分、女らしく可愛くなってきた利知未を見て、倉真は最近、少し不安を感じ始めていた。

『今日の客も、利知未を美人だって言ってたしな。 病院で好い男でも、出来ちまったりしなけりゃ良いけどな』


「倉真? 何、考えてるの」

 声を掛けられて、気が戻る。

「ん、ああ。 今日の客、思い出した」

「変わった人だった?」

「お前の病院へ検査に行った筈だから、お前も会ってるんじゃないかと思ったんだよ」

「事故?」

「バイク事故だ。 貰い事故って言っていたな」

「検査、あたしが担当した人が何人かいたけど。 その内の誰かは多分、判らないな」

「多いのか? 検査しに来るヤツ」

「結構、いるよ。 事故後の検査も多いから」

「そうか」

 仕事絡みの話はここまでだ。 食事を終え、一息入れた。

「あ、お風呂、準備してなかった」

 利知未が、思い出して言う。

「俺がやるよ。 お前、少し休んでろ」

「ごめん、ありがとう」

「気にするな」

「晩酌の準備、しておくよ」

 それから、倉真が風呂の準備を終え、先に利知未に譲ってくれた。


 風呂を上がり、二人で晩酌をして、誕生日のメニューを相談した。

「倉真、何が食べたい?」

「何でも良いぞ?」

「好きな物は、カレーに丼物に、揚げ物か。 優兄と似てるな」

「優さんの好物は、何なんだ?」

「揚げ物。 から揚げも、天ぷらも、トンカツも。 カツ丼も好きなんだよな」

「……裕一さんは、何が好きだったんだ?」

「…裕兄は、酢豚が好きだった。 ばあちゃんの煮物も、美味しいって、沢山食べてたよ」

「そうか。 ……酢豚、食わせてくれよ?」

「パイナップル抜き?」

「それで頼む」

「誕生日に酢豚って、何か詰まらなくない?」

「お前の最愛の兄貴が好きだった物は、俺の好物になる」

「……倉真」

 涙が滲んで来てしまった。 身を捻るようにして、倉真を抱しめた。

「……悪い。 思い出させた」

「……ううん。 倉真がいるから、平気だよ」

 倉真に抱しめてもらい、利知未の涙が、ゆっくりと引っ込んだ。

「他には、何が好きだったんだ?」

「豚肉料理が、好きだったよ。 生姜焼きとか、ピカタとか」

「俺も好きだよ。 その内、色々作ってくれよ?」

「うん」


 ……倉真が、傍に居てくれれば、何時か裕兄の事も、笑いながら話せる日が来る。


 収まった涙に、利知未は、そう感じる事が出来た。



 翌日、利知未は朝、倉真と朝食を取った。 何時も通りキスで見送り、箪笥の整理を少しだけ始めた。

 裕一の形見の服は、倉真の引き出しに仕舞い直した。

『倉真が着潰してくれたら、他の服と一緒に……』  捨ててしまおうと、思った。

形見は服だけではなく、医学書だってある。 医学書は、捨てる事は出来ないだろう。

 思い出して、裕一の形見を一冊、本棚の奥から引っ張り出した。 手に取り、開きかけると、パラりと一つのページが開く。

「……これ、」

 白い羽が一枚、本の間から現れた。

『あの時の、倉真が拾った、白い羽。 ……裕兄の、羽』


 大学四年の冬。 二人の気持ちを、始めて伝え合ったあの日。


 部屋の片付けをそのままに、利知未はアパートを出る。 本をバイクのサイドバックへ入れて、裕一の眠る墓所へ進路を取った。



 瀬川家の墓は、明日香が月に二回、墓参りをし、綺麗に整えてくれていた。 変えたばかりの新しい顕花を見て、それを知る。

 本を墓前に開いて、頭を垂れた。

『裕兄の服。 全部、倉真に上げても、良いよね?』  代わりに着て貰って、ボロボロに成ったら、他の服と同じ様に処分をしようと思うと、報告をした。

『……多分、倉真はこれから、裕兄の変りに、ずっと、一生、あたしの傍に居て、守ってくれる人だから……』

「まだ、プロポーズもされて、居ないけどね」

 顔を上げ、小さく呟いて、微笑を浮かべる。

