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霊夢という名の存在 ~ Marisa Leaving the People's Vision with Reimu.

 ちらちらと雪の降る博麗神社に少女がやってきた。鳥居をくぐると石畳の上を遊び回っている子供達とそれを見守る巫女が居た。やって来た少女が殊更大きな足音で石畳を踏むと、巫女は少女に気が付いてにっこりと笑った。

「お久しぶりです」

「昨日会ったばかりでしょ。相変わらずとぼけているわね。心の底から本気でそう言っているからあなたは怖いわ」

 子供達が笑いながら少女の周りに集まり、さとりさとりと囃し立てる。それに見向きもせず、少女は歩みを止めない。

「準備は出来ているの?」

「準備も何も。私する事無いと聞きましたけど?」

「心のよ」

「それはもう」

 少女が巫女の傍を通り過ぎ、本殿へ向かう。巫女はその背を追った。

「私じゃなくて、鬼とか天狗とかを連れて行けば良いと思うんですけど」

「恐れは心を固めるだけ。心を操るなら、動かしやすい様に、溶けて崩して柔らかくしないと」

「うーん、如何にも大物って感じ」

「馬鹿にしてんの?」

 そう言って、少女は鋭い眼差しを巫女に向けた。それと同時に、雪に足を滑らせて転んだ。

 巫女が助け起こしつつ、格好悪と呟いたが、少女は何も言わずに服をはらって歩き出した。後ろについて励ましの言葉を口にする巫女を完全に無視して本殿へと歩む。

 その時、本殿の奥から二人の人影が現れた。

「日の光に導かれ、博麗霊夢只今推参!」

「月の光を背に負って、霧雨魔理沙ここに見参!」

 人影は全く同じ動きで格好を付けた後に、階段を飛び降りて少女の下へ走り寄り、その腰に向かって思いっきり抱き着いた。どうだ妖怪とか参ったか妖怪と言いながら、ぐいぐいと頭を少女にこすりつけている。

 少女はそんな二人を指さしながら、怒りで見開かれた目を巫女に向けた。

 巫女が慌てて首を横に振る。

「いや、だってやっぱり子供達には派手なお話の方が受けが良いですし」

 少女は溜息を吐いて、微笑みを浮かべた。

「まあ、良いわ。伝説が語り継がれる事は悪くない。博麗の巫女は伝説でなくてはいけない」

「そんなものですか?」

「結局式を回すには分かり易い象徴が必要なのよ」

「つまり、盛り上げて話すのは正しいという訳ですね。これからの伝説は更に、血沸き肉踊り、爆発爆発の一大スペクタクルに」

 少女は巫女の頭を叩いて、本殿へと足を踏みいれた。




 景色が白玉楼から山の中に変わって戸惑っていた魔理沙は救いを求めて隣に立つ霊夢を見たが、そこにある霊夢の表情を見て息を呑んだ。

 霊夢の顔は強張っていた。恐れとも怒りとも知れない顔で、焦点の定まらない視線を森の奥に向けていた。魔理沙は今までに霊夢のそんな表情を見た事が無かった。霊夢はいつだって飄飄としていた。誰にも優しくて、恐れたり怖がったりする事は無かった。魔理沙が亡くなった時は酷い悲しみに襲われていたけれど、それも怒りや恐怖とは違う。天魔と戦った時の様に霊夢には恐怖も怒りもない。それなのに今の霊夢は間違いなく、目の前の光景に恐怖と怒りを抱いている。そんな霊夢を見た事が無かった。

 一体霊夢は何を見ているんだろう。

 分からない。

 想像がつかない。

 魔理沙が亡くなった森だからといって、悲しむ事はあれ、怒るとは思えない。

 一体何を見れば、霊夢が恐怖の表情を浮かべるのか。

 自分にも何か見えないかと魔理沙が目を凝らして霊夢の視線の先を見たが、広がっているのはあの時の森だけで、他には何も無い。本当に何の変哲も無い森。ただかつて魔理沙が亡くなった時と同じ形をしているだけ。

 困惑していると、森の光景の描かれた布を取り払った様に、景色は一変して白玉楼に戻った。目の前には満開の桜があり、その枝に式の主が腰掛けていた。目を丸くした式の主が興味深げに霊夢を見下ろしている。

「まさか私の場を打ち破るなんて」

 そして酷く昏い笑みを浮かべた。

「やはり私の計算に狂いは無かった」

 霊夢が何かしたのだろうか。霊夢を見た魔理沙は、再び驚きで固まった。

 霊夢が目を大きく見開き、口を限界まで見開いた。怖がっているなんていう表現じゃ足りない、気の違った様な表情に、魔理沙は怖くなって霊夢の肩に手を乗せる。

「おい、霊夢」

 霊夢と目があった。

 見開かれた丸い目の奥に恐怖がちらちらと燃えていた。

 霊夢が絶叫を上げる。絞り出す様な、金切り音の様な耳障りな声が迸った。

 鼓膜が劈かれそうになった。人間が出すとは思えない様な凄まじい声だ。

 霊夢の叫びの悲痛さに、魔理沙は必死で霊夢に縋り付いた。

「霊夢! 霊夢、大丈夫かよ!」

 まるで憑き物が取れた様に、霊夢の叫びが止まる。霊夢は一転して暗い顔で足元を見ながら黙り込んだ。あまりにも急激な態度の変化に戸惑いつつも、正気に戻ったのかと、何度か呼び掛けてみたが反応は無い。呆然と足元に目を落としている。魔理沙は霊夢を正気付かせるのを諦め、元凶をどうにかする事にした。霊夢がこうなったのは明らかに式の主が原因だ。

 式の主八雲紫、この幻想郷の絶対な支配者。天魔以上の存在と噂される神に等しき化け物。とてつもなく恐ろしい存在で、歯向かえばただですまない事は分かっている。だが霊夢をおかしくした張本人であるのなら、どれだけ恐ろしくても立ち向かわなければならない。どれだけ腹の奥底から恐怖が湧き出てこようと、霊夢を守らなければならない。

「霊夢に何をした!」

 拳を握って式の主に対する恐れを抑え込み、木の上を見上げて怒鳴る。

 だがそこには誰も居なかった。

「何も」

 背後から聞こえた声に驚いて振り返ると、式の主が口元に扇子を当てて立っていた。

「と言って、あなたは信じる?」

 魔理沙が式の主に向けてミニ八卦炉を構える。

「私はイエス、ノーは聞いてない。何をしたのかって聞いているんだ」

 構えたミニ八卦炉に魔力を充填させていく。

「まあ、あんたがどう答えても信じられないけどな。あんたの言葉は一切信用に値しない。良く分からんが、式を扱うっていうのは嘘吐きって事なんだろう? 聞くだけ無駄だ。あんたと会話をする気は無い」

 霊夢や天魔から式について聞いた魔理沙は、式とは騙くらかす事であると理解していた。式の主は今まで、大仰で挑発的な言葉を使い、相手の感情を揺さぶる事ばかりしていた。言葉を使って誑かす妖怪を相手にするのなら、その会話に応じてはならない。妖怪退治の常識だ。

 式の主が笑い声を零す。まるでその笑いが大気が揺さぶったみたいに、強い風が吹き起こった。

「ならどうしてそんな質問をしたのと言いたいけれど、その通り。対話をしたところで騙される隙が増えるだけですわ。敵と話し合う等、最も愚かな行為。智に眩み惑い朽ち果てる劇毒」

「もう一度聞くぜ。霊夢に何をした」

「詰まるところ、世は並べて力に服する。さあ、アリス、私の可愛いお人形。質問よ。この世で最も強い力は何?」

「答えないって事は、攻撃されたって文句は無いって事だな?」

「答えは時間。幾ら強大な力を持てども、時は必ずそれを腐り滅ぼす。例えば、そう、あなた達親子の絆の様に。最近じゃ随分と慣れてきただろう? 赤の他人の関係に」

 式の主の挑発に魔理沙は激昂しかけたが、ミニ八卦炉を握りしめて必死で耐える。

 式の主と自分の間には、果てしない程の力の差がある。相手の式に掛かる事を防いだって、単純な力で勝負すれば結局あっさりと負けてしまう。式の主に勝つには、相手の式に応じないだけでは駄目だ。

 強大な妖怪を打ち倒すのであれば、ルールを順守しなければならない。霊夢と妖怪退治をしてきた魔理沙には分かる。妖怪にはルールが存在する。弱い人間が強い妖怪を打ち倒すには、然るべきルールの下で戦わなければならない。それは同時に、例えどれだけ強大な妖怪であろうと、ルールに則れば、弱い人間でも倒す事が出来るという事を意味している。

 魔理沙は式の主のルールを知らない。だが何となく光明は見える。式の主の噂を聞くと、いつだって巧妙に相手を支配し破滅させている。そこから考えるに、式の主は言葉に則ったルールを持っており、それを犯さなければ直接手出しが出来ないのではないか。そしてきっと、言葉を用いて打ち勝つ事で、式の主を倒す事が出来るのではないか。

 その勝機が一体どんなものなのか分からない。それを見つけ出さなければ、勝ち目は無い。

 だから我慢して挑発する。

 より相手から言葉を引き出し、ほんの微かにでも弱点をさらけ出させる為に。魔理沙はあえて相手の言葉を無視して、逆に挑発する言葉を繰り返す。言葉を必要以上に用いる者は、自分の言葉が無視される事を嫌う。魔理沙はひたすら相手の言葉には応じず、挑発を繰り返す事で、式の主の隙を突こうとする。

 言葉を吐き出していれば、恐怖も薄らぐ。妖怪と対峙した時に、恐れているというのは最悪の状態だ。妖怪は恐れを糧に力をつける。魔理沙は今、式の主を酷く恐れている。本当であればへたり込んでしまっていた筈だ。その恐怖を抑え付けていられるのは、隣に霊夢が居るからだ。霊夢が居るからこそ、恐怖を上回り、魔理沙は式の主を睨む事が出来ている。霊夢を守るという使命感、霊夢を奪う的への憎悪、霊夢の前で格好悪い所は見せたくないという虚栄心、ここで退いては魔理沙に顔向け出来無いという強迫観念、ありとあらゆる感情を総動員して、式の主を睨みつけ、沸き上がってくる恐れを怒鳴り声に変える。それが恐怖を和らげていく。怖気を振り払いながら式の主と拮抗する。

「時は全てを滅ぼす。この幻想郷も、私も例外では無い。だからこそ、その巫女が居る。時からすら逃れられるその才は、この幻想郷を存続させるのに無くてはならぬのだ」

「お前は傲慢だ。お前が一体誰を幸福にした! お前なんかに幻想郷を、霊夢をどうこうする資格は無い!」

「さあ、アリス、私の可愛いお人形、私を信じて霊夢を差し出しなさい。さあ」

 式の主が魔理沙の頬に手を添えた。

 魔理沙はそれを払って拒絶する。

 その行為は、霊夢を差し出す事に対する忌避よりも、得体の知れない化け物に触れられた恐怖の方が遥かに大きく起因していた。

 自分でそれに気が付いた魔理沙は、今まで以上に気を漲らせて必死で自分の怖気と立ち向かい、目の前の式の主を睨みつけた。

「お前に霊夢をやるものか! 霊夢は私の友達だ! 霊夢をお前みたいな妖怪なんかに渡さない!」

 その瞬間、式の主が忍び声を漏らした。それに不気味なものを覚えつつ、更に怒鳴りつけてやろうと息を吸い込んだ時、背後から絹を裂く様な悲鳴が響いた。

 振り返ると霊夢が悲鳴をあげていた。

 まただ。

 また、霊夢が何かを怖がっている。

 霊夢の視線は虚空に向かっていた。

 何を見ているのか分からない。

 一体何がそんなに恐ろしいのか、魔理沙にはまるで見当がつかない。

「おい、霊夢! どうしたんだよ! しっかりしろ!」

 とにかく霊夢を宥めようと駆け寄ると、背後から聞こえていた式の主の笑い声がいよいよ以って強くなった。

「ついに私の問いに返事をしたな。お前の負けだ」

 式の主の勝利宣言に、心臓を鷲掴まれた様な寒気を覚えた。

 確かに一瞬前に、恐怖を振り払う為に、式の主の言葉に言い返した。霊夢を差し出せという式の主の言葉に、差し出すものかと怒鳴り返してしまった。

 だがそれだけだ。

 そんなちょっとの反論で負けになる筈がない。

 霊夢の肩に手を載せて体を寄り添わせつつ、魔理沙は式の主を怒鳴りつける。

「うるさい! そんな勝敗お前が勝手に決めた事だろう!」

「違うさ。ルールを敷いたのは君だよ、魔理沙。気がついていたさ。君は私の言葉に返答すれば負けになると勝手に思い込んでいただろう? そう思ってしまった時点で、その思い込みは君を縛る口縄となった。なあ、魔理沙。私の便利な愛玩道具。君は君自身が産んだ私に負けたのさ」

