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編 ~ Does the Proprium Dream of Genuine Marisa?

 先代が亡くなられてから、私がずっと霊夢を支えてきた。霊夢を支えられるのは私しか居なかった。いや、私じゃない。魔理沙だ。魔理沙だけが霊夢の心の支えになった。その事を誰もが知っていた。誰もが知っていながら誰も何も言わなかった。誰もが黙黙と幻想郷を演じていた。全てはあの八雲紫の掌の上。だがそれでも良い。私は霊夢を守る事が出来れば十分だった。だから私もまた真実に蓋をして霊夢と一緒に様様な異変を解決した。

 やって来た吸血鬼を撃退し、西行妖の開花を食い止め、百鬼夜行を鎮め、月の異常を明かし、花の乱れを収め、新たな巫女を加え、天人を懲らしめ、宝船の謎を暴き、神霊を消し去り、里の秩序を調え、クーデターを叩き潰し、そして今。

 過去の事が私の中に去来する。様様な思い出が私の事を押し潰そうとしてくる。

 お母さん。

 来なくて良かったのに。

 思い出したら辛くなるから、来て欲しくなかったのに。

 それでも来てくれた事が嬉しくて。

 けれども顔を見ると悲しくなって。

 泣いて泣いて。

 無理矢理追い返して、今は一人。

 急速に限界が近付いている。

 最早動く事もままならない。

 泣いた所為だろうか。

 安心した所為だろうか。

 私の次はアリスが務めるそうだ。

 お母さんが泣きながら言っていた。

 二度もアリスを失わせて申し訳ないけれど。

 けれど優しく賢いあの子なら私の後を立派に務め上げてくれる。

 きっと霊夢に寂しい思いなんかさせない。

 今、こうして布団の上で目を瞑ると、かつての事が次次と込み上げてくる。

 それももうすぐ止まるだろう。

 もうすぐ二度と明けない夜が来るだろう。

 ならば最後に思い出すのは、きっと全てが閉じ込められたあの日の事が相応しい。


 膨大な光の奔流が私の持つミニ八卦炉から溢れだして、視線の先で逃げようとしてた天狗を包み込んだ。恐ろしい程の破壊音が鳴り響く。辺りに煙が立ち込め、それが風で晴れると、両手を上げた天狗が焼け焦げた地面の上に立っていた。

「降参。降参です」

 それを聞いて私と霊夢はスペルカードをしまって天狗の前に降り立った。

「じゃあ、通してもらうわよ」

 分かりましたよと天狗は肩を落として巨大な門をノックした。門が一人でに開き、山の中に掘られた天狗の宮殿が現れた。

 霊夢が興味深そうに覗きこむ。

「天狗の癖に穴の中に住んでいるの?」

「天狗は何よりも不意打ちに弱いので」

「そういうものか?」

 私の問いに天狗は頷く。

「羽がね。脆いのよ。体に比べて」

 そう言って笑った。

 天狗の言葉を聞いて思わずぎょっとした。

 ここは天狗の本拠地である。その中心で、あっさりと自分達の弱点をばらしてしまって同族達に睨まれないのだろうか。他人事ながら不安になった。

 私が天狗の事を心配して見つめていると、天狗は不機嫌そうな顔になる。

「何? 言っとくけど、今回負けたのはスペルカードルールの所為だからね。本気になればあんた達なんか簡単に倒せるんだから。勘違いしないでよ」

 別にそんな勘違いはしていない。

「真っ向から戦えば、例え鬼とだって互角に戦える」

 霊夢が天狗の傍を通りぬける。

「その割に、鬼の支配下に居たって聞いたけど」

 天狗を挑発する様な霊夢の発言に私は再びぎょっとする。もう一度言うがここは天狗の本拠地である。無闇に彼等を刺激したら生きて帰れないかもしれない。怒っていやしないかと天狗を見ると、案の定怒りを滲ませていた。

「さっきも言ったでしょ。私達は奇襲に弱い。岩の砦をあっさりとぶっ壊してくる奴等相手じゃ、常に気を張ってないといけない。数も多かったし。そんなのと事を構えるよりは、利益を捨ててでも安全に生きる。種の存続こそが、天狗の至上目的」

 天狗の主張を霊夢は聞いていなかった。さっさと奥へと進んでいってしまった。

「ちょっと聞きなさいよ! その前に一人で行くな! 私が案内するから!」

 天狗が霊夢を追いかける。私もその後を追った。

 岩を削って作られた廊下は果てしなく広かった。松明も無いのに柔らかな光で満ちていて、頭上高くの天井がはっきりと見えた。壁は鏡面の様に光を反射する程磨かれている。恐らく河童達が粋を凝らして作ったのだろう。

 分かれ道に差し掛かる度、天狗は真っ直ぐ進んでいく。ずっと真っ直ぐ進んでいくとやがて巨大な門が見えた。表の門は飾りも何も無かったが、今度の門は一面に模様が彫られている。流れる様な模様は何を意味しているか分からない。

 天狗が門の前に立つと一人でに開く。地獄の蓋が開いた気がした。

 天狗が門の脇に立って、どうぞと中へ入る様に促した。案内はここで終わりの様だ。目的の者が居るのだろう。私は緊張しながら霊夢と一緒に中へと足を踏み入れた。

 扉の向こうは広大な部屋だった。壁は果てしない程遠くまで囲んでいる。あまりの広さに遠近感が狂いそうになる。もしかしたら妖怪の山を薄皮一枚隔ててそっくりそのままくりぬいたんじゃないかとすら思える。それだけの広さの部屋に天狗の主が一人だけで居た。入り口の少し先で胡座をかいている山伏姿をした天魔を見つけた私は、ミニ八卦炉を握りしめ睨みつける。

「よう来なされた」

 天魔は扇を扇ぎながら立ち上がる。身の丈は人の三倍。子供の私からすれば天を摩す様に思える偉丈夫に、思わず尻込みしそうになる。不安になって隣を見ると、霊夢が笑みを浮かべていた。

「どうも。要件を伝える必要は無いわよね?」

「先代が亡くなり一年。彼の喪が明け早速新しい巫女の出陣という訳だ。既に他の賢者連中は納得させたのだろう?」

「ええ、後は天狗と式の主だけよ」

「重畳重畳。命名決闘だったか? 中中面白い仕組みを考える」

「スペルカードルール。間違えないでよ」

「これはすまんな。新しきを取り入れるには頭が古すぎる」

 天魔が呵呵大笑する。

 かと思うと、不意に笑いを収め真剣な顔をした。

「茶番に時間を取る気は無い。一枚で良いな?」

 霊夢は頷いて御幣を振った。

「オッケー。スペルカードはお互い一枚。こちらの機数も一」

「要らん」

「ん?」

「細事は不要。私の技から逃れ一撃を当てる事が出来ればそなたの勝ち。その前に死ねばそなたの負け。如何」

 死ねば負け?