『もしも、痺れ切れちゃったら、あたしからプロポーズしちゃうよ』 ……きっと。


 女らしい笑顔の利知未に、裕一が、微笑んでくれた気がした。



 日曜日、倉真に裕一のお下がりを、着潰してくれるように頼んだ。

 倉真は頷いて、全ての服を受け取ってくれた。




              二


 十五日・土曜日。

男性・一万二千円、女性・一万円の会費を払った、豪華な婦長送別会が、例の店で行われた。

その日、笹原の参加は二次会からだった。 その事に、利知未は少しだけ安心した。 二次会はパスしても、問題ないだろうと考えた。


 別の意味で最近、利知未は病棟ナースの人気者だ。 実習医時代から仕事を共にして来た仲間だ。 歳の近いナースとは色々、情報交換もする。 仕事の事だけではなく、最近人気のスポットや、料理の美味しい店、この春夏、流行のファッション。 何人かに、朝美の働いている店も教えてやった。

 医師は、男性ばかりだ。 仕事の合い間や後の時間、束の間のお喋りは、やはり若い女同士、ナースとの方が楽しい。

 送別会のこの日、夜勤者以外は全員が参加した。 何時ものお喋り相手も何人か一緒だ。 始めから、ナースと医師の間に利知未を呼んでくれた。 酒が進むと、医師との話の切れ目に女同士で会話が始まる。

 二時間、和やかに過ぎた。 記念品と花束が婦長に渡され、十時にはお開きとなる。


 二次会をパスしようと考えていたが、仲の良いナースに誘われ、結局、顔だけは出す事に成ってしまった。


 二次会の店まで予約済みだった。 駅前のスナックで、独身ナースが全員、残った。 勿論、ここから参加の、笹原目当てが半数を占める。

 利知未と特に仲の良いナースは、そう言う気も無いらしかった。 大部屋患者から恐れられている梅野も、その気配は見せない。

 梅野は今夜、夜勤だった。 彼女は今年の四月から主任職に就いている。 未来の婦長候補だった。 今夜、送られる婦長からも期待はされている。

「ただ、梅野さんは力を抜く事を厭うから。 仕事はそうであって当然ですが……。 ナースの中でも、賛否両論なのが気になる所ね」

 と、何時か、次を引き継いでくれるナースに溢していたらしい。


 二次会が始まり、直ぐに笹原が現れた。 婦長に挨拶をして、塚田医師と酒を飲みながら、話をする。 利知未の事は、今は構わないで居てくれた。

 更に一時間ほど経ち、利知未と仲の良いナースが出来上がってしまった。 具合が悪くなった彼女を送るからと断って、利知未も席を立つ。

 婦長と先輩医師に挨拶をして、店を出ようとした。

「夜中の街は、危険だよ。 僕も通りまで送って行こう」

 そう、笹原が言う。 近くで酒を飲んでいたナースが、笹原に言う。

「流石、お優しいですね」

「送るだけだよ。 彼女をタクシーに乗せたら、戻るよ」

 塚田に会釈をして、利知未たちの後に続いて、店を出た。


 酔い潰れた友人をタクシーに乗せて、利知未は息を付く。

「瀬川さんは、このまま帰るのか?」

「そのつもりです。 お先に失礼します」

「少し、酔い冷ましに付き合ってくれないか?」

「皆さんが、お待ちでは有りませんか?」

「今夜の主役は婦長だ。 時間はそれ程、取らせないよ」

言われて、断り切れなくて、近くの公園へ向かった。

 ここまでの一週間で、笹原は時々チャンスを見ては、利知未にモーションを掛け始めていた。


 公園へ向かう二人の影を、見かけた者が居る。

 先週、倉真の働く整備工場へ、事故車両を運んで来た青年だ。 土曜の夜で、恋人と二人だった。 後を付けるつもりも無く、彼女と自然に、同じ公園へと腕を組んで向かっていた。

 笹原にも勿論、見覚えがある。 外来で彼に検査結果を知らせたのは、他でもない笹原だった。笹原と利知未は、身長差が余り無い。 2、3センチ程だろうか? 彼女に腕を引っ張られながら、前を歩く二人の影を、無意識に視線で追いかけていた。