 馬鹿げてる。

 魔理沙は口の中で小さくそう吐き捨てながらも、魔理沙自身しくじった事は分かっていた。

 魔理沙は救いを求めて霊夢を見る。霊夢は、叫び声こそ収まったものの、その表情には恐怖が色濃く残っている。何でこんなに怯えているのと、魔理沙は泣きたくなった。霊夢が何で怯えているのか分からない。その分からなさが恐ろしかった。

 駄目だ。

 式の主に言い返してしまった事、未だに恐怖で固まる霊夢、その二つが式の主と戦おうとする魔理沙の気力を奪い去った。

 そもそも戦う理由が無い。

 そう、最初から抗う必要なんて無いのだ。

 式の主に何かをされた訳ではない。

 どうして戦おうと思ったのかすら、今になってみると分からない。

 今はここから逃げるべきだ。

 訳の分からない怖さ、それから逃げるべきだ。

 箒に乗った魔理沙であれば何物も追い縋れないと魔理沙は信じている。

 式の主は離れた場所で余裕の表情を浮かべている。明らかにこちらを見下して、油断している。咄嗟であれば隙をつけそうだ。隙をつき、箒に跨れば、後は霊夢を連れて逃げるだけ。出来る。逃げられる。箒にさえ乗ってしまえば、誰も魔理沙に追いつく事等出来ないのだから。

 魔理沙は意を決して箒を握りしめた。その瞬間、式の主が嘲笑う様に言った。

「さあ、魔理沙。私の便利な愛玩道具。どうして霊夢が怯えているのか、君には分かるかな?」

 飛び立とうとした魔理沙は式の主の言葉に釣られて思わず霊夢の顔を見てしまった。

 そしてさっきからずっと心の内で淀んでいた、何故霊夢は恐れているのかという疑問に体が一瞬固まった。

 そこに式の主が言葉を被せてくる。

「未だかつて、霊夢がそこまで怯えていたのを、君は見た事があるか? 博麗の巫女がそこまで怯える理由は何だと思う? なあ、魔理沙。巫女の一番の親友である君がそれを分からないというのかい?」

 見た事が無い。分からない。

 ずっと一緒に居たのに、今の霊夢の事が全く分からない。

 だがそれが何だ。

 魔理沙は歯を食いしばる。

「どうせ、お前が何かしたんだろ!」

「惜しいが違う」

「信用ならないね。白白しい」

 式の主のはぐらかす様な言葉を、魔理沙は鼻で笑おうとする。だが駄目だった。恐怖で痙攣する体の所為で、上手く表情が作れなかった。

 式の主が愉悦で顔を一層酷くしかめる。

「確かに今代の博麗の巫女が怯える原因は私にあるわ」

「じゃあ、やっぱりお前じゃないか」

「でもそれはあなたの所為でもあるのよ、魔理沙」

「何で」

「そして霊夢自身が原因でもある」

 意味が分からない。

 式の主が何を言いたいのかさっぱり分からない。

 どうして霊夢がこんなにも怯えているのか分からない。

 泣きたくなる。

 涙が出そうになる。

 それを堪えながら、魔理沙は自分が魔理沙がないからだろうかと思った。

 魔理沙であれば、今分からない事がみんな分かったのだろうか。

 魔理沙であれば、この恐ろしい状況に颯爽と現れて全部解決してくれるのだろうか。

 魔理沙の笑顔を頭に浮かべる。

 魔理沙を思い出そうとした魔理沙は、ある事実に愕然とした。

 頭に浮かんだ懐かしい顔には、時間の靄が掛かって薄らいでいた。

 自分は魔理沙を忘れかけている。時が魔理沙を風化させようとしている。

 頼るべき存在が自分の手から溢れ落ちた気がして、嗚咽が漏れそうになった。

 いけない。弱気になるな。

 泣きそうになった魔理沙は息ごと、涙を飲み込んだ。

 頭を振って悩みを振り払う。過去を悲しんでいる時間は無い。今生きている霊夢を逃がす事が先決だ。魔理沙だとか式の主だとかどうでも良い。今自分がすべき事は、霊夢と逃げる事なんだ。

 魔理沙は霊夢の手を取ろうとした。

 だが恐怖で震える手は、空を切った。

 体が恐怖で凝り固まり震え上がっている。

 まるで自分の体が自分の意思に従っていない様だ。

「怖くない。私は怖くなんてない」

 魔理沙が声を絞り出す。

 だが内心は、体と同じ様に心も震えている。

 怖い。

 怖くて怖くて堪らない。

 幾ら怖くないと信じようとしても、体の震えは収まらない。

 だがどうしてこんなにも怖いのだろう。

 式の主の力は強大だ。だがだからと言って、見下してくるだけで、攻撃をしてこないどころか、敵意の一つも向けてこない相手がどうしてこんなに怖いのか。

「簡単な事ですわ。あなたに式を付けたからです。私を恐れる様に」

「式を?」

 そんなものを付けられた覚えはない。

 だが確かに不可思議な程、恐れが沸き上がってくる。

 自分の体を見下ろした魔理沙を見て、式の主は笑う。

「今よりも遥か昔から、お前が魔理沙となった時よりも、お前が霊夢に出会うよりも、お前や霊夢が生まれる更に前から、用意されていたのだよ。お前の様に利用価値のある者を利用出来る様に」

 理解出来無い言葉だ。

 自分達が生まれる前?

 そんな時から式を付けられる訳が無い。

「馬鹿にするな。私が生まれる前から私に式をつけてたって言うの? そんなの無理よ!」

「私もそこまで万能じゃないわ。素粒子全ての挙動を計算出来る訳ではありません」

 くふふと式の主はおかしそうに笑い、魔理沙の鼻先に扇子を突き付けた。魔理沙の体が恐怖で跳ねる。

「怖い? 怖いでしょう」

 怖い。

 自分では理解も制御も出来無い恐怖が、心の底から沸き上がってくる。それで確信する。どうやったのか分からないが、自分には式がついている。式の主を恐れる様な式が、自分の体に取りついている。

 怯える魔理沙を前にくつくつと笑って、式の主は扇子で霊夢を指し示した。

 魔理沙の視界に怯える霊夢が映る。

 扇子で指された霊夢はより一層怯えていた。

 霊夢が怖がっている。

 助けなくてはいけない。

 そう思うのだが、体が恐怖で動かない。

 動け動けと念じても、どうしたって動かず、怖くない怖くないと言い聞かせても、体の震えは収まらない。息が荒くなり、視野が狭窄する。狭まった視界の中で、式の主は悪意に満ちた笑みを浮かべていた。

「ほらほら、怖がっている暇は無いわ。霊夢をそんなにしてしまった張本人がここに居るんですよ?」

 その瞬間、魔理沙は奇声を上げた。心に満ちた恐怖と、霊夢を守れないという悔しさが、衝動を迸らせ、体を動かした。懐から魔導書を取り出し反射的に発動させた。周囲から魔力を吸い取った魔導書が青色の液体が生み出し、式の主に振りかかる。青い液体は溶かし、分解する溶解の魔術。まともにくらえばひとたまりもない筈だ。

 それなのに式の主は避けようともせず、迸った液体をまともに浴びた。金属がこすれあう様な、甲高い耳障りな音が鳴り響く。液体が式の主を溶かす。式の主は見る間に溶けて、胴体の大半を失い、首と手と足だけの残骸になって地面に転がった。どう見ても生きている様には見えなかった。

「嘘でしょ?」

 自分自身で魔術を使ったにも関わらず、魔理沙は目の前の光景が信じられなかった。あれだけの恐怖を覚えた相手が、この幻想郷を支配していた化け物が、魔理沙達の未来を徹底的に壊した犯人が、こんなにもあっさりと倒せてしまうとは思えなかった。

 だが現に式の主は残骸になって散らばっている。

 魔理沙は屈みこんでその残骸に触れた。

「死んでる?」

 そう呟くと段段実感がこもってくる。

「倒したんだ」

 未だに理解は追い付いていない。だがとにかく霊夢を怖がらせていた奴を倒した。これで幻想郷は平和になる。また元に戻る事が出来る。

「霊夢!」

 喜びを霊夢に伝えたくて、振り返った。霊夢にもう無事だと伝えたかった。だが振り返った瞬間、魔理沙は固まった。霊夢が未だに怯えた表情をしていた。何か恐ろしいものでも見ているみたいに。まだ何かを恐れている。魔理沙はとにかく霊夢を安心させようともう大丈夫だと言おうと口を開く。

 その時、突然手を掴まれて、ぞっと怖気が走った。

 振り返ると、式の主が立っていた。ばらばらになっていた筈なのに、今は五体満足の全く無傷な姿で、胡散臭い笑みを浮かべて立っている。

「何で?」

 震える唇から魔理沙が声を漏らす。

「何故も何も、私は隙間。体を失った程度で死ぬ訳が無い」

 分かっていた事だろうと式の主は笑う。

「妖怪を倒すには然るべき方法を使わなければならない。だが君は何の考えもなしに力で押そうとしただけではないか。それでは駄目だ。単純な力で私を倒すのに、君はあまりにも力不足だ。分かっていた事だろう?」

 式の主が発する威圧感に、魔理沙は声も出せずに震える事しか出来無い。

「ではどうすればと言っても、隙間であり、式でもある私に、定まった撃退の仕方等無いのだがね」

 そう言って、式の主は魔理沙を優しく抱きとめ、魔理沙の持つ魔導書に触れた。

「これはもう使わない方が良い。使えば使うだけ寿命を蝕む禁術だ」

 魔導書が溶け崩れ消えた。頼みの綱であった魔導書があまりにもあっさりと消された事に、魔理沙の絶望が一層強くなる。

「さあ、アリス。私の可愛いお人形、私の手の内で大人しくしていなさい」

 式の主は、魔理沙を抱き抱えると、霊夢に向けて高らかに謳った。

「霊夢! さあ、見るが良い! あの日と同じだ! このままでは、また魔理沙が死ぬぞ!」

 霊夢が遠目から見ても分かる位に体を震わせた。その顔をより一層の恐怖に歪めて。

「止めて。お願いだから」

 霊夢の漏らした懇願が、風に乗って辛うじて聞こえた。その声音はあまりにもか弱くて、震える姿はとても博麗の巫女である普段の霊夢と重ねる事が出来無い。

「霊夢」

 魔理沙は呟き、首を捻って、自分を捕らえる式の主を睨む。

「あの日って何だよ! 霊夢があんなに怯えるなんて何があったんだ!」

 式の主はくつくつと笑って、霊夢へ視線を注ぐ。霊夢に浮かぶ恐怖が更に強まったのを見て、式の主は魔理沙に言った。

「知りたければ教えてあげましょう。あの日に何があったのか。友達として当然知りたい事でしょうからね」

「止めて!」

 霊夢が懇願する。その怯えきった姿を、魔理沙はどうしても霊夢だと思う事が出来無い。それは最早、博麗の巫女でも何でも無く、ただのか弱い女の子でしかなかった。

 霊夢の懇願を無視して式の主は話し始めた。

「あの日、山菜を取りに森の奥に踏み入った魔理沙は、そこでとても怖い妖怪に捕まってしまたのです。物を知らぬ子供特有の傲慢さが、その妖怪の機嫌を損ねてしまったのですわ。捕まった魔理沙は許しを請いましたが、当然許されず、今にも殺されようとしていた。そこへ丁度良く、というより、その妖怪が招いたのですが、あの博麗霊夢がやって来たのです」

 ねえ霊夢と式の主が語り掛けると、霊夢は首を横に振ってそれを否定した。その瞳から涙が溢れ落ちる。

 ようやく魔理沙は理解出来た気がした。神隠しというのは、霊夢が妖怪に勝てなかった事の言い訳だったのだ。魔理沙は妖怪に殺されてしまって、霊夢はそれを救おうとしたが救えなくて。魔理沙を救えなかった罪悪感から、霊夢はおかしくなってしまったんだろう。だからこそ、その弱さを暴かれるのが嫌で、あんなにも怯えている。思い出してみると、そういう節はあった。妖怪に友達を取られるという事に対して、霊夢はあまりにも過剰に反応していた。

 結局、これも分かっていた事だが、霊夢も魔理沙も普通の女の子で、今震えている霊夢もまた確かに霊夢の一側面なのだ。出来無い事は当然あって、そして泣き笑い恐れ喜ぶ普通の人間に過ぎないのだ。それを魔理沙はどうしても理解出来ていなかった。頭では分かっても、今尚怯えきっている霊夢を、霊夢ではない別の誰かに思えてしまう位に、魔理沙は霊夢と、そしてその友達の魔理沙を神格化していた。