 何だそれ。聞いてない。

 突然の宣告に私は怯え、思わず霊夢を見た。霊夢の顔からも笑みが消えていた。

 それはそうだ。霊夢にとっても天魔の言葉は予想外の筈だ。

 霊夢が新たな巫女になる事も、これからの決闘が全てスペルカードルールになる事も、既に賢者達から了承をもらっている。今回天魔と戦いに来たのは、あくまで妖怪の賢者達に新しい巫女とその仕組をお披露目する儀式に過ぎない。単なる儀式だから、元より賢者達は霊夢を殺す気は無い。加えてスペルカードルールに則った戦いであるから、あくまでごっこ遊び。戦いで死ぬ事は決してない。そういう戦いだった筈だ。それがどうして命のやり取りに。

 何か天魔を怒らせる様な事をしただろうか。何か落ち度でもあっただろうかと考えたが、無礼を働いた覚えはない。それなのにどうして。

「良いわよ」

 霊夢の言葉に、私は言葉を失った。

 天狗の笑いが辺りに響く。

「良い度胸だ」

 天魔が翼をはためかせて後退する。あっという間に豆粒程の大きさになった天魔がこちらまで聞こえる程の大音声で言った。

「では行くぞ」

 目を凝らすと天魔が懐から何かを取り出した様だった。スペルカードだろうと判断した時、天魔の宣言が聞こえた。

 暴神「山颪」

 天魔が扇をゆっくりと振って水平に切る。それに合わせて天魔の頭上に幾つもの光球が現れる。どんな弾幕なのか。まるで予想がつかない。分からない事が酷く不安を煽る。まして相手は天魔。天狗を統べる大統領。鬼神等の伝説的な大妖怪と同列に語られる神に等しき存在。人間であれば木の葉を飛ばす様に消滅させる事が出来るだろう。視界に映る天魔は豆粒程の大きさだというのに、凶暴な猛獣が目の前で口を開けている位の威圧感があった。

 怖かった。

 でもスペルカードの弾幕は必ず避ける事が出来る。そうでなければ弾幕ごっこにならない。今から行われる天魔の攻撃だって何処かに穴がある筈。

 本当に?

 嫌な疑問が頭に湧いた。

 人間とは次元の強さを持つ大妖怪が本当に人間の定めたルールに従うのだろうか。本当に命のやり取りをしないごっこ遊びに乗ってくれるのだろうか。ましてさっきは天魔自身が言ったではないか。死ねば負け。

 もしも天魔が私達の事を殺そうとしているなら。

 本当に穴があるのか? 本当に安全なのか?

「魔理沙、行くわよ」

 霊夢の言葉に慌てて顔を上げる。

「おう。私の足は引っ張るなよ!」

「こっちの台詞」

 強がって軽口を叩きつつ箒に跨がり天魔を睨む。天魔は既に扇を下ろしていた。準備を終えたらしい。天魔の頭上では幾つもの光球が集い円を描いていた。

 私はどんな弾幕が飛んで来ようと避けられる様に身構える。

 その瞬間、視界が明滅し、背筋に悪寒を覚えた。

 感覚に導かれるまま横へ箒を滑らせると辺りを閃光が覆った。視界が真っ白になって何も見えなくなったが、その場で止まったら危険だと判断してそのまま最大速度で箒を走らせる。

 逃げ切ったところで背後を振り返ると、暴虐の跡を見た。

 天魔の居る場所から私達の下まで、一帯の地面が五筋の放射状に抉れ、地形が変わっていた。

 それは爪痕だ。

 巨大な手が地面を引っ掻いた様な跡だった。単に大きいと表すのは適切でないかもしれない。そんな言葉では表せない。雲にまで届く程の巨人が地面を抉りとった様な巨大さだ。一筋の痕ですら幅が十数メートルあり、深さが見通せない。それが数十メートルの距離を空けて五つ。もしもその場に留まっていたら死んでいた。いや跡形も無く消えていた。もしもここが人里であれば、今の一撃で里は全壊しただろう。山だろうが森だろうが、容赦無く消し飛ばせるに違いない。何者も抗えない絶対的な暴力。人には為せない神の所業。

 勝てるのか?

 いや、生きて帰れるのか?

 次第に爪痕が消えていく。まるで今の攻撃等無かったかの様に。

 破壊し、再生する。

 あまりにもあっさりと。

 まるで神の様に。

 自分の存在があまりにも小さく思えた。

 私が戦意を喪失して震えていると、急に肩を叩かれた。驚いて飛び上がると、霊夢の顔がすぐ傍にあった。

「大丈夫?」

「霊夢」

「良かった。大丈夫そうね」

 霊夢が私の背中を叩いて笑顔を見せた。

 どうしてこんな状況で笑う事が出来るんだろう。

 今の破壊を見て、どうしてそんな明るく居られるんだろう。

 私はあまりの力の差に、立つ事すらままならないのに。

「さっさと終わらせちゃいましょう」

「終わらせる?」

 霊夢が何を言っているのか分からない。

 まさか霊夢はまだ、あの凄まじい力を持つ妖怪に挑もうと言うのだろうか。

「もしかして怖くなった?」

 信じられない。

「霊夢は、怖くないのか?」

「まあ、怖いけど。でも今までも他の賢者達に勝ったじゃない」

「そうだけど」

「それにこれは弾幕ごっこでしょ?」

 これが弾幕ごっこ?

 さっきの大破壊を見て、どうしてそんな事が言えるのだろう。今までの賢者はこんなにも凄まじい弾幕はしてこなかった。あくまで私達に合わせた、当たっても痛いだけの常識的な弾幕だった。

「あのね、もしもあいつが本気で私達を倒そうとしたらこんな攻撃はしない。攻撃があまりにも大きすぎる。だから簡単に避けられたでしょ?」

 言われて見ればその通りだけど。

「大丈夫。当たらなければ」

 それはそうだけど。

「さ、行きましょう」

 霊夢が天魔に立ち向かおうとする。それを見て私は箒を握りしめた。

 怖い。

 怖いけど、私は霊夢を守らなくちゃいけない。

 魔理沙の代わりに、魔理沙になった私は。

「魔理沙、ちゃんと見れば大丈夫。避けられる」

 霊夢が地を蹴って飛んだ。私も箒に跨がり飛び立った瞬間、再び視界が明滅する。急いでその場から逃げ去ると、辺りから地面を抉りとる恐ろしい音が響いた。また辺り一面の地面が抉り取られ、地形が変わっていた。

