8 違う、これは武者震い。
ジン・フロストの胃袋をつかむためには料理が作れなくてはいけない。
ポムピンは人が作ったものをあたかも自分が作ったかのように装って渡す手もあると言っていたけれど、私はどうせならば料理が作れるようになりたい。
できないならば、できるようになればいいのだ。
それに私はなんでも自分で習得しなければ気が済まない性格でもある。
「というわけで、私はこれから兵舎に行って炊事兵に料理を習ってくるわね。」
「ほんとレモーネさんのその謎のフットワークの軽さにはびっくりしますよ。いってらっしゃい。私は引き続き何か役に立ちそうな魔法がないか調べてますから。」
ポムピンはまたあの分厚い魔法書とにらめっこを始めた。
最初の部屋のように鍵もかかっていないし、見張りの兵士もいないので、部屋を出てすぐ左の階段を下りて階下に向かった。
外の兵舎に行けばそこで炊事兵が兵士達の食事を作っているはずだ。
ここが一階のはずはないのに、一つ下の階に降りたところで階段が終わっていた。
目の前の長い廊下の先を見ると、兵士たちが階段を下りていくのが見えた。
一階に降りて外に出るには廊下の先の階段を使うしかないらしい。
妙な構造になっている建物だ。
ふう、と一息ついて重い体に鞭打って右足を出した瞬間、体がぐらりと揺れたので、慌てて近くの壁に寄りかかって膝をついた。
めまいは昔からよく起きていたけれど、今のは一番ひどかった。
そういえば右足のかかとを切ってから特に体調が悪くなっていた気がする。
起き上がろうとして頭を上げると、目の前に砂嵐のようなものが見えて、吐き気がした。
それから、体が倒れ込んだ。
ああ、気を失うんだな、ということはわかっていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
いつの間に夕方になっていたようで、窓からオレンジ色の夕日がクグロフの街を照らしているのが見える。
あのレモーネとかいう女の謎の襲撃のせいでしばらく放心状態になってしまっていたので、書類を片付けるのが遅くなってしまった。
椅子から立ち上がり、腕と首を回しながら、自室に向かうために歩き出す。
そういえばあの女二人はこの新館の客室に移されたんだったな。
それならばもしかしてこの館の中で遭遇することもあるんじゃないのか?
あの一度見たら忘れられない黄色い髪を想像して、体がぶるっと震えた。
くそっ!違う!違うぞ!これはあの女が怖いんじゃない!
そう!これは、その、武者震いだ!
戦いを前に勇み立ってるんだ!
しっかりしろ、ジン・フロスト!お前はこれくらいのことで怖気づくような肝っ玉の小せぇ野郎じゃないだろ!
もし、部屋を出てあの女に会っても大丈夫だ。
がつんと一言、帰れ、と言えばいいんだ!
……でもやっぱり会うための心の準備、みたいなものが必要だから、この部屋から出たら全力疾走で自室に行こう。
「よし。」
俺は勢いよく扉を開いた。
目の前にどぎつい黄色い長い髪の、黒い服を着た女が横たわっていた。
「っだああああああーーーーーーーーーーっっっ!!!」
慌ててバタンッと扉を閉めた。
「はあっはあっ、何だあれ、部屋を出た瞬間、なんか、黄色いのが、いた!」
くそっなんなんだよ!
俺が一体何をしたっていうんだ!
いくらなんでも部屋を出たらすぐ黄色って神様そりゃないだろ!
まあ、床に倒れ込んでぴくりとも動かなかったのは不幸中の幸い……。
うん?倒れ込んで……?