 それは幻想郷の住人みんな同じ。博麗の巫女に頼りきり、魔理沙の代役を捧げて、必死で巫女の機嫌を取ろうとしていた。妖怪の賢者達はたった一人の少女を妖怪全てに対抗しうる存在かどうかを試してきた。この幻想郷は、博麗の巫女の上になりたっている。たった一人の女の子の上に。

 私は霊夢の友達だ、と魔理沙は改めて思う。

 ずっと前からそう思っていた。けれど一方で、霊夢と魔理沙の事を自分とは違う何か素晴らしいものだと思っていた。でも最初に抱いていた憧れと、今抱いていた憧れはまるで違う。

 初めの内は、二人が確固たる絆で結ばれていると思ったから憧れていた。どちらかが危機に陥れば必ず守ってみせると息巻いていた。霊夢にはその為の力があったし、魔理沙はその為に力を磨いていた。いつまでも一緒に居ると宣言して、その為に魔理沙は自分の性別を変えようとまでした。そんな仲の良い二人だからこそ、魔理沙は二人に憧れていた。

 だがその憧れが、いつの間にか全く別の方向へ育っていた。神様でも見ている様な、現実を無視した憧れになっていた。

 きっとそんな荒唐無稽な信頼が霊夢を苦しめていたのだろう。

「霊夢」

 魔理沙は霊夢に声を掛ける。

 今、自分がすべき事は、霊夢を守る事。霊夢の弱気な姿に失望する事では決してない。あの頃、憧れていた魔理沙を演じるのであれば、今の自分がすべき事は、危機に陥った霊夢を救ってあげる事だ。罪悪感に苦しめられているのなら、魔理沙だと勘違いされている自分がすべき事は、霊夢の気持ちを軽くしてあげる事が出来る筈だ。

「私は、恨んでない! 確かに最後は負けて、結局私を助けられなかったかもしれないけど、でも強い奴に勝てないってのはしょうがない事だ! そうだろ? それでも霊夢が立ち向かってくれた事が嬉しかった」

 実際に見た訳ではないが、魔理沙には想像出来た。魔理沙を救う為に、恐ろしい妖怪相手に命を賭して、ぼろぼろになってまで戦う霊夢の姿が。それは神格化していた強い霊夢の姿とは違っていたが、それでも決して自分には出来無い事をやってのける、十分に誇らしい姿だ。

「普通の奴なら立ち向かえない。アリスだったらきっと腰を抜かしているさ! それなのに助けようとしてくれた霊夢の姿が、私には嬉しかった!」

 こんな言葉でずっと悩んできた霊夢を救う事は出来無いかもしれない。でも魔理沙という立場から、霊夢の罪を許してあげられたらと思った。もしも天国で魔理沙が見ていたら、魔理沙だって霊夢を許してあげたかった筈だ。

 少しでも霊夢を救いたい。

 そんな魔理沙の言葉。

 それは確かに霊夢に届いた。

 霊夢は確かに、その魔理沙の言葉を聞いた。

 魔理沙の言葉を聞いた霊夢は、その瞬間、霊夢は金切り声を上げて座り込んだ。その殺される寸前の様な断末魔を上げる姿はもう過去の憧れていた霊夢と完全に食い違っていた。

 何が起こったのか分からず呆然とするしかない魔理沙に、式の主は楽しげに語りかける。

「少し違うわ、魔理沙。ねえ、霊夢。そんな美しい話じゃない」

 霊夢の金切り声が再び響く。

「確かに妖怪の天敵博麗の巫女霊夢は常日頃から、魔理沙が妖怪に襲われても助けてみせると嘯いていましたわ。当然、捕まっていた魔理沙も、霊夢が助けてくれると思ったのでしょう、必死になって霊夢へ助けを求めました。ただそうは言っても今あなたが言った様に出来無い事がある。賢い霊夢ならその判断が出来る。霊夢は妖怪を一目見て、自分では敵わない事を悟りました。ああ勝てない。どうしたって勝てない。立ち向かったら殺されてしまう。さて、魔理沙、質問ですわ。己よりも強い敵を相手にした時の、最善の行動は何か」

 霊夢が頭を抱えながら止めろ止めろと叫んでいた。

 魔理沙も、その先を察して、聞きたくないと思った。

 だが式の主はそんな二人の懇願を無視して、先を続けた。

「敵わない敵を前にした時には、逃げるのが一番。当然の事ですわ。賢い霊夢は、ちゃんとそれを知っていました。霊夢は逃げたのです。脇目も振らず。妖怪に掴まれて飲み込まれていく魔理沙を置いて。絶望の表情を浮かべながら必死で助けを求める魔理沙を背にして。ずっと友達だと嘯いてきた魔理沙を見捨てて、霊夢は逃げ出したのです」

 最早霊夢は何も言わない。座り込み顔を俯けている。啜り泣く声が辺りに響く。

 魔理沙も、何も言えなかった。霊夢が魔理沙を見捨てるなんて信じられなかった。嘘だと叫びたかった。だが霊夢の態度が本当の事だと肯定している。

 二人はあれだけ仲が良かったのに。ずっと一緒だと誓い合っていたのに。自分の憧れだったのに。

 自分の中の霊夢と魔理沙の虚像が崩れていく。

 自分の見ている景色が色褪せていく。

 大切なものを捨て、魔理沙となって生きてきた。それは全部、確かな絆で結ばれていた霊夢と魔理沙を留めておきたいが為だ。自分の憧れていた霊夢と魔理沙を取り戻したかったからだ。そんな自分の決断全てが否定された。

 思えば、霊夢は魔理沙を大切にしていただろうか。霊夢の為に頑張っていたのはいつだって魔理沙だった様に思う。魔理沙は霊夢の為に強かったが、霊夢は初めから強くて努力なんてしなかった。女性同士では結婚出来ないと聞いた時に、男になると言い出したのは魔理沙だ。霊夢はそれを受け入れただけだ。そして霊夢は魔理沙を見捨てた。そして今、霊夢は、そんな自分を否定したくて、魔理沙の死を否定しようとしている。

 霊夢にとって魔理沙とは何なのだろう。自分の苦しみから逃れる為に、魔理沙を塗り替えようとする霊夢は本当に魔理沙を大切に思っていたのだろうか。霊夢の為に頑張っていた魔理沙に対して、霊夢は何をしてあげたのだろう。

 考えても、当人同士の事だから分かる訳が無い。そんな事、偽物の魔理沙に分かる訳がない。だが友達として、魔理沙を思うと哀れで悲しく、霊夢を見ると憎らしい気持ちが湧いた。

「さあ、霊夢! あの時の汚名を雪ぐ時よ。今、こうしてまた魔理沙が捕まり、殺されようとしている。選びなさい、霊夢。自分と魔理沙、どちらを助けるか」

 式の主の問いかけに、霊夢は顔を上げた。恐怖でぐちゃぐちゃの表情に、涙を流している。口を開いたが、選べなかった様で、何も言わなかった。

 そんな霊夢に向かって、今度は魔理沙が問いかける。

「霊夢、今の本当の事なの?」

 霊夢は虚を突かれた様に口を開け、ごめんなさいと平坦な声音で呟いた。かと思うと、顔が一気に恐れで歪み、ごめんなさいと繰り返しながら、頭を抱えて地面に倒れた。

 魔理沙の中に喪失感が広がった。呆れ果てていた。自分の中が空っぽになった様だ。

 けれどその空っぽの中に、霊夢を愛おしく気持ちが煌めいた。

 呆れている自分の代わりに、魔理沙の感情が生まれたのだと、思った。今胸に灯ったこの感情はきっと魔理沙という少女がかつて抱いていたものなのだ。二人に対する憧れや魔理沙の代わりに守らなければいけないという義務的な保護欲とは違う。友達に対する親愛とも違う。霊夢の事をただただ愛おしく思う純粋な感情。

 ああ、これが魔理沙の抱いていた感情なのかと魔理沙は思い、自然と笑顔になった。

 今までにこんな感情を抱いた事が無かった。魔理沙ばかりが霊夢を大切にしていたと非難した自分を恥じる。そんな一方的な関係で、こんな愛おしさが湧いてくる訳が無い。やっぱり自分は霊夢と魔理沙の事なんてこれっぽっちも理解していなかった。霊夢と魔理沙の仲は最初から自分の立ち入る事の出来無い領域だったのだ。自分の勝手な感情で二人を判じる事なんて出来る訳が無い。きっと二人は硬い絆で結ばれていたのだろう。それを寂しく思うが、同意に嬉しくもあった。

「霊夢」

 霊夢が顔をあげる。恐れに満ちた顔をしている。それを見ると、胸が傷んだ。

「私は、霊夢を恨んでなんかいない。とにかく霊夢が助かってくれて嬉しいんだ。何よりも霊夢の事が大切だから」

 魔理沙は出来るだけ、安心させる事が出来る様、優しい笑顔になって、慰める様に言った。

「魔理沙」

 霊夢が魔理沙の名を呼んだ。その目は魔理沙を見つめているのだろうと、魔理沙は思った。

「霊夢、だから私の事は良いんだ。気にしないでくれ。私は霊夢の事を怒っていない。私は霊夢の事が好きだ。霊夢に生きていて欲しいし、私が霊夢の為になるのなら嬉しい。だから、お願いだから、私の事は気にせず逃げてくれ。逃げて、私の事は忘れて生きてくれ」

 初めは魔理沙の気持ちを代弁しているつもりだったが、次第にその言葉が自分の感情と混ざり合った。霊夢を助けたい。その思いをただ素直に霊夢へ伝える。

 出来れば、魔理沙の言葉を聞いて罪悪感を忘れて欲しかったが、流石に今までずっと悩んできた事が、一瞬で解消されるなんて事はない。霊夢の表情には未だに苦悶が色濃く出ている。

 だが霊夢は立ち上がった。

 立ち上がり、涙を拭った。

「魔理沙、ありがとう」

 恐怖の浮かんだ目で、式の主を睨む。

「でも助けるから。絶対、私は魔理沙を」

 その時式の主が笑いを漏らした。それで霊夢の言葉が止まる。途端に霊夢の怯えが激しくなり、硬直して動かなくなった。

「霊夢、どうしたのかしら? 魔理沙を助けるんじゃなかったの?」

 霊夢は全身を酷く震わせ、歯をかち鳴らせながら、それでも御幣を持ち上げようとする。

 だが式の主が霊夢と名を呼んだだけで、霊夢は御幣を取り落としてしまった。

 魔理沙はそんな霊夢を見て、ようやく理解が及ぶ。

 幾らなんでも、魔理沙への罪悪感だけであそこまで怯え続けるだろうか。

 いくら恐ろしい妖怪が相手だからって、博麗の巫女であるあの博麗霊夢が、魔理沙を置いて一目散に逃げ出すだろうか。

 全部誰かに操られていると考えた方が余程しっくりくる。

 全てが繋がった様に思えた。

 だから魔理沙は式の主に尋ねた。

「霊夢にも式をつけてあるの?」

「当然だ」

 式の主があっさりとそれを肯定した。

 目の前が眩む程の怒りが魔理沙の内に満ちた。

 全てはこいつがやったのだ。

 魔理沙は拳を握り、歯を食いしばる。

「お前が、魔理沙を殺したんでしょ?」

「そうだ」

 あまりの怒りに、魔理沙の視界が赤く染まる。

 全ての張本人はやはりこいつだった。霊夢が魔理沙の事を大事に思っているって知っていて、それを見捨てる様に仕向けたのだ。

 許せなかった。

 霊夢と魔理沙の絆を踏みにじった事が、魔理沙を殺された事以上に許せない。

「何で、そんな事を」

「何故? すまないが、質問の意図が理解出来ない」

「何で魔理沙の事を殺したんだ! 何で霊夢の心を踏みにじった! 何で私が魔理沙の代わりになった! お前の目的は何なんだ!」

「まず前提として、八雲紫の目的は幻想郷の存続である。式のついた八雲紫はそれのみを目指し行動してきた。これからもそうしていきたかった。だが内外の情勢の変化は、かつての八雲紫の計算を上回り、最早八雲紫という個体では対応し切れない瀬戸際にきている。そこで四百年前程から新しい管理者の作成を目指してきた。それが今代の巫女で実を結んだのだ」

「新しい管理者? 霊夢が?」

 四百年前からと言われても魔理沙には想像も出来無い。冗談かと思ったが、式の主の声音は真剣だ。

「そうだ。現在は結界で外からの干渉を完全に防いでいる。だが風通しが無ければ中は腐るだけ。隙間を使って必要なものを引き入れてはいるが、それではあまりにも小規模で限界がある。幻想郷を存続させる為には、幻想郷に必要なものを取り入れる結界が必要であり、それには結界の構築に特化した者が不可欠だ。そういった者が幻想郷を治めなければならない」

「だから博麗の巫女? でもそれは霊夢じゃなくたって、他の博麗の巫女だって」

「一つに、博麗霊夢の才能はずば抜けている。二つに、博麗霊夢は為政者として人をひきつけ従える魅力を備えている。三つに、これが最も大事だが、あらゆるものから干渉されないという外側からの視点を持ち合わせている。ここまでを兼ね備えた者は、今後数百年現れるまい」

 話があまりにも想像と別の所に進んでいて、魔理沙の理解は追い付かなかった。てっきり、残酷な妖怪の暇潰し程度の事だと思っていた。それが幻想郷の存続という話になって、良い悪いと判断する大きさを超えていて、魔理沙はどうすれば良いのか分からない。

 ただとにかく、霊夢の事を第一に考えようと、魔理沙は疑問を捻り出してぶつけてみた。

「そんな事はどうでも良い。管理者って何だ? 霊夢をどうする気だ!」

「私の跡を継がせたいのだよ。それだけだ」

「霊夢がお前の跡を?」

 魔理沙が首を捻って式の主を見た。

 霊夢と魔理沙の絆を踏みにじり、人の人生を狂わせた、残酷な妖怪が笑みを浮かべている。

 霊夢がこんな奴の跡を継ぐ?