 避けられた事に安堵する。安堵と恐怖で泣きたくなる。逃げたくて逃げたくて仕方がなかった。

 でも霊夢が前を飛んでいる。

 止まる何て選択肢は何処にも無い。

 私と霊夢は天魔に向かって真っ直ぐ飛ぶ。

 どうやら天魔の弾幕は大きく間隔を空けないと放てない様だ。

 その隙に私と霊夢はどんどん距離を詰める。

 再び天魔が扇を振った。

 天魔の頭上に光球が生まれr。

 私は恐怖で一瞬止まりかけたが、先を行く霊夢の背を追って速度を上げた。

 良く見れば避けられると霊夢は言った。だから私はじっと目を凝らして天魔から放たれるであろう爪痕を見ようとした。

 そして見えた。天魔から、五筋の煌めきが伸びた。その一筋の煌めきが私達を浸す。視界が明滅する。私は咄嗟に横へと箒を走らせる。煌めきから飛び出ると視界の明滅が消えた。振り返ると、煌めきが次の瞬間巨大な閃光に変わり、そして光の消えた後に、大きな爪痕が走っていた。

 凄まじい暴虐の跡だ。

 だが恐怖は消えている。

 煌めきが攻撃の予兆。煌めきを避ければ攻撃は当たらない。そして放射状に伸びる攻撃は大きすぎて、筋毎の間隔が広いから避けるのは容易だ。霊夢の言った通りちゃんと見れば避けられる弾幕だった。

 気が付くと私は笑っていた。

 何に対して笑っているのかは分からない。

 天魔に対する勝ち目を見出した霊夢が私のすぐ前を飛んでいる。

 その後姿を見ると、何だか無性に笑いたくなった。

 天魔の姿がどんどん近付く。

 天魔が爪痕を放つ。

 それを避け更に近付く。

 再び爪痕が放たれる。

 それも間一髪で避けられた。

 天満までもう少し。

 嫌な事に気が付いた。近付くに連れて天魔の弾幕を放つ間隔が次第に速くなっていく。そして爪痕は放射状であるから。開始地点である天魔から離れていれば爪痕同士は離れていて避けやすいが、開始地点の天魔に近付くにつれて爪痕同士の距離がどんどん狭まって、天魔の近くでは隙間が無い。

 もしも天魔のすぐ傍まで近付いて爪痕を放たれたら、全く隙間の無い巨大な爪痕に呑まれて命を落とす。そんな未来が明白に見えた。

 相談しようと霊夢に並走すると、何も言っていないのに、霊夢が前を見ながら言った。

「今更引いたってやられるだけ。あいつは天狗ですばしっこいから、こんな離れた場所から弾を撃ったって避けられる。肉薄する位近付かないと弾幕は当たらない」

「逃げるのも駄目で、ここから攻撃をするのも駄目なら、どうすんだ」

「突っ込む!」

 それはもっと駄目だろと突っ込む前に霊夢が速度を上げた。私も慌てて霊夢の後を追う。爪痕を避けながら飛んでいると、天魔がもうすぐそこまで近付いていた。再び放たれた煌めきはもはや殆ど隙間が無い。体一つ分の隙間に突っ込み、放たれた爪痕を間一髪で避ける。服の一部を焦がしながら霊夢と共に天魔へ迫る。緊張で唇が乾いていた。

 もう限界だ。ここまで近付くと、次の弾幕はまるで隙間が無くなるだろう。もしも弾幕が放たれれば、避ける事は出来無い。後は放たれない事を祈るしか無い。

 弾幕が来ない事を祈りながら速度を上げると天魔が口角を吊り上げた。

 そして辺り一帯が煌めいた。近付き過ぎて煌めきに隙間は全く無い。ならば横へ飛んで範囲外へ逃げようと左右を見渡したが、五つ分の爪痕は横幅が数十メートルの広範囲に広がっていて、今から外へ逃げようとしても逃げられそうにない。

 避けられない。

 死ぬ。

 一瞬でそう判断し血の気が引いた。

 時間がやけに遅く感じた。

 このままでは爪痕に呑み込まれる。

 煌めきが色濃くなっていく。

 弾幕が放たれようとしている。

 恐怖で胃の腑から薄気味の悪い感覚がせり上がってきた。

「魔理沙!」

 その時霊夢の声が聞こえ、目の前に手が差し伸べられた。最早何も考えられず、その手を掴む。

 その瞬間、辺りの景色が変わった。

 呆然とする私の目の前に天魔の背が見えた。

 いつの間にか天魔の背後に回っていた。

「今!」

 霊夢に言われてスペルカードを取り出す。

 天魔が振り返る。驚愕で見開かれた目が血走っていた。

 その顔を狙って、自然とミニ八卦炉を構えていた。

 かつて、弾幕ごっこが霊夢と魔理沙、二人だけの遊びであった時、魔理沙が知り合いの魔法を参考に作ったスペルカード。

 恋符「マスタースパーク」

 ミニ八卦炉から放たれた光が天魔の上半身を呑み込んだ。

 撃った私自身が反動で吹っ飛ばされた。

 背中を打って痛みが走る。

 咳き込みながら何とか立ち上がる。

 顔を上げると、天魔の上半身が焼け焦げているのが見えた。

 殺してしまったかと怖くなったが、天魔はゆっくりと扇を持った手を振り上げて、生きている事を示した。

 勝った。

 安堵で肩の力が抜けた。今回の勝負は一撃当てさえすれば良い。これで私達の勝ちだ。

 そう思って霊夢に笑顔を向けようとした。

 だが、甘かった。

 私は天魔の顔を見て息を呑む。

 天魔の目には明らかに凶暴な意思が湛えられていた。

 終わったんじゃないの?

 どう見ても遊びの目じゃない。

 明らかにこちらを殺そうとしている目だ。

 ゆっくりと振り上げられた扇が天魔の頭上で止まる。

 何かをしようとしている。

 凄まじい敵意がみなぎっている。

 神にも等しい力を使って私の事を消そうとしている。

 まずい。

 逃げようとしたが、全ては遅かった。

 天魔の扇が振り下ろされた。

 膨大な白い光が辺りを覆い尽くす。

 私は咄嗟に懐から魔導書を取り出していた。

 それはかつて魔理沙に羨望された五冊の魔導書の内の一冊。

 私の持つ究極の魔法。

 紐解かれた魔導書から赤い光がほとばしり、天狗の放った白い光と拮抗する。

 耳障りな金属音が鳴り響いたかと思うと、辺りに爆発が起こった。

 全身に焼かれる様な痛みが走り、同時に捻くれた様な感覚があった。

 死を覚悟した瞬間、全身に今まで感じた事の無い程の強烈な痛みが走った。

 気が付くと私は床に転がっていた。

 痛みに呻きつつ、自分の感覚がまだある事に気が付いた。

 生きている。

 痛みを我慢しつつ身を起こし、自分の体を見る。大怪我を覚悟していたが、意外にも擦り傷と打ち身だけで、服もただ汚れているのみ。掌に痛みが走り、見ると持っていた赤の魔導書が燃えて炭化していた。どうやら私の究極の魔法は天魔の一撃を防ぐので精一杯だったらしい。

 呆然と火傷した掌を見ていると手を打ち鳴らす音が聞こえた。

「よう防いだ。合格だ」

 天狗が愉快そうに笑っていた。

 合格?