 ベンチに腰掛けた二人を見て、何と無く、自分も手近なベンチへ腰を下ろした。

「卓也、どうしたの? 酔っ払った?」

「チョット休憩」

「年寄り臭―い」

「何時もバイクだから、歩くのは疲れる」

「バイクの方が、疲れそうだけど」

言いながら、彼女も彼の隣へ腰を下ろす。 取り敢えずその肩を抱いて、頭を自分の肩へと預けさせて、少し先のベンチへ掛ける二人の様子を、何気なく観察していた。



 笹原は、利知未タイプに遠回しな誘いだけでは、無理だろうと踏んでいた。

 この夜、いいチャンスが訪れたと思っていた。 酒の勢いに任せた振りをして、利知未へ、決定的なアプローチを仕掛けようと計算している。

「瀬川さんは、酒に強いようだね。 食事を誘った時から思っていたけど」

「そうですね。 昔から、良く言われています」

「僕は、普段はそれ程、飲まないのだけどな。 今夜は、少し飲み過ぎた様だ」

「頭、少し冷やしますか? ハンカチ、濡らして来ます」

逃げ口上だ。 立ち上がり、水道へ向かう利知未の腕を掴んで、引き寄せた。


 そのまま唇を奪ってしまった。 身動ぎをする利知未を押さえ込む。

『……投げ飛ばしたい、所だけど』 流石に、先輩外科医相手に怪我でもさせたら、大変な事になる。

 笹原は唇を離して、そのまま利知未を抱すくめてしまった。



 その様子を、青年ライダー・卓也は目撃してしまった。

「うわ、マジかよ?」

小さな呟きを、加奈子は聞き逃さない。

「何? 知り合い? ……チョット、あんまりジロジロ見ないの!」

彼女に腕を抓られて、小さく悲鳴を上げた。


「結婚を前提に、どうだろう?」

「……」

 抱すくめられたまま、何も返せない。

「勢いだけで言っているのじゃない。 君は聡明だ。 そして、優秀だ。 その聡明さで、将来の僕を支えてもらいたいと、本気で考えている」

「……判断、早過ぎます。 買い被りです。 それに、……ごめんなさい。 何度、言われたとしても無理です」

「誰か他に、付き合っている相手が居るのかい?」

利知未は無言で頷いた。

 どうしてもっと早くに、倉真の事を、言わなかったのかと、後悔をした。

 笹原が、力を緩めて言う。

「そうか。 その彼は、君との将来を、どう考えているのだろうね?」

「……それは、」

「まだ、そう言う相手では無いという事か。 それならまだ、僕にも付け入れる隙はあるだろう。 直ぐにとは言わない。 じっくりと、考えてみてくれないか?」

 笹原の腕から逃れて、利知未は慌てて走り去った。


 目の前を走り去る利知未に見付からないように、卓也は彼女とキスをして、やり過ごした。



 駅まで走り、息を付く。 呼吸を整えて、構内を通り抜けて、駅向こうへと出た。 利知未たちのアパートは、病院と、駅を挟んで南北の位置関係だ。

 構内を抜けてから、呆然と歩いた。 唇がむず痒くなってきて、自動販売機を探す。 ペットボトルのミネラルウォーターを買って、道の隅で嗽をした。


「……倉真」 壁に手をついて、力が抜ける。 小さく、呟いていた。

 残りの水を道に捨て、歩き出す。

 空のボトルは、途中の自販横に設置されている、ゴミ箱へ捨てた。

 段々と、早足になり、気付くと、小走りしていた。



 倉真はその日、夕方から久し振りに、アダムへ行って見た。

 マスターは、相変わらずの笑顔で倉真を迎えてくれた。

「暫く振りだな。 利知未は、元気にしているか?」

「久し振りっす。 利知未は、最近チョイ疲れているみたいだな」

「そうか。 仕事に慣れるまで、大変なんだろう。 今日は、どうした?」

「職場の付き合いで、送別会があるって。 飯、食わせて下さい」

「昔通りで、良いのか?」

「頼んます」

「畏まりました」

 笑顔で頷いて、ディナーディッシュ・Aと、伝票へ記入する。

「珈琲は、どうする?」

「…野良猫で」

少し考えて、愛称で注文をした。 飯の前に、珈琲が出る。

「これ、淹れ方は誰が淹れても、同じ筈なんだよな」

「その筈だが?」

「……利知未の味と、マスターの味は、少し違う感じがする」

「愛情の差、じゃないのか? 利知未が淹れた方が、お前には美味いんだろう」

「利知未の味は、優しい気がする。 マスターの味は、燻し銀って感じだな」

「人柄の差か? いい所、ついていると思うぞ。 今度は、別所の味とも比べるか」