 そんな未来、想像も出来無い。

 ふざけた話に、魔理沙の怒りが募る。

「霊夢はあんたの跡なんか継がない! お前みたいな残酷で最低な奴についてなんかいかない! 霊夢は確かに凄いけど、でも私と同じ普通の女の子だよ。そんな管理者とか、訳の分かんない、変な存在にはならない!」

「そう。そこに霧雨魔理沙という想定外の問題があった」

 また別の話に移り変わり、魔理沙は肩透かしをくらう。

「管理者は孤独な存在だ。何者にも加担せず、ただ幻想郷の存続のみを願う者でなければならない。博麗霊夢もまたそうでなければならなかった。だというのに、霧雨魔理沙という存在が現れ、博麗霊夢の横に居座った。完全な誤算だったよ。この私の、一世一代の大失態だ。博麗神社に比較的近い里に、村社会に不満を持つ者が生まれ、実際に里を出て一人で暮らし、それが魔法の才能を持ち、その上博麗霊夢と同い年で仲良くなり、他にも連ね切れぬ程の偶然が重なり重なって、博麗霊夢に親友と呼べる存在が出来てしまった。そこからは後手の後手だ。放置すれば霊夢の管理者としての資質に影響が出る。かと言って、魔理沙や霊夢に手を加えるには式が足らない。最後は、魔理沙の殺害という非情な手段に賭けたが、結果博麗の巫女は狂った。そのどれもが私の失敗だ」

 話す内容の割に、式の主はあくまで淡淡とそれを語る。

 魔理沙は、それを何処まで理解出来たのか分からなかった。だがこう理解した。つまりは式の主は郷を思うままに操ろうとして、それに失敗した結果、どうしようもなくなって魔理沙を殺したという事だ。

 冗談じゃない。

 失敗したのなら責任は自分でとれば良い。

 賭けだ何だと言いながら、結局は自分の責任を魔理沙になすりつけて、殺しただけだ。

「神様みたいに言われてたから、どれだけ凄いんだろうと思っていたけど、結局あんたは最低な、どうしようもない自分勝手な奴じゃない!」

「そうでしょうね。あなたの目から見ればそう映る。いえ、あなただけでなく多くの者にとっても」

 魔理沙は身を捩り、式の主の腕から逃れると、面と向かって言い放つ。

「だったら消えろ! 私達に構おうとするな! 霊夢をこれ以上苦しめるな!」

 魔理沙に罵声を浴びせられた式の主は扇子を広げ口元を隠した。

 そして笑った。

 扇子で口元を隠していても分かる、悪意ある笑みだ。

「そうはいきませんわ。誰が何と言おうと私という存在は、幻想郷の存続の為にただひたすら邁進するだけです」

「お前は! 何なの! 何で! みんなお前の所為で不幸になって。魔理沙を。霊夢も。私も。私だって、お母さんと。何なの! 何なの、あんた!」

 魔理沙が感情を爆発させて叫ぶ。

 だが魔理沙の怒りに当てられても、式の主は笑みを浮かべたままだ。

「私は隙間。あなたの体の継ぎ目に、あなたの思考の継ぎ目に、あなたの過去の継ぎ目に、ありとあらゆる境にあって、それをそれと気付かせない存在。そして」

 式の主が扇子を閉じ、その悪意ある笑みを晒した。

「霊夢を苦しめている張本人ですわ」

 式の主の挑発に、魔理沙は堪えられなかった。懐から魔導書を取り出し、発動させた。発動させた紫の魔導書からレーザーが放たれる。だが魔導書を構えた先から、式の主の姿は消えていた。魔理沙は辺りを見回し、空中に浮かぶ式の主を見つけて、魔導書を構える。

「先程忠告しただろう? その魔導書を使えば寿命を縮めるぞ?」

 忠告する式の主を無視して、魔理沙は躊躇わず撃つ。

 だが式の主の姿は再び消えて、レーザーは虚空を通過した。

 式の主が空を飛び回っている。それを魔理沙はレーザーで撃ち落とそうとするが、当たらない。

 焦る魔理沙に式の主の声が降りかかってきた。

「さあ、そろそろこちらからも攻撃と行こうか」

 空に小さな裂け目が出来ていた。

 そこから粘性の液体が垂れたかと思うと、ゆっくりと何かぐちゃぐちゃと蠢いている黒い塊が出てきた。気味の悪さに顔をしかめた魔理沙に向かって、隙間から出てきた物体が撃ちだされる。魔理沙は瞬時にレーザーを向けて、その黒い質量を焼き焦がした。だが攻撃はそれだけで終わらなかった。空に次次と隙間が生まれ、その中から黒い質量が際限なく生まれてくる。

 魔理沙は必死でそれを焼き落としていくが、きりがない。このままではこちらが押し負ける。それを悟って、本体である式の主を睨んだ。

 魔理沙は黒い質量を撃ち落とす合間に、式の主の姿を追う。だが式の主はあちらこちらへ飛び回り、隙間を通って別の場所へと移り、捕捉が追いつかない。

 魔理沙は粘り強く式の主を追った。そしてようやく式の主が停止した一瞬を捉えた。

 魔導書を向け、渾身の魔力を込めてレーザーを放つ。

 その瞬間、式の主の姿が隙間の中に消えた。

 魔理沙は背後から気配を感じて、怖気を覚えた。

 魔理沙が驚いて振り返ると、視界が黒く染まった。

 それは壁だった。

 真っ黒な質量で出来た巨大な壁が視界一杯に広がり、それが自分へ向かって倒れてきた。逃げようと横を見ても上を見ても、壁は何処までも続いている。まるで夜が落ちてくる様だった。

 魔理沙は咄嗟に、もう一冊の緑の魔導書を取り出して、目の前の壁に向かって発動させた。だがまるで破壊力が足りない。表面が抉れただけで、分厚い壁を打ち破る事が出来なかった。力が及ばない事を悟り、魔理沙は身を翻して逃げようとした。だが逃げきれず、巨大な質量の倒壊に巻き込まれる。衝撃が身を貫き、灼熱が全身を襲う。

 魔理沙が目を開けると、辺りに砂埃が舞っていた。体中に痛みが走り、立ち上がる事すら困難だった。何とか痛みを堪え、二本の足で立ち上がると、砂埃が晴れた。自分の体を見下ろすと酷い有様だ。全身が血塗れで、服はずたぼろで、紫の魔導書は破れ、緑の魔導書も焼け焦げていた。

 座り込んでしまいたかったが、式の主はそれを許してくれない。

 言い知れぬ重圧を覚えて空を見上げると、そこには数多の隙間が開き、そこから黒い質量が這い出てくる。数える気にすらならない程の大量の攻撃。その奥に笑っている式の主を見つけて、魔理沙は泣きたくなった。あまりにも力が違い過ぎる。勝てないとはっきり分かる。

 それでも立ち向かわなくてはいけない。

 自分の後ろには霊夢が居るのだ。

 それを見捨てて戦いを投げ出す訳にはいかない。

 魔理沙は燃えかけた緑の魔導書を空に向け、発動させた。魔導書から黄緑の光弾が次次に生まれる。十や二十じゃきかない数の光弾には、それ一つ一つに必殺の威力が込められている。それを空で笑う式の主に向かって撃ち放った。黄緑の光弾から逃れる事は出来無い。逃げても何処までも追尾し、敵を討ち果たす魔弾だ。

 だが無駄だった。隙間から現れた無数の黒い質量が寄り集まり、必殺の魔力を込めた光弾すらも食い止めてしまう。そして反対に、空からは黄緑の光弾を阻んだ以上に大量の質量が降ってくる。

 黒い質量が数多降り注いでくる光景は神神しくさえあった。

 防ぐなんて出来そうにない。

 雨みたいだなと魔理沙は思った。

 死ぬんだろうなと魔理沙は思った。

 懐に手を伸ばし、最後の黄の魔導書を取り出そうとした。せめてもの抵抗のつもりであったが、血塗れの腕は意志の通りに動かず、力無く垂れ下がっている。体ももう死にかけている。万全の状態でも抗えないのに、こんな体じゃどうしようもない。

 駄目かと自嘲して尻餅をつき空を見上げる。

 体が動かない。

 黒い質量が雨の様に降り注いでくる。

 魔理沙は恐ろしくて目を閉じた。暗闇の中で、最期が迫ってくるのを感じた。

 炸裂音が聞こえ、魔理沙は身をこわばらせる。

 死を覚悟した。

 だが衝撃は襲ってこない。

 目を開けると、まるで自分の守る様に幾重の黒翼が広がっていた。その翼には見覚えがある。忘れる筈も無い。

「お母さん?」

 魔理沙がそう呼ぶと、神綺が振り返り、笑顔を見せた。

 思わず息を飲み、次に喜びと安堵が胸一杯に広がった。

 かつて母親に抱かれていた時の様な安らかな心地になった。

 涙が溢れてくる。故郷を捨てた自分を助けに来てくれた。それが嬉しくて仕方が無かった。

 その感動も長くは続かず、広げられた翼の向こうに、天を摩す様な黒壁が見えて、魔理沙の全身の毛が逆立った。

 巨大な壁が倒れてくる。その表面はびちゃびちゃと跳ね回り、一体何で出来ているのか得体が知れない。触れるだけで危険な代物であるのは一目瞭然だった。

「お母さん! 危ない!」

 魔理沙が叫ぶと、神綺は壁へ顔を向け、そうして翼をたわめかせた。

 翼から閃光が広がり、魔理沙の目が眩む。閉じた瞼の向こうから、地響きがやってくる。

 目を開けると、黒い壁は消えていた。

 恐ろしい攻撃を難なく消し去ってくれた母親の背は頼もしく優しかった。

 温かい感情が胸に広がって、また涙が溢れてきた。

 頼もしい母親の背を見つめていると、母親は振り返り、何か呟いた。その声は小さくて耳には届かなかったが、自分の名前を呼んだのだと思った。

「守るから」

 そうして神綺が式の主と対峙する。

 空に浮かぶ式の主は、巨大な裂け目を背に、余裕の表情を浮かべている。それに向かって、神綺は指を突き出した。

「やめなさい。これ以上この子を傷つけるのなら、魔界と幻想郷の戦争になる」

 それを聞いた式の主は笑い声を上げた。

「一時期魔界に居たとは言え、その子は人間であり魔界の者ではないだろう? まして今は幻想郷に居るのだ。お前が煽ろうと、大儀無き戦争に誰が参加するのであろうな」

「ならあなたはどうなのかしら? この幻想郷にあなたを守ろうとする者がどれだけ居るの? あなたの評判、大層悪いけれど」

「私を守ろうとする者は私の従者唯一人。だが戦争へ扇動するのに何も私自身を守らせる必要は無い。まして戦争にはならぬよ。私がそれを望まない。どういう目的があろうと、畢竟これは個人の戦いに終始する」

 神綺は拳を握りしめ、語気を強めた。

「個の戦いだというのなら、私はあなたを倒してこの子を守る。私は魔界の神よ。神様気取りの増長した妖怪如きに負けはしない」

「それは、魔界であれば真実であっただろうな」

 式の主が扇子を広げた。それに呼応して、魔理沙と神綺の周りに隙間が生まれた。

「だが残念な事にここは幻想郷だ」

 言葉と同時に、隙間から重機関銃が顔を覗かせた。

 神綺が驚愕の表情で振り返り、魔理沙の上に覆いかぶさる。

 その瞬間、鼓膜をぶち破りそうな程の重低音が鳴り響き、魔理沙達を覆う翼の表面に小規模な爆発が立て続けに起こった。

 神綺は魔理沙を抱きかかえ、翼で身を守りながら、その場を脱出する。離れた場所に着地し難を逃れた神綺だが、翼から伝わった衝撃に体の内部をやられ、魔理沙を取り落として、呻き声を上げた。