 ああ、そう言えば、今回は天狗に霊夢を認めさせる為に来たのだった。

「魔理沙! 大丈夫?」

 霊夢が駆け寄ってきて私の事を抱きとめた。肩の辺りに鈍い痛みが走った。思わず顔をしかめる。

「魔理沙!」

「私は大丈夫だぜ、霊夢」

「良かった」

 霊夢は安堵の息を漏らしたかと思うと、天魔に向かって冷たい声音を発した。

「最後、本気だったでしょう?」

「全力なものか」

「本気で殺そうとしたでしょう?」

「死んでも構わんとは思ったな」

 天魔は笑い、扇を自分の顔に向けて扇ぎだした。

「何を怒っている。巫女の相方であればこの程度防げて当然であろう?」

 霊夢は黙って天魔を睨む。

「今のが防げなければいずれ死ぬ。知らない訳ではあるまい」

「魔理沙は死なない。殺させない」

 天魔は鼻を鳴らし、懐からスペルカードを取り出して弄くりだした。

「その為のこれであるか?」

「いいえ」

 天魔も霊夢も黙り何だか気まずい雰囲気が流れる。

 天魔は一つ頭を掻くと、大声を張った。

「おーい!」

 すると先程案内してくれた天狗が遠く離れた場所からあっという間に私達の下へ急須と湯のみを持ってやって来る。湯のみが置かれ、そして急須からとろみのある黒い液体が注がれ、甘ったるい匂いが辺りに充満した。

「何だこれ?」

 私の問いに、天魔がココアだと答えた。私はココアが何だか良く分からなかった。

「知らんのか? 飲んでみ」

 私は恐る恐る湯のみを持って液体を鼻に近付けた。強烈な甘さが鼻孔に侵食してきた。本当に大丈夫だろうか。天狗にしか飲めない飲み物で、人が飲んだら死んでしまったりしないだろうか。

「あ、美味しい」

 霊夢の呟きが聞こえて隣を見ると、霊夢が湯のみに口を付けていた。

「おい、霊夢」

「魔理沙、美味しいわよ、これ」

 本当だろうかと思って、もう一度鼻を近付け、その甘ったるさを恐れつつ、私は一息に飲み下した。その瞬間、口から胃へ甘さの奔流が駆け下って、咳き込みそうになった。甘い。あまりにも甘すぎる。

「凄いなこれ」

 けれど確かに美味しかった。

「ね! ずるいわ。天狗は毎日これを飲んでいるの?」

「いいや、私の様な年寄りには甘すぎる。飲んでいるのは子供だけだ」

「勿体無い。美味しいのに」

 天魔は鼻を擦りながら霊夢を見つめる。

「先程言ったばかりだろう。新しさを取り入れるだけの度量は既に無い」

 そうして弄んでいたスペルカードを圧し折った。

「これも、私は好かん」

 私は気圧されて身を引いたが、隣の霊夢は鼻で笑った。

「当たり前でしょ。スペルカードを使った戦いは弾幕ごっこ。ごっこ遊びを大の男がやったら恥ずかしいに決まってる」

 天魔は目を細めて霊夢を睨んだが、すぐに破顔して急須を持つ天狗に目をやった。

「なら天狗の代表は文にやってもらおうか」

「は? 嫌ですよ、そんなん」

 天狗は心底嫌そうな顔をすると、天魔が笑い声を上げた。からかわれた天狗は憤慨した様子で急須の中身を私達の湯呑に注ぐと去っていた。それをおかしそうに見送ってから天魔は私達に向き直り、扇を扇ぎながら威圧的な笑みを浮かべた。

「それで、最後は式の主か」

「ええ、そうね」

 霊夢は頷いてココアを飲み、美味しそうに身を震わせる。

 私はそれを眺めながら、ふと思いついた事を口にした。

「神隠しじゃないのか?」

 天魔が扇ぐ手を止める。

「どういう事だ?」

「いや、ただ、いつもは神隠しの主犯とか、妖怪の賢者とか、スキマ妖怪とか、そういう呼び方をされているのに、今回の儀式が始まってから、みんな式の主って言い始めてさ。なんつーか、しっくり来ないというか。私は良く知らないけど、境界を操る妖怪で、神隠しとして恐れられてたんだろ? それなのに、そういう本人の特性を無視して、式神を連れているから式の主って言われるのが、何か」

 湯呑の中身を最後の一滴まで飲み干した霊夢が呆れた顔を私に向ける。

「どうでも良い事が気になるのね」

「いや、まあ、自分でも何で気になるのか分からないけど」

 式の主とは八雲紫の事だ。私を魔理沙へと誘ったあの妖怪だ。式の主や妖怪の賢者なんていう前向きな呼び名は相応しく思えない。得体の知れない恐怖を表す神隠しの方がしっくりくる。

「その見方は悪くないぞ」

 天魔を見るといつの間にか笑みを消していた。

「だが今の彼を言い表すのには式の主が適切だ」

「適切? 何か理由があるのか?」

「彼は式に出会って変わった。かつては仲間達と共に各地を渡り歩き暴れ回っていたそうだが、ある時からこの幻想郷に定住した。その頃は既に神代の時代も遠のき、かつての栄華と比べれば妖怪達の存在は希薄になっていた。それでも現代に比べれば遥かに勢い盛んで、殆どの妖怪が勢力の衰退に危機感を抱いていなかった。妖怪の未来を危惧していたのは八雲紫の様な一部のみ」

「あんたはどうだったのよ」

 霊夢の問いに茶化すなと天魔が言った。

「遊び呆けておったわ」

「駄目じゃない」

「ほんの僅かに存在する慧眼の持ち主だけが危機感を抱き、そしてこの幻想郷に集って住み着いた。だからと言って劇的に何が変わる訳でも無い。相変わらず妖怪は衰退していった」