今度はそっと扉を開けたら、やっぱり同じ場所に黄色いのが横たわっていた。
間違いない、レモーネという女だ。
「おい。」
返事がない。
まるでしかばねのようだ。
じりじりと距離を詰めながらそっと様子をうかがうが、動き出す様子はない。
これ、まさか倒れた女を装いつつ心配して声をかけてきた男を突如がばっと襲うタイプの化け物とか、そういうのじゃないだろうな。
いやだなあー、こわいなあー。
しかし、たとえ自称イビリストなる不審者でも倒れている奴を放っておくわけにはいかない。
うつぶせになって倒れている女のそばに膝をついてそっと肩をつかんで上を向かせた。
気を失っているようだ。
今まで気が付かなかったがずいぶんと顔色が悪く、青白い。
顔に手をあてると冷たくなっているし、冷や汗をかいている。
そして苦しそうに浅い息を繰り返している。
「貧血で失神でもしたのか。」
兵士が厳しい行軍を行った時や、炎天下での長時間の式典の際に倒れたときの症状に似ている。
これは化け物じゃない、病人だ。
女が息苦しくないように上向きに抱えて、部屋に戻って休憩用の長椅子の上に横向きに寝かせた。
「気道確保。」
窒息しないように顎を軽くつかんで顔を動かしておく。
そして首まで詰まっている洋服のボタンを胸元まで外して、足元にはクッションをしいて、体温の低下を防ぐために上着を脱いでかけておく。
速やかにそこまで処置したところで、ナハシュが部屋に入ってきた。
「うわっどうしたんですか?」
「気を失って倒れていた。軍医のフランケンシュタイン博士を呼んで来い。」
「は、はい!」
ナハシュは国境警備隊属の軍医を呼ぶために急いで部屋を出て行った。
貧血だとは思われるが、なにかほかの生命に関わるような病気があるかもしれないので、きちんと医師に見せておく必要がある。
フランケンシュタイン博士が到着するまでに、何かできることをしておくべきだろう。
観察をしてみるが、一番心配だった倒れたとき頭を強く撃ってできる大きなけがはないようだ。
他にも大きな外傷はなさそうなので、しばらく息苦しさが和らぐように背中を撫でていることにした。
触って驚いたが、ずいぶんと体が細い。
ほとんど肉がついていない、まるで貧困街の子供のようだ。
王都の商家のアンバー姫が紹介するような上流階級の娘が、まるで欠食児童のように痩せこけているとはどういうことだ?
本当に豊かな生活を送っている「お嬢様」なのか疑わしい。
そういえば供もあの赤い髪の冴えない子供だけだった。
もしかしたら何か嘘をついていて、俺と結婚するということとは別の目的を持ってやって来たのかもしれない。
間者や暗殺者ということも考えられる。
だとしたら倒れて気を失ったりするか?
いや、これすらもこちらの懐にもぐりこもうとする作戦だという可能性も……。
もやもやと考え込んでいると、ナハシュがフランケンシュタイン博士を連れて戻ってきた。
「はいはい、閣下、お呼びだそうで。おや、こちらのお嬢さんが患者ですね。」
フランケンシュタイン博士は白衣をはためかせて早足でやってきて、ドクターズバッグをわきに置いて早速診察を始めた。
彼は一見下町で野菜でも売っていそうな壮年の飄々とした男だが、これでかなり腕が立つ軍医だ。
ナハシュが心配そうにその様子を眺めながら尋ねた。
「あの、先生、どうですか?」
博士は脈をはかりながら答えた。
「貧血でございましょうね。ですが、けっこう重度ですよこれは。女性は貧血にはなりやすいですけど、それだけが原因ではないですな。」
「重度の貧血ですか。おかわいそうに。」
ナハシュは手をもみながら悲しそうに言った。
「過度のダイエットか、極端に食事の量を減らすような生活を続けておられた可能性がありますなあ、それに、うーん、これは……。」
この軍医の優秀なところは、医師としてはもちろん、患者の様子を診ただけでその生活習慣やくせなどを見抜くことができる、まるで小説の探偵のような特技を持っていることだ。
「直近の一、二週間全く食事を取られていないですな、これは。それに、大量に出血をするようなけがを負っておられるはずです。患部はどこでしょうなあ。」
博士は手に取っていた腕をそっと下すと、しばらく体をながめた後、足元のほうに移動して、女の靴を両足から脱がせた。
「ああ、これこれ、これですな。これはひどい。ここまでの傷口を放っておくなんて。見てください、ただれて膿が染みてきています。これはしばらく治療が必要です。」
女の右足のかかとは、まるで剣で切り落としたように肉がそぎ落ちていて、腐ったザクロのような状態になっていた。
ありがとうございました。