 苦しむ神綺を見た魔理沙は悲痛な声を上げて縋る。

「大丈夫だから」

 神綺は息も絶え絶えにそう言って、魔理沙を抱きながら空を見上げる。空に浮かぶ式の主は楽しそうに言った。

「人質が居なければ、もう少し抵抗出来たものを」

 その言葉で、自分が神綺の足枷になっている事に気がついた魔理沙は胸を突かれた様な気持ちになった。ただでさえ式の主の力が上回っているのに、自分の様な足枷が居たのでは勝負になる訳が無い。折角助けに来てくれた母親を、自分自身が苦しめている。それに気づいて魔理沙は恐ろしくなった。

「お母さん、私の事は良いから」

 そう言った途端、神綺に頭を叩かれた。

「もう一度そんな事を言ったら怒るからね」

 神綺が羽を広げて力を溜め始めた。

 式の主が嘲りの笑いを漏らした。

「魔理沙の言う事も一理ある。勝てぬのであれば連れて逃げれば良い」

「逃げたら、後ろから狙うんでしょう? あなたに距離なんて関係無いものね」

「お前一人なら逃げられるかもしれないぞ」

「あまり私を苛苛させないで」

 魔理沙は胸が苦しくなった。

 本当なら戦う必要なんて無いのに、自分の所為で戦おうとしている。自分という足手纏が邪魔をしている。自分が居るから逃げる事すら出来無い。自分の所為で母親が死地に向かている。

「お母さん」

 もう一度、母親に一人で逃げてくれと言おうとした。例え怒られても良いから、自分を見捨てて良いから、生きて欲しかった。

 だがその言葉を発する前に、式の主が巨大な隙間を開いた。天の裂け目を掴んで、鉄錆で出来た三指の巨大な腕が三本現れた。それが魔理沙達を押し潰そうと襲い掛かってくる。神綺は魔理沙を抱いてそれを避け、地面に突き立った一本の腕に翼をぶつけた。表皮が剥がれるが破壊されるまでには至らない。連続して翼を当てようやく一本目の腕を破壊すると、残りの二本の腕が迫ってくる。襲ってきた二本の腕に向けて、神綺は翼からレーザーと光弾を放つ。攻撃が当たる度に腕は崩れていくが、中中止まらない。腕を避けながら、攻撃を与え続ける。神綺の攻撃は着実に腕を崩し、ようやく全ての腕を破壊し終える。神綺は息を吐いて空を見上げ、天の裂け目から九つの腕が生えだしているのを見て、目を見開いた。三本ですら破壊するのに時間が掛かった腕が、新たにその三倍の数現れていた。

 神綺が微かに息を飲む。

 魔理沙が恐ろしさで神綺を抱き締めると、神綺もまた力強く抱き締めてきた。

「大丈夫だからね。お母さんがきっと守るからね」

 強がりだと分かる。母親の声は震えている。自分だって怖いだろうに、家を捨てた子供なんかを必死で励まそうとしてくれる。魔理沙は涙が出てきた。母親に迷惑ばかりかけている自分が悔しかった。

 せめて少しでも。

 体も少しは動ける様になった。懐に入った魔導書に触れる。敵わないかもしれないけれど、頑張っているお母さんの力になりたい。魔導書を取り出そうとしたが、神綺にきつく抱き締められて、魔理沙は動けなくなった。耳元で神綺が怖がらなくて良いからねと呟いた。

 そうして、空から九つの腕が襲いかかってくる。

 神綺はやってくる腕を見つめて力を漲らせる。

 これを倒してもまた新たな腕が生えて襲ってくるのは間違い無い。それが分かっていてもどうしようもない。本体を攻撃したって逃げ回り、本体に気を取られている内に、横から不意打ちを浴びせられるのは分かっている。生き残るのであれば、とにかく相手の攻撃を耐え凌ぎ、待つしか無い。耐えていれば、自分達を足止めしようとした狐を倒して、魔界の仲間がやってきてくれる筈。そうすれば敵わないまでも逃げる機会は得られるだろう。

 そうは言っても、力の差は歴然としており、助けが来るまで耐え凌ぐ事すら難しいのは分かっている。それでも神綺は希望に縋り、襲い来る腕を睨みつけた。腕の中に居る己の娘を本当の意味で失う訳にはいかなかった。

 九本の腕が迫る。

 神綺は翼に漲らせた力を、一気に九つの腕へ撃ち放った。辺り一面が白く染まり上がり、空から伸びる腕達が塵になる。

 一瞬の内に凄まじい破壊を行った神綺は、油断せず次の腕に備えて力を蓄えようとした。

 その時、背後から笑い声が聞こえた。

 振り返った神綺が目を見張る。

 いつの間にか背後に巨大な隙間が出来上がっており、その中に目や腕や口や足、そういった人の体の一部分が今にも溢れ出んばかり押し詰められて蠢いていた。

 咄嗟に神綺は隙間から距離を取ろうとする。

 だが、隙間から人体の洪水が溢れ、濁流となって神綺を追ってきた。

 神綺は翼からレーザーを発射して食い止めようとしたが、ほんの一部を消し炭にしただけで焼け石に水を掛けた程の効果も無かった。焼け焦げた人体を乗り越えて、その後から大量の人体が押し寄せてくる。

 空に逃げれば避けられると判断した神綺が、空へ飛び上がる。

 だが甘かった。

 人体同士が組み上がり積み重なり大きな波となって、空へ飛んだ神綺の更に上へと伸び上がり、覆いかぶさってきた。

 大量の人体が積み重なり巨大な波となって、遥か上空まで追ってきたという、あまりにも凄まじい光景に神綺は意表を突かれ、一瞬完全に動けなくなった。

「あ」っと声を漏らし、混乱から回復した神綺は、せめて娘だけは逃れられる様に、脇へ放り投げた。自分が逃げる猶予は無い。身を震わせる神綺の頭上から、大量の人体がのしかかる。

 そこに暴風が吹いた。

 風が神綺の頭上からのしかかろうとしていた全てを吹き飛ばした。

 一瞬前まで襲いかかってきていた高波が消えた。

 神綺が恐怖で震える手を握り締めながら辺りを見回すと、地上に魔理沙を抱きかかえる女性が見えた。

 それで神綺の緊張の糸が切れた。

 魔理沙を見た瞬間、神綺は全てを忘れて、魔理沙の下へ向かった。娘を守る為に、それ以外の全てを忘れて、急いだ。

 それを横から腕が襲った。

 一瞬の油断が産んだ隙に、不意打ちが入る。神綺はそれを為す術もなく受けた。無防備にくらった攻撃で、意識を持って行かれ、神綺は地上に堕ちる。

 地上で魔理沙を抱きかかえていた女性は、慌てて神綺を受け止めようとしたが、届かず、神綺は地面に激突した。

 女性は急いで神綺の体を調べ、一先ず死んでいない事を確かめると、魔理沙をおろした。

 神綺に縋る魔理沙を尻目に、女性は空を見上げて溜息を吐いた。

「やっちゃったなぁ」

 すると空の式の主が同意する。

「ええ、その通り、やっちゃったわね。敵うと思って?」

 女性は首を横に振る。女性は天狗である。天狗は妖怪の中でも強靭な一族である。その中でも女性は強い部類であった。だがそれでも、空に浮かぶ大妖怪に敵うとは思えなかった。

「いえいえ。ただ判官贔屓というか、見捨てる訳には行かない性分で。これは天狗の総意ではなく、あくまで射命丸文個人の暴走である事をよろしくお願いしたいのですが」

「聞き入れましょう。別に、天狗もあなたも、誰も罰しようとは思わないけれど。私にとって、反逆とは幻想郷のシステムその物を破壊しようとする事であって、私に歯向かう事は、そうねぇ、やんちゃな子供に構ってあげているみたいで楽しいもの」

「さっきから見ていると、子供の頭を撫でている様には見えませんでしたが」

「あら、子供の頭を撫でるよりもずっと優しいわ。だってほら」

 式の主が指を打ち鳴らした。

「こうするだけだもの」

 文を挟み込む様に隙間が生まれた。隙間の奥からは何か怨念めいた声が聞こえてくる。

 文が慌てて背後に飛んだ瞬間、頭上に生まれた隙間から鉄錆で出来た腕が現れ、文を押し潰した。隙間が閉じると、腕も消え、後には地面に伸びて動かなくなった文が残る。一瞬の事だった。それ程迄の力の差があった。

 あっさりと文をのした式の主は、笑顔で手を叩く。

「重畳重畳。考えていた中でも随分と良い方向に進んでいる」

 式の主がそう言いながら、魔理沙の前に立った。

 魔理沙は後退りながら辺りを見回す。助けにきてくれた母親も天狗も倒れて動かない。遠くで霊夢が恐怖に震えている。後は自分だけ。

 魔理沙が顔をあげると、近づいて来る式の主と目があった。

 その目には何の感情のこもっていなかった。捕まえた人間にどんな残虐な事をしても構わないと言っている様な目をしていた。魔理沙は恐怖のままに懐から最後の魔導書を取り出し、後ろに飛び退りながら、あらん限りの魔力を込めて、発動させた。

 魔理沙と式の主の間に黄色い壁が生まれた。その壁は微細な針の集合であり、針の一本一本に辺り一帯を崩壊させるだけの魔力が込められている。

 黄色い壁の向こうに式の主が透けて見える。

 避ける素振りは見せていない。撃てば当たる筈だ。

 魔理沙は息を飲み、そして最初の一本を射出した。余波で爆発を起こしながら、針は式の主を襲う。それを皮切りに、次次に針が撃ちだされ、爆発を起こしながら、式の主へ向かう。その間にも、魔理沙は魔導書に魔力を込める。魔導書は魔理沙の魔力を呼び水に周囲から魔力を吸収し、針を生み出す。生み出された針は壁を形成し、巨大な壁が更に分厚く成長していく。それが弾となって撃ち出され、次次に爆発しながら式の主を襲う。

 やがて辺りの魔力が尽きて、針が途切れた。辺りには濛濛と煙が立ち込めていた。

 煙が晴れて視界が明るくなると、式の主が居た辺りに隙間が開いていた。

 魔術の悉くを飲み込んだ隙間が口を閉ざすと、無傷の式の主が現れ、魔理沙の下に近寄った。

 最後の最後まで、式の主に敵わなかった。

 もう対抗する手立ても、力も残っていない。

 魔理沙は疲れきって倒れこむ。

 魔理沙が取り落とした魔導書は式の主に踏みつけられ破断する。

 式の主は、魔理沙の隣に立ちながら魔理沙には一瞥もくれず、霊夢に向かって声を張った。

「さあ、霊夢。これが最後だ。最早魔理沙を助けられる者はお前しか居ない。あの時助けられなかった魔理沙を助けられるのは今しかない。このまま動かなければ、あの時の様に逃げ出せば、また魔理沙が死ぬぞ」

 そう言われて、霊夢が震える。何か言おうとして、何の声も出ない。魔理沙に向かって手を伸ばすが、すぐに落ちる。助けに行く事は出来無かった。

 それに失望した様子で式の主が呟いた。

「こうまでしても動けないか」

 魔理沙はそれを聞いて、倒れながら式の主に向けて言った。

「お前が、霊夢に式をつけたんだろう。怯えて動けなくなる様に」

 吐き捨てる様な魔理沙の言葉を、式の主は笑い捨てる。

「まさか。どうしてそんな事を私が望む。まして、言っただろう、博麗霊夢は他者からの影響を拒絶するのだ。私が付ける事の出来た式は、博麗霊夢の魔理沙への思いを助長するというものだけ。それすらも霊夢自身が望んでいたからこそ出来た事だ」

 魔理沙はその言葉に虚を突かれた。

 霊夢が怯えているのも、霊夢が魔理沙を見捨てたのも、全部この式の主が仕組んだ事だと思っていた。だがそうではないとすれば。

「じゃあ、あれはあんたの所為じゃないの? 嘘だ。信じられない」

「私の所為ではあるわ。同時に霊夢と魔理沙の所為でもあるのよ、アリス」

「意味が分からない」

「あの日、魔理沙を見捨てた時から、霊夢は全ての物に対して恐怖を抱く様になった。それが今、この場に置いては最大限に達しているという事。それは自分の力で過去を乗り越えるまで、いつまでも付き纏う呪い」