「話の流れからするとそこで式に出会うのね」

 天魔が先に言うでないとたしなめると、霊夢がまだるっこしいのよと答えた。

 私も疑問をぶつける。

「結局式って何なんだ?」

「ある対象に名前を張り、対象を縛る命名の技術がある事は知っているな? それを更に進歩させ、名を与えた対象が定められた結果を成し遂げる様に調整する技術が式だ」

「すまん。もう少し優しい言葉で」

「簡単に言えば算術だ」

「益益訳が分からないぜ」

「一に一を足すと何になる」

「二だな」

「一に何を足すと二になる」

「一だな」

「では、一に何を足すと三になる」

「二」

 私が答えると、霊夢が横から口を出してきた。

「一に一を二回足しても三でしょ?」

「ああ、そうだな。でも今までの流れからして、何か一つを足すとだろ? そんな一を二回足すなんて答え、ずるじゃんか」

「駄目だなんて言ってなかったでしょ。ずるじゃないわよ。でもそういう事」

 意味が分からない。

「一に何かを足したら三になる。じゃあ、何かって何?」

「二とか、あと一が二つ、だよな?」

「そう思わせる事が式。そして一が二つっていうのはずるで、二じゃなくちゃいけないと思わせるのも式」

「すまん、ちょっと待って」

 訳が分からなくなってきた。

 天魔が笑う。

「難しい話じゃない。そなたに分かり易い話に置き換えるのなら、式とはそなたの学ぶ魔術だ」

「ほう、分かりそうな気がしてきたぜ。続けてくれ」

「そなたの学ぶ魔術は定められた所作を行えば決められた結果が現れるであろう? それが式だ。定められた命令を与えれば決められた結果を返す」

「成程。分かりかけてきたぜ」

「その逆もまた然り。定められた命令を与えて決められた結果を返すのであれば、周囲の者にそういった存在だと認識させる事が出来る」

「オーケー。また分からなくなった」

 すると霊夢が横から呆れた溜息を吐き出した。

「だからね、例えばあんたが式とすると、あんたは語尾にだぜをつけて話すでしょ?」

「別にいつもって訳じゃないぜ」

「話を腰を折るな。で、例えばあんたっていう式が私につくと、私もあんたと同じ様に語尾にだぜをつける様になっちゃう。それが式。そして、もしも私が語尾にだぜってつけたら、私はみんなから魔理沙だと思われちゃう。それも式」

 笑い飛ばそうとして、その意味に気が付き、息を呑む。

 それはまるで。

「おいおい、そんな訳無いだろ? 例え霊夢がだぜとか言い出したって誰も霊夢の事を私だって思わないぜ」

「普通ならね。けれどさっきも言ったでしょ? 一に何を足せば三になるのか。本当なら答えなんて無限にあるのに、私達はその無限を切り捨ててたった一つだって考えちゃう。一が二つっていうのはずるで二じゃなくちゃいけないって思う。マイナスだとか、分数だとかも、思考から外す。それが式。だぜって言ったらそいつが魔理沙だとみなされる環境を作るのもまた式を作る事になるの。というよりも、そういう環境を作る事こそが式を扱う才能と言えるわね」

 心臓が早鐘の様に鳴っていた。

 胸を抑えつけるが一向に収まらない。

 落ち着け。

 今は式の話をしているんだ。

 私の話をしているんじゃない。

 しかし霊夢の語る言葉はあまりにも今の私の状況に合致していた。

「そんな、環境を作るって、どうやってやるんだよ。不可能だろ」

 私の言葉を天魔が肯定した。

「凡百には殆ど不可能だ」

「だろ?」

「だが不可能では無い。世の中には、式を扱う事の出来る者が居る。それが八雲紫。境界を操る能力と全てを見通すかの様な頭脳で、見事に幻想郷に住まう者達の心を操り、式を扱える環境を整えた」

「本当にそんな、式なんて」

「現にこの幻想郷には式がある」

「でも白を黒と言わせる様なもんだぜ? そんなの一人や二人ならそう言わせる事は出来るかもしれないけど。でも幻想郷中みんなに白を黒だと言わせるなんて無理だろ! どれだけの人間と妖怪が居ると思ってるんだ!」

 思わず立ち上がって叫びながらも、心の片隅の冷静な部分は、幻想郷中に黒を白と言わせている事例が今正にここにある事を知っている。

 天魔が扇で床を叩いた。大きな音が鳴った。

「だからこそ変わったのだ」

 音に驚いて声の詰まった私に向かって天魔が語る。

「そこに住まう者全てを操る為には、この幻想郷全てを把握し、この幻想郷全てを理解し、この幻想郷全てを操らなければならない。住民の増えた幻想郷では、それこそ神でなければ成し得ない業だ。予めそれを見越した八雲紫は、まだ住民の少ない初期の内に、幻想郷を式の扱える場に変え、そして己自身が式となって、幻想郷で式を操る式となり、幻想郷を治める様になった」

「自分を式に?」

「一時期は神と同一視される事もあった八雲紫という大妖怪が、己自身に張った式だ。その式は絶対の効力を持ち、八雲紫はこの幻想郷の中でのみ、神でなければ成し得ぬ業であろうと行使できる存在となった。既にかつての八雲紫は居ない。八雲紫という器を持った式が、八雲紫の理想とした幻想郷を作る為に突き進んでいる」

「じゃあ、あの妖怪は式なのか?」

「彼を未だに妖怪と呼んで良いかは分からん」

「ちょっと待てよ。じゃあ、式の主って」

「彼は式を従える主であり、同時にこの幻想郷を統べる式である」

 息が苦しい。

 式って何だ。

「じゃあ、この幻想郷は式に支配されてんのかよ。おかしくないか? 妖怪でも人間でも無くて、決められた命令を守るだけなんて、そんなの生きていないみたいだ」

「善し悪しは分からん。正しいとも思えん。だが式を土台に我等が作った幻想郷という仕組みは今日まで幻想郷を保ってきた」

「革命とか起きなかったのかよ。式なんかに支配されている息苦しい世界なんて嫌だって」

「起こさせると思うかね?」

 天魔が顔を扇ぎだした。

「そもそも幻想郷を転覆させようとする者なんて居らぬよ。安寧を望む者ばかり。今が続けばそれで良い。私もまた同じ。天狗が平穏である事。それだけが私の望み。細事は要らぬのだ。そなたはどうだ。例えそれが式によるものであろうと、己の望みが叶えられているのであればそれで良い。そうではないのか?」

 私。

 私の望みは。

 私が答える前に天魔な話を打ち切った。

「さて、承認は終わった」

 天魔が立ち上がる。その巨体が立ち上がるだけで威圧を感じるが、先程の弾幕ごっこの最中に感じた威圧感とは比べ物にならない程弱い。何だか天魔が小さくなった様にすら思える。天魔の顔を見上げると、気の所為か慈しむ様な顔をしていた。その視線が霊夢に向かう。