「ンじゃ、昼間来ないと成らないな。 仕事だし、無理そうだ」

「日曜は、昼間に居るぞ。 今度、利知未と遊びに来い」

「来月まで無理そうだ」

「休みは、中々、合わないのか」

「今月は、先週の日曜だけだったな」

「そうか。 色々、大変だな」

「まぁ、アイツには、世話かけっぱなしっす」

「利知未は、イイ嫁さんになると思うぞ」

「……俺も、そう思います」

「精々、惚気て行ってくれ。 ディナーディッシュ・A、お待たせ致しました」

 出来立ての、懐かしの味を、マスターが出してくれた。


 五時半頃に入り、七時には店を出た。 ここからバイクで三十分だ。

 帰ったら、風呂の準備をして置いてやろうと思った。



 利知未の帰宅は遅かった。 十二時を過ぎて、静かに玄関のドアが開く。

「帰ったか?」

「倉真。 起きてて、くれたんだ……」

それだけで、心の底から嬉しいと感じる。

 出迎えてくれた倉真に、くたびれ果てた身体を預けて、抱きついた。

「どうした?」

「……何でもない。 チョット、飲み過ぎただけだよ」

肩を抱いて、身を支えるようにしながら、キッチンへ入る。

 ダイニングチェアを引いて、利知未を座らせてやった。 水を汲んで出してくれる。

「ありがと。……倉真、優しい」

 呟いた利知未に、何と無く、気持ちのざわめきを覚えた。

「飲み直すか?」

 水を飲んで、利知未が言う。

「お酒は、もうイイや。 シャワー、浴びてくる」

「風呂、入ってるぞ。 沸かし直すか?」

「そうだね、明日も仕事だし、のんびり浸かって、身体、休めるよ」

「そうしろ」

 追い炊きのスイッチを、倉真が入れてくれた。



 翌朝、利知未は仕事へ出掛ける。

「今日は、五時には上がれる筈だから、ちゃんとご飯、作っておくね」

「お前、マジ平気か? 無理しなくて良いぞ」

「大丈夫。 倉真が何時も、協力してくれてるからね。 今日も洗濯物、頼むね?」

「ああ」

「じゃ、行ってくる」

 キスをして、一度離れかけて、もう一度キスをした。

 倉真の首筋に腕を絡める。

 唇を離して、抱きついた姿勢のまま、利知未が囁いた。

「……本当は、一緒に過ごす時間、もっと欲しいよ」

腕を放して身体を離し、向きを変えて、玄関へ向かう。

 その利知未を見て、倉真は昨夜の気持ちのざわめきを、思い出した。



 十七日、十八日の休日を、利知未は心の底から、のんびりと過ごした。

 病院に行けば、笹原と顔を合わせる機会を、成るべく少なくしようと、変に気を使う。 それでも彼は、隙を見ては利知未に誘いを掛ける。

 他の医者や、ナース、患者達の前では、勤めて今まで通りの態度を貫く。 その点、笹原はしたたかだった。


 翌日、利知未は夜勤だ。 倉真を送り出し、昼間、家事を終え、仮眠を取る。

 今日は、倉真の誕生日だ。 約束通り、パイナップル抜きの酢豚を作った。

「今日が休みだったら、良かったのに」

急いで帰宅した倉真と、夕食を共にする。

「少しは、元気出たのか?」

「約三日間、のんびりさせて貰ったからね。 来月の予定でたら、休日の相談しよう?」

「ああ。 久し振りに、ツーリングも良いかもしれないな」

「うん」

 笑顔で頷いて、今年のプレゼントを渡す。

「靴、そろそろ、ボロボロだったから。 今年は、これで良い?」

「助かる」

「じゃ、もう行かないと」

キスを交わして、玄関へ向かった。


 アパートを出てから、憂鬱が復活する。

『今日は、笹原先生と時間、合わなかった筈だよね。……良かった』

 少しだけホッとして、歩き出した。



 ふと、最近の自分自身を振り返った。 倉真の前で、女らしくしていようと決めてから、随分、変わって来たと、自分でも思う。

 その変化が、余計な恋愛ごとを、生み出しているのかもしれない。

『もう少し、昔の自分、出した方が良いのかな……?』

 病院では羽目を外さない程度に、態度を改めた方が、良いのかも知れないと思った。



 月末、五月のシフトを渡された。

 来月は、二人一緒の休日が、二日はあった。 それでも足りないとは思う。 不満を抑えて、早速、休日の予定を話し合った。



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