 それは、魔理沙を見捨てた時点では、霊夢は正気だったという事だ。式の主が式を付けたから、霊夢は魔理沙を見捨てたのだと思っていた。それではなく、霊夢が生来の気質で魔理沙を見捨てたのだとしたら。

 嘘だ。魔理沙にはとても信じられない。式の主が嘘を言っているとしか思えない。

 式の主は笑顔を見せると、隙間から剣を取り出して、倒れ伏す魔理沙に切っ先を向けた。

「さあ、霊夢の愛は何処まであなたを必要としているのかしら」

 剣が振り下ろされ、刃が魔理沙の腹に突き刺さる。魔理沙は腹を突き破った異物感に眉を顰め、次の瞬間襲ってきた痛みに叫び声を上げた。

「目で見て分かりやすくしましょう、霊夢。この通り、あなたが逃げればこの子は死ぬ。あなたが助ければこの子は助かる。どう? 分り易いでしょ?」

 霊夢にとって、確かにそれは即物的で分かり易い状況だった。傷付けられて血を流している様は、正に生命の危機に他ならない。霊夢は命が天秤に掛かっている事を改めてはっきりと認識した。だが、それでも動けなかった。

 助けなければいけない事は分かっている。助けに行きたいとも思っている。魔理沙の為なら自分の命を捨てたって構わない。霊夢はそう信じている。

 筈なのに、どうしても体が震えて動かない。自分の頭と体が切り離されてしまたかの様に、体が言う事を聞かない。

 魔理沙が血を流して今にも死にそうなのに。いつも守ると約束していたのに。自分にとって何よりも大切な存在である筈なのに。どうしても助けにいく事が出来無い。

 そんな霊夢の視界の中で、苦しがっている魔理沙と目が合った。思わず息を飲んだ霊夢を見て、魔理沙は苦しむのを止めた。そして苦しげな表情のまま、口元をこわばらせた。霊夢は、魔理沙が笑顔になろうとしているのだと分かった。

「私の事は良いから。お願い、霊夢、逃げて」

 苦しげな笑顔を見せながら、魔理沙が懇願する様に言った。

 苦しそうな言葉。

 自分を思っての言葉。

 助けなければいけない存在。

 助けにいけない自分。

 魔理沙の笑みを見ている内に胸が苦しくなった。

 震える事しか出来無い自分を思うと頭を掻き毟りたくなる。

 魔理沙を助けたい。

 けれど体が震えて動かない。

 動かない足を切り落としたくなる。

 逃げようとする頭をかち割りたくなる。

 思い通りにならない体がもどかしくて狂いそうになる。

 必死で喉の奥から込み上げてくる吐き気をこらえ、何とかして魔理沙に手を伸ばそうとする。

 そんな霊夢の視界の中で、魔理沙が涙を流しながら笑っている。

「霊夢、お願いだから。私の事は気にしないで」

 その声が途中で途切れ、苦しげな呻き声を上げて、魔理沙は力を失い倒れ伏した。

 式の主が魔理沙の体に剣を刺し込んでいた。

 それを見た、霊夢の視界が白く染まり。

 何が何だか分からなくなって。

 叫び声と共に、肺の中から空気を絞り出した。

 霊夢の絶叫が響く。理性を失った猿の様な叫びを聞いて、式の主は口の端を吊り上げる。

 式の主の視界から、霊夢が消える。同時に式の主はその場から飛び退いて、頭上から御幣を振り上げて襲ってきた霊夢を避けた。

 式の主が霊夢の周りを囲う様に隙間を開き、前後左右から同時に人の悪意の籠もったへどろを打ち出した。霊夢は絶叫を上げながら、御幣を振るい、あっさりとそれを封印する。

 触れるだけで行われる封印に抗う術は無い。どれだけ力を持った妖怪であろうと、今の霊夢に触れられれば封印されてしまうだろう。式の主はそう判断し、一層笑みを強めて、霊夢を迎え撃った。

 式の主は辺り一面に隙間を開き、霊夢に向かって幾つものへどろを撃ち出しながら、自分の背後に巨大な隙間を開く。へどろを封印しながら迫ってくる霊夢に向けて、背後の隙間から人の欲望が詰まった黒い巨人を生み出し迎撃させる。巨人の上半身が隙間から出て、霊夢に向かって拳を振り下ろす。霊夢が打ち下ろされた巨大な拳にぶち当たる。その瞬間、巨人は瞬く間に灰となり崩れ去った。巨人をあっさりと封印した霊夢は、止まる事無く、式の主へ迫る。

 霊夢が間近に迫ると、式の主は隙間に消え、離れた場所に現れた。それを追う様に、霊夢も姿を消し、式の主の背後に現れ、御幣を振り下ろす。

 式の主は背後から急襲してきた霊夢の眼前に隙間を生み出し、予め己の周りに生み出しておいた隙間と合わせて、その内から縄の様に細長い腕を幾つも生み出した。絡み合いながら掴みかかろうとする腕達が触れる直前、霊夢は姿を消す。

 式の主が横を向くと、離れた場所に霊夢が浮いていた。

 自分から距離を取った霊夢に向かって、式の主は余裕に満ちた表情を見せる。

 触れれば勝てる。霊夢は確かに強力な力を持っている。だがそれにもどうしたって限界がある。例えば数。式の主は今の攻防で、霊夢の封印は対象の力に左右されないが、対象となる数が多すぎれば封印しきれない事を理解した。式の主であれば、霊夢に触れる事を許さず、個人の力では対処出来ない程の物量で攻め立てる事が出来る。式の主が本気で攻めに回れば大量の隙間によって、封印すら間に合わないまま、圧殺される。

 霊夢もそれが分かったのだろう。一瞬怯んだ様に表情を変化させた。だが悩む理性を放棄した霊夢に退くという選択肢は存在せず、再びその顔に怒りと狂気を滲ませて、猿の如く叫び声を上げた。

 その叫びに、魔理沙は目を覚ました。

 痛みに身を捩り、見ると腹から血を流し、辺りに血溜まりを作っている。

 一瞬何が起こったのか分からなかったが、すぐに記憶を取り戻し、苦しんでいた霊夢の姿を探して辺りを見回した。やがて空から聞こえてくる猿の奇声が霊夢のものだと気が付き、空を見上げる。

 空では霊夢と式の主が戦っていた。撃ち込まれる大量の攻撃を防ぎながら式の主に近づこうとする霊夢と、大量の攻撃で牽制しつつ逃げ回る式の主。傍から見て、明らかに霊夢が押されていた。霊夢も人間離れした動きを見せているが、式の主が生み出す大量の隙間は明らかにそれを上回っていた。

 次第に霊夢の動きが鈍り始めている。

 どう見ても限界だ。

 霊夢を助けなくちゃいけない。

 立ち上がろうとすると、全身に痛みが走り、視界が明滅した。自分の体にも限界が来ている。

 何とか立ち上がり、揺れる視界で空を見上げた。

 霊夢を助けなくちゃいけない。

 だが助けようにも自分が頼りにしていた五冊の魔導書は既に失われている。自分の弱さが口惜しい。魔導書の力無しで、自分があの化け物に立ち向かえるとは思えない。

 それでも何とか霊夢を救いたい。

 何とか霊夢を助けてあげたい。

 その時、自分の懐に入った硬い感触に気が付いた。痛みに耐えて、懐に手を入れて、ミニ八卦炉に触れる。

 魔理沙から受け継いだ魔道具。

「力を貸して、魔理沙」

 そう祈り、血を吐き出しながら、ミニ八卦炉を取り出した。

 空に居る式の主に照準を定め、ありったけの魔力を込める。

 自分の中の魔力がミニ八卦炉に吸われていく。

 魔力が空になり生命力が失われ、視界が黒く閉ざされていく。

 腕が震え、照準がぶれる。

 視界が黒く閉ざされ、二人の姿が見えなくなる。

「お願い、魔理沙」

 憧れの存在だった魔理沙へ祈る。

 きっとこの状況でも、魔理沙なら霊夢を助ける事が出来た筈だ。

「お願い」

 真っ暗な視界の中で、魔理沙の姿を思い浮かべる。

 今だけで良い。自分を本物の魔理沙にして欲しい。

 暗闇の中に、魔理沙の笑顔がはっきりと蘇った。元気づける様な晴れやかな笑顔が自分に向けられた。

 その笑みに勇気付けられた魔理沙の目が開き、はっきりと空で戦う霊夢と式の主を見据える。

 腕の震えが消え、ミニ八卦炉が式の主を補足する。

 魔理沙は歯を食いしばり、限界まで込めた魔力を式の主へ撃ち放った。

 霊夢と戦っていた式の主が地上を見下ろした時には全てが決していた。

 生み出された極大の光は一瞬で式の主まで到達しその身を飲み込んだ。辺りに生まれていた隙間も、空に浮かぶ雲も、進路にあるものは全て吹き飛ばされる。

 勝利を確信した魔理沙だが、光が収まった後にも尚、空に式の主が浮いているのを見て、愕然とする。ありったけの魔力を持っても、式の主を殺すには至らなかった。魔理沙の魔砲を受けた式の主は、服や皮膚を焼け焦げているだけで、大した怪我も無い。

 だが確かに僅かの間、式の主の動きは止まっていた。光に視界を奪われ、霊夢の姿を見失っていた。

 それで十分だった。

 式の主の頭上に現れた霊夢は、式の主が反応するよりも前に、式の主の頭に触れ、振り向こうとする式の主に対して、全力で封印を施した。

 それが決着となった。

 式の主の体から自由が奪われる。空に浮いている事が出来なくなって墜落し地面に激突する。

 その傍に力尽きた霊夢もまた落ちた。痛みに顔を顰めながら身を起こした霊夢は、敵を封印した事で緊張が解け、狂乱の気は失せている。

 霊夢の目の前で、式の主は溶け崩れていく自分の手を見つめながら「見事」と呟いた。

「あなたなら私を殺せると信じていた」

 どういう事と問う霊夢に、言葉そのままですわと答える式の主。

「式の付いた八雲紫は不死と言っても過言では無かった。殺せるのは、式と隙間の両方を封じる事の出来る博麗霊夢だった。それだけです」

 式の主は弱弱しく笑みを漏らして、倒れた魔理沙に視線を向けた。

「まあ、少し力が足りなかったので、あれこれ手を回しましたが、何とか成りました」

「どういう事? まるで死にたがっていたみたい」

「誰が自ら死等望むというの?」

「じゃあ、どういう意味?」

「幻想郷を存続させる為にはあなたが私の跡を継ぐ必要があった。それだけですわ。私の死はその過程の副次的なものに過ぎません」

「私はあんたの跡を継ごうなんて」

 拒絶する霊夢に向かって、式の主はくふふと笑う。

「私が何も言わずとも分かるでしょう。この幻想郷があるからこそ、霧雨魔理沙は存在していられる」

「何、馬鹿な事を言っているの! 魔理沙はあそこに居る! 例え幻想郷がどうなったって!」

 式の主は激昂した霊夢から視線を逸し、呪われた桜の大樹を見上げた。咲き誇っていた姿は見る影も無く、今は枯れ木が物寂しげに立っている。

「この世界はあらゆるものの犠牲の上に成り立っている。それは醜く残酷な事だと思いませんか?」

 それを聞いた霊夢は頭を振った。

「確かに残酷かもしれない。でも私は、魔理沙が居るこの幻想郷を美しいと思う」

「美しく残酷な世界。言い得て妙ですわ」

 式の主は笑い、溶け崩れて消えた。

 それと同時に、霊夢は地面に倒れ伏した。

 その光景を見つめていた魔理沙が霊夢の名を呼ぶ。痛む重たい体に鞭打って、何とか立ち上がり、霊夢の傍まで寄って、その体を抱き起こした。

「霊夢、大丈夫?」

 すると霊夢が目を開いた。

「魔理沙」

 霊夢がゆっくりと笑みを浮かべる。

「安心して、私はきっと幻想郷を守り続けてみせるから。今度こそあなたを守り抜いて見せる」

 そう告げた霊夢の笑顔は力強く、魔理沙もまた笑みを零した。

 未だに霊夢は自分の事を魔理沙だと思い込んでいる。だがそれでも良い。霊夢が元気であってくれればそれで。自分にとって大切なのは何よりもまず霊夢なのだ。

 霊夢が立ち上がり、背伸びをした。

「おい、動いて大丈夫なのかよ、霊夢」

「大丈夫だって言ったでしょ?」

 さっきまで全力で戦っていた筈なのに、もう普段と変わらない平静な態度に戻っている。やはり霊夢はこうでなくちゃいけない。その強さが、何だか昔の霊夢を見ている様で、魔理沙には嬉しかった。

「とにかく終わったな」

「何が?」

「何って、色色と。そう言えば、これで博麗の巫女のお披露目も済んだんじゃないか? すっかり忘れていたけど」

「ええ、でも最後の仕上げをしないとね」

 最後の仕上げ?