「巫女殿、そなたの考案した命名決闘法は幻想郷に新たな風を呼びこむだろう。空気は停滞すれば腐り、そして死ぬ。だからこそ新しい風が必要だ。何故妖怪の楽園である幻想郷で、その要である巫女を人が務めるのか。それは短き生を活かして代を重ね、幻想郷の仕組みを刷新する為だ。そなたは見事、初めの一歩を踏み出した。幻想郷の存続が危ぶまれる今、そなたの様な才女が巫女になった事を喜ばしく思う」

 だからスペルカードルールだってと霊夢がぼやく。

 天魔の視線が私に移る。

「魔理沙殿、そなたは櫻の木の下には死体が埋まっているという謂れを知っているか?」

「おう、何かの本で読んだぜ。あれ本当なのか?」

「実に美しい喩えだと私は思う。桜の木が艶やかに咲く下には陰惨な死体が埋まっている。幸福が成り立つ下には何かの犠牲が埋まっているのだ」

「まあ、そういうもんかもな」

「そなたは幸福の為に犠牲を願うのか?」

「願う訳じゃないけどさ」

「手に入れた幸福の為に多くの犠牲があったと知って、何の苦悩も無く喜べるのか?」

「いや、私は、あんまり嬉しくないかもしれないけど」

「ならば幸福とは何だ? 犠牲のある幸福は嬉しくないと言ったな。だが幸福の下には必ず犠牲が埋まっている。それは本当に幸福なのか?」

「いや、そう言われたって。意味分かんない。何が言いたいんだよ」

 天魔の言いたい事がさっぱり分からない。そんな詮無い事を聞いてどうしようと言うのだろう。

 天魔の視線が霊夢に向く。

「そなたはどうだ? 幸福とは何ぞ」

「んなもん、私が幸せだと思う事よ」

「犠牲の上に聳えていてもか?」

「その犠牲を知らないなら幸せでしょ」

 それが霊夢の幸せ。

 天魔の視線が私に戻る。

「そなたは?」

「私は」

 私の幸せ。

 自分が幸せだと思う事?

 違う。

 私は時偶苦しくなる。

 周りが幸せである事?

 違う。

 私はみんなを悲しませている。

 それでも必要だから私は魔理沙で居続ける。

 だったら私の幸せは。

「自分が為すべき事を為す事だぜ」

「己を苦しめても、周囲を悲しませてもか?」

「後悔はしない。私にしか出来無い事だから、私はそれを為す。それが私の幸せだ」

 天魔は笑みを浮かべながら息を吐いた。何故かその笑みには感情が無い様に見えた。張り付いた様な笑みを浮かべつつ、天魔は目を閉じる。

「左様ならば、再び会う事はあるまい」

「結局何が言いたかったんだ? 桜の話」

「年を取ると、無闇に平穏を望む様になる」

「荒ぶる天狗が?」

 霊夢が意外そうな声を上げた。

 天魔が微笑みを浮かべる。

「荒ぶる天狗でもだ」

「おい、最初の質問に答えてないぜ。何だったんだよ、桜の話」

「幾ら桜自身が美しかろうと、犠牲の上に聳える桜を醜く思う時もある。それだけだ」

「なら切り倒せば良いじゃない」

 霊夢の気軽な言葉に、天魔は笑みを浮かべたまま、そうだなと言って扇を扇ぎ続けた。


「無事で良かった」

 妖怪の山からの帰り際に香霖堂を立ち寄った。心配していたらしい香霖は私達の顔を見るなりそう言った。ついでにお茶が出される。まずくはなかったが、天狗の所で飲んだココアに比べると味気ない。

「香霖、これからはココアだぜ?」

「ココアって何だい?」

「おいおい、ココアも知らないのかよ。今時珍しいぜ。なあ、霊夢?」

 困惑している香霖を笑う。霊夢も苦笑してそうね珍しいわねと言った。二人でくすくすと笑っていると、香霖は些か悔しそうに眉根を寄せて、次に来るまでに調べて入荷しておこうと言ったので、私と霊夢は二人して喜び合った。

 今日のところはお茶で我慢してやろうと尊大に腰を落ち着けて天魔との戦いを香霖に伝えた。次第に白熱して立ち上がり、霊夢と二人で身振り手振りを加えて熱く語った。

 私がマスタースパークを天魔に撃ち放った辺りに差し掛かると、

「僕の調整したミニ八卦炉が役に立った様で何よりだよ」

と香霖はいつになく嬉しそうな顔をした。

 語り終えた時にはすっかり汗だくになってお茶の代わりに出してもらった氷水を飲んでいると、香霖が思い出した様に言った。

「神綺様が来ているよ」

 氷水を鼻から吹き出しそうになった。

「ここに?」

「いや、顔を出しただけで、今は居ない」

「いつ?」

 お母さんの優しい笑顔が思い浮かんだ。

「お昼位だったかな」

「何で?」

 もしかして私に会いに?

 でももう私はお母さんの娘じゃないのに。

「アリスに会いに来たそうだよ。最近、魔界に帰って来ないから心配になったと言っていた」

「そっか」

 そっか。

 それはそうだ。

 私に会いに来る訳がない。

 だってあの人と私はもう赤の他人なんだから。

「それと魔理沙にも会いに来たって言っていたな」

 私の手からコップが滑り落ちて床で大きな音を立てた。香霖と霊夢が悲鳴を上げる。

 私はしばらく何も言う事が出来なかった。不思議と笑いがこみ上げてきた。床に散らばったガラスを集める香霖を見下ろしながら笑った。

「何で私に会いに来るんだよ。関係無いだろ」

「ああ、そうだね」

 香霖は素っ気無く頷いて、大きなガラス片を集め終えると、ごみ箱に入れた。

「じゃあ、変じゃん。あの人が何で私に会うんだよ。関係無いのに」

 急に胸の奥から涙がこみ上げてきた。息を飲み下して堪えていると、香霖が紙切れで細かい破片を集めながら言った。

「別におかしくはないだろう。顔を合わせた事は何度もある。折角魔界から出てきたんだ。旧知の者と会いたく思ったって不思議はない。君が彼女と会ったって何もおかしくはないさ」

 細かいガラス片を集め終えた香霖がそれをごみ箱に捨てる。そうして奥に引込み、氷水のおかわりと羊羹を持ってきた。その間、私は込み上げてくる涙を必死で堪えながら、考えた。私があの人に会っても良いものかと。きっと今頃アリスの家に居るだろう。そこへ押し掛けて、あの人に会いたかった。

 駄目だ。親子の交流を邪魔して良いものか。

 アリスの家に押し掛けて二人の邪魔をするなんて非常識だ。

 今はもうあの二人が親子なんだから。

 私は他人。

 二人の邪魔をして言い訳が無い。

 あの人に会う事は出来無い。

 そう結論づけて、飛び出したい衝動を必死に抑えていると、香霖が羊羹の載ったお皿を私と霊夢に渡しながら口の端を持ち上げた。

「後でまた寄ると言っていたよ」

「え?」

 お母さんがここへ?