 魔理沙が不思議に思っていると、霊夢が虚空を見上げて名を呼んだ。

「藍!」

 何を言っているのか分からず困惑する魔理沙の傍に、八雲藍が現れる。傷だらけの藍は、ふらつきながら、霊夢の前でかしずいた。魔界の足止めご苦労と労いの言葉もそこそこに、霊夢は尊大に告げた。

「継承の儀を終えた」

 藍が一層頭を下げる。

 魔理沙には二人が何をしているのか分からない。

 すると霊夢が魔理沙に向けて微笑みんだ。

「安心すると良い。式とはあくまで従。博麗霊夢が主である事は確かだ」

 それで全てを理解し、魔理沙は全身を総毛立たせた。いつの間にか霊夢の体に式の主が乗り移っていた。

「式とは結局のところ、目的に対して助力を与える補助装置に過ぎない。私という人格もまた、願望を叶えようとする際に付随する、自分自身ですら認めたくない全てを引き受けさせる為の受け皿に他ならない」

 そう言って、霊夢はどこからともなく扇子を取り出し広げた。

「つまり私は博麗霊夢本人である。博麗霊夢に別の存在が乗り移った訳では決してない。だが敢えて他の名で呼ぶのであれば、八雲紫と呼ぶが良い。醜い全てを八雲紫に押し付ける事が、博麗霊夢の抱く願望の一つなのだから」

 その瞬間、魔理沙は霊夢に掴みかかった。

「式じゃないか! それは! あんたが霊夢に付けた式の所為でそうなったんでしょ!」

「間違いではあるが、一部分では正しいな」

「ふざけるな! 折角倒したと思ったのに! ようやく霊夢が元気になると思ったのに! あんたはまだ霊夢を苦しめるつもりなの?」

「ならばどうする? 私を消すか?」

「当たり前でしょ!」

「どうやって?」

「それは分からないけど、式を知っている人に剥がしてもらえば」

「止めておいた方が良い。霊夢が大切ならね。この式は霊夢の承諾無く外す事は不可能だ。霊夢は自分の望む変化以外を受け付けない。式を外すのであれば、この式を外したいと霊夢自身に思わせなければならない。この式は確かに霊夢自身が望んだものなのだよ。霧雨魔理沙という存在を生きながらえさせる為にね」

 襟首を掴む手に霊夢が触れた。それだけで魔理沙の体から力が抜け、霊夢を手放してしまう。

「魔理沙を見捨ててしまった罪悪感、魔理沙を守ろうとした理想の自分と魔理沙を捨ててしまった現実の自分との乖離、魔理沙と暮らしたいという願いの為に他者を生贄に捧げている良心の呵責、霊夢の心は既に窮まっている。それを支えている魔理沙という存在を失えば必ず心は崩壊する。自分に式がついている事や、お前が偽物の魔理沙である事等、現実認識を正しくすれば、当然魔理沙を失う事と同義である。そして魔理沙を失う事は、霊夢の心を壊すという事。この式を外すには、霊夢の心を壊さなければならない」

 あまりの話に魔理沙は言葉を失った。

 霊夢が底意地の悪い笑顔を見せる。

「だから精精大切に扱うと良い。霊夢が壊れれば幻想郷もまた崩れる事は分かっているだろう? 八雲紫が居なくなった今、結界を維持出来るのが、この霊夢だけとあれば尚更だ。だからお前達は、幻想郷が霊夢の望む通りの世界であると信じさせなければならない。何、安心するが良い。霊夢の望む世界については、霊夢以上に私が良く理解している。私は霊夢の願望が具体化したものなのだからね。だから幻想郷は私に従っていれば良い」

 霊夢が藍へと視線を移した。

「今の事を、郷中に広めよ」

 藍は恭しく頷くと、その姿を消した。

 藍を見送った霊夢は、再び魔理沙と向き合い、その頬に手を這わせる。

「お前もだ、魔理沙。魔理沙が弱れば霊夢の心は追い詰められる。その腹の傷、自愛しろよ」

 魔理沙が飛び退いて、お腹を抑える。と、痛みが消えていた。気が付くと、全身の傷も消えている。

「あんた、何を」

 魔理沙が険を込めた眼差しを霊夢に向けた。その視線の先で、ゆっくりと霊夢が倒れようとしていた。

 一瞬前のやり取りを忘れ、魔理沙は慌てて霊夢を抱きとめる。霊夢は呻きながら顔を上げた。寝ぼけた様な眼で魔理沙を見つめ、そうして慌てて顔を上げ、辺りを見回した。

「あいつは?」

 霊夢に戻っている。

 力無く魔理沙は答える。

「倒したよ」

「良かった」

 霊夢が笑みを見せる。

「魔理沙が無事で良かった」

 霊夢の笑顔を見ていられなくて、魔理沙は思わず霊夢を抱き締めた。何も解決していない。まだ霊夢の中に八雲紫は残っている。幻想郷を操り、魔理沙を殺し、霊夢を苦しめる悪魔が残っている。

 だがそれをどうする事も出来無い。八雲紫が呪いをかけたから。式がついていると告げる事も、式を引き剥がす事も出来無い。もしもそんな事をすれば霊夢が狂ってしまうかもしれないから。それは八雲紫の嘘かも知れないが、あの発狂していた霊夢の様子を思い出すと、嘘だと切って捨てる事が出来無い。霊夢が壊れてしまったら取り返しがつかないのだから、試す等出来る筈が無い。

 涙を零す魔理沙を、霊夢が心配する。

「大丈夫? 傷が痛むの?」

 体の傷は治っている。幻痛じみた疼きを感じるが、そんなの気にする程の事じゃない。顔を上げれば、助けに来てくれた神綺も文も立ち上がり、こちらに歩いてくる。

 幻想郷は元に戻るだろう。それは間違い無い。

 だが確かに傷が付いている。磨いても取り去る事の出来無い傷がはっきりと。

 その傷はあくまで魔理沙の視点から見えるだけで、それを教えなければ霊夢はその傷を見る事は無い。周りが黙っていれば、霊夢はそれと気付かない。知らなければそれは幸せの筈だ。霊夢自身がそう言っていたのだから。

 こうして博麗の巫女は先代から継承された。スペルカードルールを下地とした妖怪と人間の関係が生まれ、新しい幻想郷へと生まれ変わった。誰もが霊夢一人を観客にして幻想郷を演じる様になった。

 魔理沙は何度霊夢に本当の事を告げようとしたか分からない。式が支配する幻想郷に疑問を抱き、例え霊夢が犠牲になってでも、八雲紫を暴いた方が良いのではないかと思う事もあった。

 だが出来なかった。

 霊夢を壊してしまう事だけはどうしても出来なかった。

 それから霊夢と魔理沙は、やって来た吸血鬼を撃退し、西行妖の開花を食い止め、百鬼夜行を鎮め、月の異常を明かし、花の乱れを収め、新たな巫女を加え、天人を懲らしめ、宝船の謎を暴き、神霊を消し去り、里の秩序を調え、クーデターを叩き潰してきた。

 それもやがて終わりを迎える。

 ある日、魔理沙という名の少女は役目を終え、魔理沙という名を引き継いだ。




「霊夢」

 東風谷早苗は苦しそうに呟きながら、用意した料理を持ってその部屋の前に立った。部屋の中から聞こえてくる苦悶の叫びを聞いていると、涙が出そうになる。それを飲み込んで溜息を吐く。

 部屋の中で叫んでいるのは、霊夢だ。式を引き剥がす過程で、トラウマを刺激され、それからずっと過去の記憶に苦しみ続けている。博麗の巫女が狂乱している等と噂になってはいけないので、出来るだけ人目に付かない様、博麗神社に移送され、納戸を改造して作られた独房に閉じ込められた。

 そして同じ巫女だからという理由で早苗が身の回りの世話と、博麗の巫女が持つ機能の出来る限りを引き受けている。

 それを頼まれた時、早苗は二つ返事で了承した。霊夢の世話や博麗の巫女の代行について不満は無かった。友達である霊夢が苦しんでいるのだからそれを助けてあげたかった。

 むしろ不満があったのは、霊夢をこうしてしまった挙句、平然とその世話を他人に頼むさとりに対してだ。レミリア達が脱出する騒動に合わせて、霊夢に付いた式を消し去ろうという試みが崩れた所為で、トラウマを刺激するという強引な方法を取らざるを得なかったとさとりは弁解していたが、苦しみ続けている霊夢を思うと、もっと別の方法があったのではないかと考えてしまう。何か別の意図があったのではないかと疑ってしまう。

 だが今ではそんな事どうでも良い。

 本当にどうでも良くなった。

 最初に抱いていた、霊夢を介護し、癒そうという思いも無くなっていた。

 ただただ疲れた。

 今は霊夢を哀れに思う心だけが、早苗の足を義務的に部屋まで動かしている。

 もう二年も、霊夢は苦しみ、悶え、叫び続けている。一向に止まない霊夢の叫びに、早苗は自分の気が狂うのを感じていた。時折無性に霊夢を憎憎しく思う事がある。その叫び声を止める為に、殺してしまいたいと思う事すらある。ふとした拍子にそう思ってしまう自分が恐ろしく、そして自分の精神をすり減らしていくこの苦行から早く開放されたかった。だが一向に霊夢の叫びは止まない。いつまでも狂い続けている。

 早苗が部屋を開けると、悪臭が鼻をついた。部屋の中は壁の様に板が張られていて、向こうとこちらが仕切られている。こちら側には何も無い。ただ外と霊夢を隔てる為の空間に過ぎない。向こうには霊夢が居る。だが仕切りの板によって向こうは見えず、霊夢がどうなっているのか分からない。辺りを漂う臭いから、酷い有様になっている事だけは分かる。早苗は出来るだけそれを考えない様にしながら、仕切り板の下側についた渡し口を開け、そこにある食べ残しの入った食器を引き下げ、用意した二日分の料理を入れた。それでお世話はお終い。また明後日同じ事をするだけだ。

 初めの内はもっと甲斐甲斐しく世話をしていた。

 最初はこんな牢屋にも入れていなかった。だが初日に霊夢が脱走して騒ぎになった為、仕方無くこの独房を作って入れた。初めは仕切りが無かったが、四日目に部屋に入った早苗が不意打ちで襲われた為、格子によって仕切りを作る事になった。十日目で霊夢が新たな式を生み出そうとした為、封印の為の注連縄と札をこさえた。一ヶ月を過ぎた頃、再び早苗が襲われた為、早苗が奉る神、諏訪子と神奈子も介護に加わった。それから一年は何とかやっていたが、癲狂している霊夢の世話をする内に早苗の精神が目に見えて疲弊しだした為、一年半を過ぎた頃に神奈子と諏訪子は格子に板を張って目隠しをして、これからは口から料理を受け渡すだけにしろと言った。早苗はあまりにも酷い扱いだと抗議したが、神奈子に張り倒された為、仕方無くそれを認め、板の向こうに食事を入れるだけの、最早介護と呼べない粗末な世話をする事になった。そう語ると神奈子の非道さが目立つが、神奈子の行動は早苗を思っての事であり、力づくで認めさせられた早苗は確かに安堵を覚えていた。

 霊夢のお世話をしていると精神がまいってくる。その叫びも、悪臭も、介護を放棄した自分も、全てが嫌だった。霊夢の世話をしていると、何もかもが自分を責め立てている様な気がしてくる。

 早苗は逃げる様にしてその部屋を出て、今度は神社の掃除に取り掛かった。掃除をすれば埃はとれるが、廃墟特有のこびりついた死は拭えない。もうこの博麗神社は霊夢を閉じ込める為にしか機能していない。臨時休業として立入禁止にした為、参拝客は皆来ないし、見舞いに来た霊夢の知人も狂乱した霊夢の痛痛しい姿を見れば殆どの者が二度と来なくなるし、それでも見舞いに来る者は全て早苗が追い払った。少なくとも自分であれば、狂った自分の姿を見られたくないと思ったからだ。それが良くなかったのかもしれないと早苗は思う。誰も来ないうら寂しい癲狂院で介護をし続けるというのは、酷く辛かった。その後、介護放棄をした今となっては、霊夢の姿を絶対に見せる訳にはいかない。霊夢の為にも早苗の為にも。そう考える自分がまた恐ろしく、早苗は気分が悪くなって、絞っていた雑巾を置いて俯いた。

 その時、ありえない声を聞いた。

「大丈夫?」

 はっとして早苗が顔を上げる。

 信じられなかった。

 霊夢の元気な声が聞こえるなんて。

 幻聴かと思って顔を上げると、そこにはあの元気だった頃の霊夢が立って、心配そうな顔で自分を見下ろしていた。早苗はあまりの驚きに息が詰まり、引っ繰り返りそうになった。