 お母さんに会える?

 そんな幸せな想像が働いて、その希望に縋りそうになった。けれどはっとして、私は皿に載った羊羹を自分の顔に叩き付けた。再び香霖と霊夢の悲鳴が響き渡った。

「何してんのよ、魔理沙」

「いや」

「神綺様に会える事が嬉しいんだろう」

 香霖が私の顔を拭きながら笑った。

 私は拭き終わった香霖の手を跳ね除けて立ち上がる。

「帰ろうぜ、霊夢」

「え? 会っていかないのか?」

 私は何も言わずに霊夢の手を取る。

 香霖が唐突に肩を掴んできた。

「魔理沙が神綺様と会ったっておかしくもなんともない。折角の機会なんだ。会っていきな」

「遠慮するぜ」

「何故そう意地を張る」

「意地を張っている訳じゃないぜ」

 私は流れそうになった涙を拭いながら、霊夢の手を引っ張って立ち上がらせた。私を引き留めようとする香霖を無視して外にでる。

「魔理沙。おかしな事は何も無いんだ。会いなよ。そっちの方が誰にとっても良い筈だ。会いたくないと思う君の気持ちは分かるけれど、そんな意地を張らずに会った方が絶対に良い」

 意地を張っている訳じゃない。

 今は会えないだけだ。

 もしもあの人に会ってしまったら、きっと私の心は折れてしまう。魔界に帰りたくなってしまう。魔理沙である事を捨ててしまう。自分の心が潰れてしまうと分かるから、私はあの人に会わない。少なくとも今はまだ、私の心が弱い内に会う事は出来無い。

 香霖を振りきって外を出るとすっかり暗くなっていた。早く帰らないとあの人が来るかもしれない。

 そう考えて箒に乗ると、傍から足音が聞こえた。

 まさかお母さんが来てしまったのかと振り返ると、そこに天狗が立っていた。天魔に文と呼ばれていた奴だ。期待が外れた所為で不機嫌になるのが自分でも分かった。

「何の用だ?」

 私が睨みを利かせると文が一礼する。

「天狗の役目として、異変をお伝え致します」

「異変?」

 握る霊夢の手に力がこもる。

「西行妖が咲こうとしています」

 西行妖と言えば、決して咲かない桜として有名な白玉楼の名物桜だ。それが咲こうとしている?

「庭師が春を集めて桜を咲かせたのです。既に満開を迎えようとしています」

「満開になったらどうなるんだ?」

「白玉楼を管理する亡霊姫の事はご存じですか?」

 私は知らなかったが、霊夢は知っていた。

「西行寺幽々子よね? 冥界の管理を任されている亡霊」

「そうです」

「それが何?」

「西行妖は彼女の死体で封印されています。桜が満開になるという事は彼女の施した封印が解けるという事」

「西行妖が暴れだすって事か? そんなの霊夢が封印しちゃえば良いじゃん」

「ええ、まあ。それも問題ですが、それ以上に問題なのは、封印の礎となる事で転生の抑えられていた西行寺幽々子が亡霊でなくなり消失します」

「その西行寺幽々子って奴が消えるのか? 桜が満開になると?」

「そうです」

「誰が桜を満開にしようとしているんだよ」

「西行寺幽々子自身です。彼女は亡霊になった時点で記憶を失いましたから、桜が満開になると自分が消える事を知らないのです。庭師に春を集めさせ無理矢理咲かせようとしています。西行寺幽々子が消えれば、冥界の管理が成り立たなくなり、幻想郷中に亡霊が溢れ、混沌と化してしまう。他にご質問は? 無いようでしたら、すぐに開花を止めて下さい」

 私と霊夢は顔を見合わせ、急いで白玉楼へと向かった。


 白玉楼の中心に月に照らされた巨大な桜が咲き誇っていた。天に手を伸ばす様な姿が遠くからでも良く見えた。それは美しかったが、何処か不気味だった。

「おい、あれ、もう満開だぜ」

「急ぎましょう」

 霊夢と共に白玉楼へ近付くと、誰かが門前に立っていた。長身の老人で刀を手に持ちじっと動かずに前方を見つめていた。

「あれは?」

「多分庭師の魂魄妖忌じゃないかしら。孫娘の妖夢と二人で西行寺幽々子の護衛と庭師をしているって聞いた」

「じゃあ、あいつが春を集めているって訳か。本当の事を話せば止めてくれるんじゃないか?」

 意外とあっさり解決しそうだと拍子抜けしつつ老人の下へ向かう。

 だが嫌な予感を覚え、箒を止めた。

 老人の目には妙に生気が抜けていた。

 既に視界に入っている筈の私達に何の反応も示さない。

「霊夢」

「うん、気をつけて」

 恐る恐る近づいて行く。明らかに様子がおかしい。急に襲ってくるかもしれない。だがその心配は杞憂に終わり、目前に立っても老人は微動だにしなかった。触れるとまだ温かい。だが心臓の鼓動は消えていた。

 私は気味が悪くなって慌てて触れていた手を離す。

「死んでるぜ」

「ええ、半霊も居ないわね」

「半霊?」

「妖忌と妖夢は半人半霊らしいの。人間の体と、その隣に浮かぶふわふわした白い霊、二つで一人の存在なんだって。その半霊が無いって事は」

 私と霊夢は気味の悪さを感じながら、死体の横を通りぬけ門を潜る。

「そういや、西行妖は何で封印されてたんだ? 暴れるのか?」

「西行妖は人の精気を吸い取り死に誘うそうよ」

「成程。だからか」

 門を潜った瞬間から、胸の内に仄かな衝動が灯っていた。それが何だか分からなかったが、霊夢の言葉を聞いて分かった。これは自死しようとする衝動だ。私はいつの間にか自分を殺そうと考えていた。既に西行妖の影響が私にまで及んでいる。

「魔理沙、これ持ってて」

 霊夢から御札を渡される。途端に自死の衝動が薄らいだ。

「無いよりまし程度だけど」

 確かに衝動は和らいだものの、気が付くと少しずつ膨れている。

 ふと気が付くと、辺りに死の匂いとでも呼ぶべき得体の知れない不気味な気配が漂っているのを感じた。

「急ごうぜ」

 白玉楼を駆け抜ける。石畳を走り、屋敷の中を突き進み、そして中庭に出ると、咲き誇る桜達の中心に一際大きな西行妖が咲き誇っていた。どう見ても満開だった。

 西行妖の下に誰かが伏せていた。

 どうやら泣いているらしかった。

 聞いていると気が滅入る泣き声。

 私達が近寄ってみても女の子は地面に突っ伏し泣き続けるばかり。

「これが西行寺幽々子か?」

「いえ、多分魂魄妖夢」

 半霊が浮いているでしょうと霊夢が言った。確かに女の子の傍に白い霊がふよふよと浮いていた。

「じゃあ、西行寺幽々子は?」

「この桜の様子だと、もう」

 ふと突っ伏す女の子の腕の合間から穴が見えた。明らかに手で掘り返したと思しきその穴は女の子が掘ったのだろう。人の頭蓋骨が顔を覗かせていた。

「遅かったみたいだぜ」

「そうね」

 門には老人の死体、満開の西行妖、その下には泣き続ける女の子。そして亡霊は消えている。

「どうする?」

「とりあえずこの桜を封印しましょう」

「出来るのか?」

「長い間の封印で大分弱っているみたいだから」

 霊夢が札を西行妖に貼り付けた。それを合図に霊夢の袖から札が溢れだし、宙を舞って西行妖に張り付いていく。桜の花弁が落ちてきたかと思うと、降り注ぐ花弁の量が一気に増して桜吹雪も舞いだした。花と札の舞う中で霊夢の封印は続き、やがて札が幹をすっかり包み込むと、辺りに桜吹雪が激しく吹き荒れた。札が溶け崩れていき、桜吹雪が止むと、西行妖から咲き誇っていた花は消え去って、見るも無残な裸の大樹だけが残った。

「封印完了」

 霊夢がそう言って、未だに泣き続けている女の子に目を落とした。

「でも、何の解決にもなって無いわよね」

 本来は西行妖の開花を止める事が目的だったのにそれは果たせなかった。冥界を管理していたという西行寺幽々子が消えてしまった事は明らかだ。門の外で亡くなっていたのはその護衛をしていたという魂魄妖忌だろう。魂魄妖夢が二人の死を嘆いて、私達の足元で泣いている。西行妖を封印し直したものの、消えた亡霊姫と亡くなった老人、そして泣く女の子をどうする事も出来無い。西行寺幽々子が居なければ冥界の管理も成り立たない。

 どうすれば良い?

 西行寺幽々子が居なければ、目の前の女の子も泣き止まない。

 けれど──どうすれば良い?

 冥界をどうするかなんていう大それた問題以前に、目の前の女の子を泣き止ませる事も出来無い。下手な慰めの言葉しか思い浮かばない。そんなものを掛けても、女の子を悲しませる事にしかならない。

 私はどうする事も出来ずに唇を噛みしめる。その時、背後に気配を感じた。

「半霊?」

 振り返ると白い霊がふよふよと浮いていた。女の子の半霊かと思ったが、女の子の半霊は女の子の傍に浮いている。私の背後の半霊は明らかに別物だった。もしかしたら、門で亡くなっていた老人の半霊かもしれない。

 人の部分と霊の部分の命は別物なのだろうかと訝っていると、半霊が形を変えだした。どうしたのだろうと思っていると、半霊が女性の姿に成る。女性の姿を取った半霊は静かに笑顔を浮かべて女の子に声をかける。

「妖夢、いつまで泣いているの?」

 その瞬間、女の子が飛び上がって振り向いた。驚愕で目を見開いていた。

「幽々子様?」

「何?」

「何で? さっき消えた筈じゃ」

「何言っているのよ。だったら私は誰?」

「でも本当に消えたみたいに見えて」

「それで泣いていたの?」

 女の子が顔を赤くする。

「すみません」

「あなたが泣いている間に、この二人が解決してしまったわよ」

 女の子が初めて私達に気が付いた様子で目を剥いた。

「この二人は?」

「博麗の巫女とその相棒、でしょ?」

 女性に問われたので、私達は頷いた。

「西行妖はお化け桜。大変危険な存在なの。それなのに無闇矢鱈と封印を解こうとして」

 女の子は言い返そうと口を開いたが、何も言わず、申し訳無さそうな顔になって私達に頭を下げた。

「さ、お終い。お腹が空いちゃったわ。晩御飯を食べましょう。あなた達も食べる?」

 女性の笑顔に私達は首を横に振る。何だか奇妙な感情が芽生えていた。言い知れない胸の不快感だ。女性に化けた半霊と女の子が話しているのを見ると、理由の分からない感情が胸を苛む。

「私達は結構です。もう帰りますから」

「そう。さようなら」

 女性が踵を返して屋敷へ向かって歩き出した。

 女の子がその後を追う。

「そう言えば、お爺ちゃん、じゃなくて師匠は?」

「妖忌は旅に出たわ」

「え? 何で!」

「頓悟したの。今回の事で」

「どういう事ですか?」

「後で調べておきなさい。不安がる必要は無いわ。妖忌の事だから何処へ言っても元気にやるでしょう」

 女の子は戸惑った様子で居たが、何かを振り払うかの様に大きく首を横に振ると、急に私達へ顔を向けた。

「すみません。えっと、夕飯を食べないって事は? このまま帰るんでしょうか?」

「ああ、そう考えているぜ」

「あ、じゃあ、門までお送りします」

 私は門の前で立ち尽くした老人を思いだして、慌てて首を横に振った。

「門まで案内は良いぜ。飛んで帰るから」

 そう言って箒を見せると、女の子は困った様に私達と女性へ交互に視線を送った。

「私達の事は良いから、あの西行寺幽々子だっけ? についていった方が良いんじゃないか? さっきからお腹が減ったって言い続けているぜ」

 女の子は飛び跳ねて、そうですねと言いながら私達へ頭を下げ、廊下に上がろうとする女性の後を追った。

 私達はそれを見送ってから、足元を見つめた。そこには掘り返された穴が空いていて、頭蓋骨が覗いていた。

「霊夢、あれも幸せなんかな?」

 霊夢は一瞬言葉に詰まったが、はっきりと言った。

「ええ、幸せよ。気がつかない内は」

「つってもいつも傍に居たんだろ? 普通気が付くんじゃないか?」

「大丈夫だと思う」

「何で?」

「それは」

「私が手伝ったから」

 唐突に頭上から声が聞こえた。

 見上げると、傘を差した女性が西行妖の枝に腰掛けていた。

 私を誘ったあの夜と同じ表情をしている。

 胡散臭い笑みだ。

 幻想郷を保つ為だけに動く式だと言われると、成程、しっくりくる。

 妖怪には心があり人間味を感じるが、頭上の式の主が浮かべる笑みからは、薄気味悪い程に感情が伝わって来ない。

「こんばんは。博麗の巫女と霧雨魔理沙」

 式の主は私達を記号で呼ぶと、笑みを深めた。

 その瞬間、辺りの景色が一変し、私達は山の中に居た。

 見覚えのあるその場所は、魔理沙の死んだあの冬の、思い出深い山の中腹の木陰だった。

Come what may, ReiMari and ReiAli run through the saddest day.

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