「どうしたの?」

「いや、霊夢? だよね?」

「違うってんなら、本物の霊夢を連れてきてみなさいよ」

「本当に、霊夢?」

「だからそうだって言っているでしょ。何よ急に」

「嘘」

 早苗は口元を抑え、涙を流し始めた。

 それを怪訝な目で見つめてから、霊夢は下に落ちた雑巾を見つけた。

「ああ、掃除してくれてたの? 悪いわね。後は私がやるから」

 信じられない。

 あの霊夢が、まさか元気になってくれるなんて。

 奇跡としか思えない。

 だが例えどんな奇跡だとしても、起こってくれたのなら、ただただ嬉しい。

「待って、霊夢! ちょっと待ってて!」

「は? どうしたの?」

 霊夢の問には答えず、早苗はその嬉しさを胸に外へ飛び出し、霊夢が元気になった事を霊夢の知り合いに触れ回った。霊夢の狂乱が暗黙の了解として暗雲となり垂れこめていた幻想郷へ、一気に光が刺した。

 誰も彼もが狂喜し、こぞって博麗神社に集い、何時からともなく、宴となった。

 皆が皆喜んでいたが、特にずっと苦しんでいた早苗の喜び様は尋常で無く、下戸だというのに酒の飲み比べに参加し、しかも鬼を相手に勝ってしまう程の浮かれっぷりを見せていた。

 久しく無かった盛大な宴の中心には、当然博麗霊夢が居り、どうして皆が喜んでいるのかいまいち理解出来ない様子ではあったが、それでも入れ替わり立ち替わりやって来る友人達が皆輝かんばかりの笑顔を見せるので、それにつられて霊夢もまた盛大に笑っていた。

 その日は本当に、幻想郷史に類が無い程、盛り上がった宴となった。

 その裏で、霊夢を閉じ込めていた独房に、兎を伴ってさとりと永琳が訪れた。二人は遠くで聞こえる宴の歓声を背に、鍵を開け、中に踏み入った。悪臭に鼻を摘みながら仕切り板を引き剥がすと、荒れ果てて凄惨な部屋の中に博麗霊夢の死体があった。

「やはり、ですね。これで幻想郷から八雲紫という名の式は消えた。でも同時に、霊夢という名の少女も消えてしまった」

 さとりは静かにそう言って、両手を合わせ祈りを済ませると、部屋の中を見回した。床は汚れていて分からないが、壁と天井には傷跡と血の跡で、びっしりと文字同士を食いつぶし合いながら、何かが書かれていた。

「謝罪ですか」

 さとりがそう呟き、永琳も頷いた。

「魔理沙に、アリスに、フラン。早苗にも宛ててある。私にもあるし、あなたのもあるわね」

「それだけではありません。大半は潰れてしまって読めませんが、恐らくこの幻想郷に居る全ての存在に宛てたのでしょう」

 永琳が連れていた兎に死体の埋葬と部屋の清掃を命じると、兎達は急いで仕事に取り掛かった。運びだされていく霊夢の亡骸を見つめながら、さとりは悲しげな顔をする。

「どれだけ狂っても霊夢は、博麗の巫女だったという事でしょうか。彼女は誰よりも幻想郷を愛していた」

 それに永琳が答えて言った。

「さあ。ただ幻想郷全てに責め立てられていたのは確かね、これを見る限り」

 遠くから宴の笑い声を聞こえてくる。その中心には、霊夢が居る。

「依代を持たない式なんて本当なら存在出来る筈が無い。それなのに今の霊夢は、依代も無く存在出来ている。それが出来ているっていう事は、この幻想郷に存在する全てが同じ霊夢を思い、同じ霊夢を願った結果に他ならない。奇跡としか言い様が無いわ。恐らく八雲紫が場を整えていたのでしょう。こうなる事を見越して」

「原因が何であれ、結果は既に実現しています。私達の願望によって、この幻想郷を治めるに相応しい英雄が生み出された。それは私達の観測によって、半永久的に存在し続ける。元の博麗霊夢の意思を無視して」

「良い事じゃない。幻想郷にとっては」

「私が言えた義理じゃないのかもしれませんが」

「いいえ、言葉と行動と過去は全て切り離して考えるべきよ」

「あの博麗の巫女を醜く思う私は間違っているのでしょうか」

 こうして霊夢という名の少女は消え、後には霊夢という名の幻想が残った。




 少女と巫女が本殿へ足を踏み入れると、博麗霊夢が二人を出迎えた。霊夢はかつてと同じままの幼い姿をしている。

「ようこそ、さとりに早苗。今日はどうしたの?」

「これから外の世界に言って、人間、妖怪両方の組織と会談して、これからの幻想郷の在り方を模索してくる」

「何か面倒そうな事をしに行くわね」

「確かに面倒だけど、でも必要な事よ」

「まあ好きにしてよ。結界は緩めておくから。早苗も大変ね。外の世界に居たばっかりに、そんな面倒な事を」

「いえ、でも、外の世界にも行きたいなって」

「ホームシック? 幻想郷より美しい世界なんて無いのに」

「その美しい世界を存続させる為にも今のままじゃいけないの。じゃ、結界を通らせてもらうわよ」

 少女と巫女は本殿を出て、寄ってくる子供を引き剥がしながら、外へ向かう。歩きながら巫女が問いかけた。

「本当に幻想郷が一番美しいんですか?」

「それはこれから自分の目で確かめなさい」

「はーい。でも初代の早苗様は、向こうの世界を捨ててこちらの世界にやって来た訳で、あんまり外の世界って良くないのかなって思わないでも」

「なら行くの止める? 代役を立てるけど?」

「あ、いや、でも外の世界に憧れる心もありまして」

 適当な事を言う巫女に向かって、少女はこれ見よがしに溜息を吐く。

「もうあの頃から随分と時が立った。外の世界も、昔に比べたら随分変わったわ。少しずつ妖怪と人間の共存も始まっている」

「そうなんですか? 外の世界で妖怪は生きていけないって聞きますけど」

「先月視察してきた限りだと、まだまだ妖怪は隠れ住んでいるみたいに見えた。でも確かに交流が生まれているとも聞いた。とにかくそれを確かめて、今後私達がどうするべきかを決めないといけない。いつまでも過去を演じ続ける幻想郷では」

「私から見ると、別に今の幻想郷のままで全く問題無いと思いますけど。風神録はちゃんと演じ切ったじゃないですか。大盛況でしたよ。流石私。やんややんや」

「来年の緋想天はともかく、再来年の地霊殿は今年の風神録以上に盛り上げてみせるわよ。ええ、あなたの言う通り、まだ大丈夫。少なくともあなたの次の代までは。でもその先はどうなるか分からない。少しずつ綻びが現れ始め、妖怪や結界の力が弱まってきている」

「そこはさとり様が頑張って何とかして下さいよ」

「だからこうして外の世界にも赴いて居るんでしょう? でもね、どちらにせよ、幻想郷は幻想郷として生きていく事は難しいでしょうね。外の世界との共存を図る必要がある。でもそうすると」

「どうなるんですか?」

「霊夢が消える」

「え? どうして?」

「博麗の巫女は閉ざされた幻想郷の中だけで存在出来るからよ。外という現実に繋がり、霊夢に対する認識に少しでも異物が混じれば幻想は崩壊する」

「そんな嫌ですよ。霊夢様が消えるなんて。何とかして下さい」

「だからこうして外に赴いて居るの。でももう人間と妖怪という対立構図自体に無理があるのかもしれない。いずれ博麗の巫女は不要になるわね。霊夢はお飾りに」

「霊夢様が消えないのならそれだって」

「そうやって霊夢に寄り掛かっている事自体に問題があるの。住民達が自立してくれればもう少し選択肢も増えるのに」

「良いじゃないですか。生まれた時から居たんですよ。幻想郷の守り神は。お母さんみたいなものです。姿は子供ですけれど」

「でもねぇ、今のままじゃ」

 考えこみ始めた少女の先を歩いて、思考放棄した巫女は肩を竦める。

「ま、難しい事は任せます。今日の事もこれからの事も。全部さとりさんに任せて、私は外の世界の観光を」

 そんなお気楽な巫女に、少女が釘を刺した。

「全部こちらに丸投げするというのなら、あなたの命位ははあなたに任せるわよ」

「な、何ですか? 脅しですか? 私は屈しません。絶対に、全部丸投げして、決死の思いでのんびりと外の世界観光を」

「人間側の役人共はこちらと何度か会っているし、あなたは同じ人間だから大丈夫でしょうけど、妖怪側の方は、トップがあの人間の天敵と言われる吸血鬼だし、あなた血を吸い尽くされて死んでも知らないから」

「何ですか、それ! 吸血鬼? 怖!」

「冗談よ。大丈夫」

「大丈夫じゃないじゃないですか! そんな怖いのと会いに行くんですか? 正直無理ですって」

「大丈夫だって。元元は幻想郷の住人だったんだもの」

 少女は懐かしそうに顔を綻ばせてながら、怖がる巫女の袖を引っ張って、結界の向こうへと消えた。




 二人が結界の向こうに消えてからしばらくして、博麗神社の境内に突然空から少女が二人降ってきた。地面に激突した少女の片方がお尻をさすりながら立ち上がる。

「痛ったぁ。メリーは大丈夫だった?」

 もう一人の少女も相手のお尻をさすり、手を払われて、立ち上がる。

「大丈夫。ちゃんと向こうを確認してから飛び込むべきだったわね。蓮子が勇み足で踏み込むから」

「まあ、大丈夫だったから良し。さて、ここはっと」

 二人が辺りを見回していると、そこに子供達が集まってきたので、丁度良いとばかりに場所を尋ねた。子供達が博麗神社と答えると、蓮子とメリーは嬉しそうに手を合わせる。

「本当に博麗神社に来れたみたい!」

「やっぱり結界の向こうに本物があったのね!」

 騒ぎ合う二人を眺めていた子供達はやがて、外から来た人かと二人に尋ねた。二人は騒ぐのを止めて子供達に頷いてみせる。

「そう! 結界を通って、あなた達の言う外の世界から来たのよ!」

「もし良かったら案内してくれないかしら?」

 すると子供達は、本殿を指さして、外から来た人は博麗の巫女に会わないといけないと言った。

「博麗の巫女?」

 子供達は、博麗の巫女について、説明する。それはもうずっと昔から幻想郷を治めていて、年を取らず、いつまでも子供の姿をしていると言う。

「年を取らないって……人間じゃないって事?」

 当然の疑問に、博麗の巫女は人間だという答えが返ってきて、蓮子は困惑する。

「いつまでも子供のままってそんなの人間じゃない気がするけど。もしかしてあんた達もいつまでもその姿なの?」

 そう言って蓮子が目の前の子供達を指さすと、子供達は首を横に振った。博麗の巫女だけが特別なのだという。

 とにかく会わなくちゃいけないから来いと言うので、胡散臭いなぁと疑いながら、蓮子とメリーは子供達の後に続いた。

 本殿に入り、廊下を歩き、襖の前で子供達が立ち止まり、床に正座した。それを蓮子達にも強要する。そうしてお客様が参りましたと告げた。

 本当にそんな存在居るんだろうか、蓮子は息を飲む。

 そうして襖が開かれた。

 蓮子が緊張で身を強ばらせる。

 だが、襖の向こうには誰も居なかった。

 子供達が驚きの声を上げる。

 やっぱり子供達の冗談かと蓮子は拍子抜けして子供の様子を窺った。子供達は慌てた様子で、博麗の巫女を探してくると言って、駆けて行った。子供達の様子を見るに、どうやら子供達自身は真剣に、博麗の巫女という存在が居ると思っているらしい。だがずっと昔から子供の姿のまま生き続けている人間なんて俄には信じ難い。

 蓮子とメリーが、イマジナリ・フレンドや座敷童等、子供の元に現れる不存在について論じ合っている間も、子供達は博麗の巫女を探し続けた。何だか慌ただしくなったので、肩身の狭い思いをしつつ蓮子とメリーが帰った後も、博麗の巫女は現れず、話は大人達の耳にも入り、夜になっても捜索が行われた。けれど見つからなかった。やがて帰ってきた風祝の巫女に皆が相談し、それを聞いていたさとりはもう眠らせてあげなさいと言った。それで皆が察した。博麗の巫女は消え、これからは否応無く外の世界に踏み出さなければならないのだと。

 こうして霊夢という名の存在は消えた。


 さとりは、ご清聴ありがとうございましたと言って、八雲紫という名の妖怪が計画した幻想郷の設立から自立までを語り終えた。

 フランはそれに拍手で応えた。

Fin

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